本丸及び主要郭の説明
この郭は、末森城中最も高い位置にあり近世に入ってから「本丸」の名前で呼ばれています。昭和61年度(1986)に礎石硫認のための調査を実地したところ、本丸主門の基礎石を始めとして、数十箇所の礎石と思われる反応が得られました。このうち、数ヵ所については、試堀し確認しました。建物の規模・構造形態などをしるには、資料的には不足していますが、基礎石を必要とする。かなり重量のある構造物があったことが推量されます。
なお、本丸にあった建物は、末森城廃城後それぞれ移築されており、本丸主門については、金沢城の鵈の丸門として移され、宝歴9年(1759)に焼失するまで実在していたほか、本丸の建造物については、末森合戦に功績のあった者に払い下げられており、これも明治の大火で焼失するまで津幡町地内に実在しておりましたが、現在では伝承以外にその威容を知る手掛りは無くなってしまいました。ただ、町内の幾つかの寺院については、末森城の建造物の解体によって得られた、多くの建築材を転用したことも知られており、今後の調査によってどのような建造物があったかを知る手掛かりになるものと考えられます。
この本丸を中心として、北側に前田利家が「末森合戦」時に入城した搦手長坂があり、南側に二の丸、三の丸、若宮丸、若宮とつづき、この主要な郭を囲むように二重に腰曲輪が巡っています。また、東側の谷あいには馬掛場の通称を持つ大きな平坦面があり、城主の館が在ったのではないかと考えられています。西側には腰曲輪を形成する一方鎗場の通称を持ち、ここから向山砦に連なる武者道が、三の丸・若宮丸間の大手道と平行してのびています。
|