(個人)あすわ交通

予約:お問い合わせ
090-3888-4964
E-asuwataxi@po6.nsk.ne.jp
北大路魯山人:きたおおじろさんじん
(本名は北大路房次郎)の説明

近代美術史の中でも異色の芸術家
【人間国宝を辞退し、自分に正直!納得した生き方を貫いた人間】  

【陶芸家・書・絵画・料理(美食家)・漆芸・篆刻どれも一級品】

   北大路房次郎の生まれは、明治16324日(18831959)昭和341221日【没76歳】
京都市上賀茂神社社家(現.北区)の北大路清操・登女(とめ)、の次男として生まれる。
生まれて直ぐに貧農の家に里子として出されてから次々と養家が変わり6歳の時に、
木版師・福田武造・フサの養子となる。それでも小学校だけは卒業し、
養父、福田武造の木版の仕事を手伝いながら書や篆刻に天分を発揮!
独学している時「一時書き」の名手として名をうるようになり書家の志を
心に決めた。
25歳の時・京都の安井タミと結婚、長男が生まれる

(写真)山代温泉:いろは草庵にて





魯山人の焼き物に
多大な影響を与えた
恩師のお店(山代温泉)


【やまぼうし】
九谷焼に縁が深い木!

5〜6月の頃、緑の葉に生える
純白の十字架型の花


暑夏の頃に赤い実を結び実は、食べれます。晩秋には赤紫の紅葉、

その後、朝鮮・中国で書と篆刻を勉強し、帰国後、長浜(河路家)、京都、鯖江(福井県)、の豪商の食客として転々とした生活を送る日々であった。この頃、魯山人は「福田大観」と名乗っており福井県・鯖江の豪商、窪田朴了の所に居たときには、「福田房ノ介」と名乗っていました。石川県・金沢の旦那で細野燕台と出会う。
燕台は大観(魯山人)が彫った作品に惚れ込み、金沢に来るように勧めた。大正4830日、福田大観は細野家の食客となりその後細野氏の友人である吉野屋旅館(山代温泉)の看板などの仕事を頂きながら、吉野家の別邸(:いろは草庵)にて6ヶ月間過ごす。
◆この半年間が魯山人にとって人生の岐路といっても大げさでない出会いを致しました。
 吉野家の別邸に仲の良い下記の四名が月一回集まり、茶会が行われていました。
須田菁華:(九谷焼陶芸家・山代温泉) 九谷焼陶芸の師
太田多吉:
(山の尾・金沢の老舗料理旅館) 日本料理の師
吉野治郎:(吉野屋の主人・山代温泉旅館)
細野燕台:(茶人・漢学者)
魯山人は、己の人生を独学で道を切り開き、人様から奇人・変人と言われようが、言いたい事といい、したい事をし、明治.大正.昭和と生き抜いた近代芸術家です。


福井県鯖江市本町 旧道沿い・呉服屋の【あめや店内に置かれています。


北大路魯山人が彫った看板 看板は呉服店正面奥に!横2m40cm96cmの大きさ、暑さは10cm欅(ケヤキ)の一枚板に「呉服」とノミの彫った後が鮮明に残っています。看板は次のように彫られています。右上、の中に 寿 の字、 真ん中に大き字で 呉服 の字、左上には次のように、大正二年菊花月 為桑原老舗創業 百年記念 大観作左下には 長宜 子孫
この頃、このような大看板を好んで彫っていました。鯖江の地の後は石川県の山代温泉で大きな看板などを彫っています、名の知れたところでは「あらや滔々庵(とうとうあん)TEL(0761)77-0010」「白銀屋」「吉野屋」などにも作品があります。また、名を福田大観と名乗っていました。

因みに、
人間国宝」を辞退した人は過去2名陶工北大路魯山人氏と河井寛次郎氏のこと ]


お客様のペースで観光ご案内致しております。
「いいね金沢観光」
観光・送迎ハイヤーグループ
(代表) あ す わ 交 通
石川県金沢市八日市1丁目120−7
電話番号 090-3888-4964 FAX 076-241-4213
メール asuwataxi@po6.nsk.ne.jp
メール返信は24時間内に送りますのでよろしく願います。

 
トップに戻る