「移動教室」
教室に一歩入って、「げっ」と思った。
ひときわ目立つその体躯を、精一杯丸めて机に突っ伏している、巨大な黒猫ならぬキツネの姿が目に入ったからだ。
実験室の特等席を狙って足早にやってきた桜木は、その場所が流川にとっても特別な場所だとは知らなかった。こうして出くわしたのも、初めてのことだ。
今は昼休み。授業はとっくに終わっている。
移動教室で、こうも大っぴらに寝ていられる根性も凄いと思うが、チャイムにも気付かないで眠り続けていることにも驚きだ。
どうしたものかと思いながら、廊下の喧騒をちらりと振り返り、桜木はそっと後ろ手に戸を閉めた。
二人だけの空間が、そこに切り取られる。
気付くかな、と思った。
流川は気付くかな。桜木がここにいることに。
ここに、二人っきりでいることに。
桜木はそっと流川に近付いてみる。
教科書とノートとペンケース。それに流川は覆い被さっている。
腹減らねぇのかな、とぼんやり心配になり、起こそうかと一瞬思う。
けれども、それはやめた。
流川は気付くかな。桜木がじっと見詰めていることに。
息を詰めて、桜木は眺めていた。実験台を間に挟んで。
何故かいつもひんやりしているこの教室で、桜木は熱を持ったように動悸を速めていた。
誰も来ないだろうな、と、一度廊下に目を走らせて、桜木は再び流川に視線を戻す。
流川は気付くかな。桜木が抱いているこの気持ちに。
そうして桜木は自嘲気味に笑った。
やおら鉛筆を取り出すと、流川の背後から机の上にそれを走らせる。
覗き込むように流川が気付いていないのを確かめて、桜木は教室を後にした。
予鈴をバックに、流川は声をかけられた。
「もう五限目が始まるぜ」
ふいと上体を起こして、目をしばたたく。
回りを見渡せば、慣れない景色に、見知らぬ顔ぶれ。
声の主であるらしい水戸を背後に認めて、流川はもう一度教室内を見回した。
「それとも、花道の代わりにここにいるか?」
隣に腰を下ろしながら、にっと笑う水戸を、流川は軽く一睨みした。荷物を手に席を立つ。
落とした視線が何かを拾った。
「さっさと屋上あとにして、あいつ、一体どこの席取りに行ったんだか」
「どあほう。てめーが起こせ」
同時にこぼれた二つの呟きが、人知れず室内に消える。
「どうかしたのか、流川」
「……別に」
それだけ言うと、流川は去って行った。
見送った水戸は、その後机の上の落書きに気付いて、ため息混じりに苦笑する。
『キツネくん。早くおきなさい』
大きな字は照れ隠しのつもりなのだろうか。
片肘をついた水戸は、窓の外を見やりながら、「空が青いねぇ」と小さく独りごちた。
2002/04
⇒きまぐれにはなるはな