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吉田屋 九谷焼 登り窯跡(山代温泉) 小さい器に百人の仙人が描かれている(磁器独特の細かい仕事可能) |
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写真右: 昭和天皇 皇后さま。先代の光仙窯主人との思い出写真 |
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古九谷焼のはじまり 加賀前田藩の支藩大聖寺藩初代藩主・前田利治が藩内での焼き物の隆盛を願い陶工の後藤才次郎を佐賀・有田へ学びさせ、 加賀の山中温泉の奥地「九谷村」で焼かせたのが九谷焼の起こりで「古九谷」の名で今も伝わっています。 古九谷の歴史は数十年で終わりますが、100年を経て九谷焼再興の機運が高まりました。その中心として動いたのが、大聖寺の豪商・豊田伝右衛門です。 伝右衛門は再興の祭、古九谷窯跡の近くで吉田屋(豊田家の屋号)の名で「古九谷」と並び称される名品を生み出したものの、2年もたたないうちに山代温泉の越中谷(現在、窯跡展示館のあるところ)に窯を移します。 ※当時は最初に焼かれた地名が焼物の名になったため、不便な地であっても九谷村で開窯したと考えられています。 山代の地に窯を移したのは、良質な陶土を運ぶのに便利であったことと燃料の赤松に恵まれていたからです。 明治初年まで「古九谷」と呼ばれたのは、この窯を中心とした旧大聖寺藩領内で作られたものだけでした。 |
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現代の九谷焼原石(花坂陶石が主です) |
【山法師:やまぼうし】「いつき」とも「いすの木」とも呼ぶ 古九谷焼の染付や五彩(基本色)の輝く発色は、この木を燃やした灰と九谷の陶石を混ぜた灰釉を使用した為といわれている。五〜六月の頃、緑葉に生える純白の十字架の花、暑い夏の頃に赤い実を結び食べられる。晩秋には赤紫、共にこの木の見どころです。 |
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下記(写真)の金沢市内観光【モデルコ−ス】 6時間 |
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