福井観光 【丸岡城】(別名、霞ヶ城) 昭和23年までは国宝だった。福井地震で石崖などが崩れ 現在は国の重要文化財(日本一古い天守閣) ≪データでみる丸岡城≫ ●天守閣の高さ:12.6m●石垣の高さ6.0m●鯱の高さ1.66m●城山の高さ17m ●笏谷(しゃくだに)石瓦の重さ(1枚約20~50㎏)石瓦の枚数(約六千枚) |
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今から430年前の天正3年(1575)年、織田信長は北陸地方の一向一揆を平定するために大軍を派遣し、当時丸岡の東北4kmの山中にあった豊原寺を攻略し寺坊をことごとく焼き払った。信長はこの恩賞として柴田勝家に越前之国を与え、守護職とし、北ノ庄(現:福井市)に築城を命じた。勝家は甥の勝豊を豊原に派遣し豊原城を構えたが、翌天正4(1576)年豊原から丸岡に移り城を築いた。これが現在の丸岡城である。勝豊以後、安井家清、青山修理亮、同忠元、今村盛次、本多成重以下4代、有馬清純(きよすみ)以下8代の居城を経て明治維新となった。大正中期より昭和の初期にわたり濠は埋められ、現在は本丸と天守閣と僅かに石垣を残し城域は公園となっている。昔の城郭は五角形の広い濠を有し外郭に侍屋敷を配置し、さらに河川を利用し外濠を設け寺院民家を包容し城下町を形成していた。丸岡城は現存する天守閣の中で最も古い建築で、外観は上層望楼を形成して通し柱がなく、一層は二階三階を支える支台をなし、屋根は二重で内部は三階となっている。また、屋根が全部石瓦で葺かれているのが全国にも稀な特徴である。このような古調に富んだ望楼式天守閣は後の時代の松本城、彦根城、姫路城など層塔式天守閣と比較すると、いかに城郭建築の初期のものであるかがうかがえる。昭和9年国宝に指定されたが、昭和23年福井大震災により倒壊した。昭和25年重要文化財の指定を受け、昭和30年に修復再建された。 |
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【別名:霞ヶ城】 この井戸の由来天正3年(1575)織田信長が越前の一向一揆を平定後、柴田勝家の甥、伊賀勝豊の甥、伊賀守勝豊が豊原からここに移り築城した。豊原は一向一揆の最後の根拠地であった為、この地に築城後も一向一揆の残党が攻撃をしかけてくることも、しばしばであった。しかしそのたびごとに、この井戸の中より大蛇があらわれ、城に“かすみ”をかけて城の危機を救った。 この伝説が別名「霞ヶ城」と呼ばれる所以である現在も春先などに、すっぽりと“かすみ”に覆われた「霞ヶ城」を見ることが出来る。 |
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※本多作左衛門が家族に送った「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」(暗号文とか?)という日本一短い手紙の元となった手紙文を刻んだ石碑が建てられている。 (一筆啓上の里:一番短い手紙の発案者は、丸岡町の役場の職員とか?) |
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越前福井の名所・旧跡・観光地 |
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●さくら名所100選にも選ばれている(桜400本) ●〔形式:平山城〕天守閣から北西の眺め(坂井平野) ●全国で現存する12基の天守の中で日本最古の天守。 ●(二重・三階の初期望楼型独立式) ●石瓦の枚数、約6,000枚:重さ約120t ●石瓦の重さ・約20kg~50kg(一枚) ●「まるこの丘」と呼ばれる小高い丘の上(標高17m)に天守閣が残されている |
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秋 (別名:霞ヶ城) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
北の庄城の柴田勝家の甥に当たる柴田勝豊が北の庄城の 北の守りとして、天正4(1576)年豊原から丸岡に移り城を築いたのが現・丸岡城 |
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お城の屋根瓦が石瓦(笏谷石しゃくだにいし:雨に濡れると色が緑色に変わる)をのせているのも珍しい。 ※笏谷石は福井市の中心の足羽山でとれたが、現在は採石は行っておりません。昔は、北前船で地方へ運んでいました。 |
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鯱(石製しゃち:笏谷石しゃくだにいし) この鯱は、もと木彫銅板張りであったものを、昭和15年~17年の修理の際に、石製の鯱に 改めたものです。その当時は戦禍中で銅板の入手が困難であったため、やむなく天守閣の 石瓦 同質の石材で、つくりかえられたものですが、この石製の鯱も昭和23年6月の福井大震災により、棟より落下、現在の様な形で残っているものです。現在天守閣の上に乗っている鯱は、昭和二十七年~三十年の修復時に、もとの木彫銅板張りに復元したものです。 |
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. 06.25南都様 越前観光 20140708大阪在住 池田 様 |
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伝説 「人柱お静」 これは柴田勝家の甥、柴田勝豊が天正4年(1576)に丸岡に築城の際、天守閣の石垣が何度積んでもくずれるので人柱を入れるように進言するものがあった。そしてその人柱に選ばれたのが二人の子をかかえて苦しい生活をしていた片目のお静であった。お静は1人の子を侍に取り立ててもらうことを約束に、人柱になることを決意し、天主閣の中柱の下に埋められた。それからほどなくして、天守閣は立派に完成した。しかるに勝豊は他に移封し、お静の子は侍にしてもらえなかった。 お静の霊はこれを恨んで、毎年、年に一度の藻刈りをやる卯月のころになると、春雨で堀には水があふれ、人々は、お静の涙雨、と呼び、霊をなぐさめた。 「おほりの藻刈りに降るこの雨は、いとしのお静の血の雨」という俗謡が伝えられている。 |
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※福井県一の平野(坂井平野)は・全国で人気NO1・コシヒカリ.のふる里です。 ・福井県のお米「越南17号」がのちのコシヒカリのルーツです。(1956年名前を変える) ・1953年に「南越17号」この品種はイモチ病にかかりやすく、また稲が倒伏しやすいという性質があったため評判が良くない為、福井県では「奨励品種」には出来なかったとの事で福井(越前)から新潟福井県農業試験場(魚沼)へ行き、今日のコシヒカリになりました。 ・高さが長いため倒伏しやすいという性質があり新潟県農業試験場大沼で人工交配されて出来ました。 ・コシヒカリ(名前)の由来は越前(福井)・越後(新潟)の越に光るとから名づけた。 ※テレビNHK「以前にコシヒカリ米、プロジェクト Xで放映」 ※坂井平野(県一お米の生産地)に、ドント構えていたのが丸岡城(丸岡町)「一筆啓上の里(一番、短い手紙)」 ●福井県の焼き物 越前焼き 日本六窯の一つ! |
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