LOVE LETTER

        ●電話の主

 扉を開けると、一人しかいなかった。
「あら、桜木さん。今戻られたんですか」
 にじむ汗を拭いながら、荷物を自分のデスクに置く。
「えぇ、まぁ。課長、もう帰っちゃったっすか?」
「まだだと思いますけど。さっき企画部にいかれましたから」
「あそこも残業っすか」
 答えながら、簡単に書類をまとめる。彼女はくすりと笑った。
「スキーウエアですって。課長、自分からしゃしゃり出てったみたい。あの人、スキープロ級って本当だと思います?」
「いや、オレはよくわかんないっすけど、そういう噂っすよね。それにしても、まだ七月になったばかりだってのに、もう冬の話っすか」
「企画開発部は先を行くところ。我々営業部は、地道に今を行くところ。今日の成績は?」
 桜木は、ひらひらと紙を振りながら答えた。
「いつもの通りっす。じゃあ、報告書、課長のデスクに置いて、お先しようかな」
「先輩を差し置いて帰ろうって言うのか、三年目」
 おどけた彼女の言い様に、桜木は微笑する。
「何の残業っすか。手伝いますよ」
「冗談です。あぁ、そうそう。四時頃、電話ありましたよ、桜木さんに」
「どちらからっすか」
「それが名乗らないの。伝言承りますよって言っても、いいですって切れちゃった」
「そうっすか」
「女の人からだったらね、彼女かって騒げるんだけどね」
 桜木は苦笑する。
「んー。んじゃ、本当に帰っていいんすね」
「はーい、お疲れ」
「お疲れ様っす」

 会社を一歩出たところで、桜木花道は声を掛けられた。
 反射的に振り返った。それが自分に向けられた呼び掛けだと、考えないでも分かった。
 夕暮れのオフィス街。そこに流川楓を見つけて、桜木は思わず笑顔になる。
「どあほう」
「よう、ルカワ。久し振りだな」
 六年振りの、再会だった。

        ●近況報告

「元気だったか? こんなところで何してんだ?」
「……てめー待ってたに決まってんだろ、どあほう」
「その憎まれ口も、久し振りだといっそ懐かしいぜ。……六年振りか。ルカワ、おめーメシ食った?」
「……まだ」
「んじゃ、一緒に食おうぜ。うちの近くに、行きつけの店あんだけど、そこでいいか? 定食屋。おふくろの味っつーより、親父の味だけどよ」
 頷きながら、変わってねーなと流川は思う。桜木は以前から、家庭の味に飢えていた。家庭そのものに、憧れていたのかもしれない。
 電車で四駅ほどやり過ごし、二人はホームに降り立った。
「このすぐ近く」
 定食屋というより、はっきり言って食事処だった。昼間は定食、夜は一品料理・酒もあり、という店。
「こんばんはー」
「おう。指定席、空いてるぜ」
「あらー、珍しいわね。お連れさん、お友達?」
「高校ん時の」
「ども」
「大学の時でさえ、お友達なんて連れて来なかったのにねぇ。今日は何にする?」
「んー、いつものでいいっすよ。おめーどうする?」
「いつものって?」
「日替わり定食、大盛り。さらにおすすめの一品」
「そんでいい」
「ん。んじゃ、いつもの、ふたつ」
「あいよ」
「この時期戻って来るなんて、珍しいんじゃねぇ? いくらファイナルに残らなかったからって、いつもだったら来期の準備だ何だで、忙しいんだろ? 結構」
「よく知ってるな」
「そりゃぁな。雑誌だけは見てっから。……そういやおめー、シーズン後半、ほとんど出てなかったみてぇだけど、どっかヤッたのか」
「怪我なんかしてねーよ」
「みてぇだな」
「……まだ、言えねー」
「ふーん……。で、いつまで日本にいられるんだ?」
「……」
「ん?」
「あとで話す」
「……そ?」
「ぐっちゃべってばっかいねぇで、酒でも飲んだらどうだい」
「お。酢味噌和え」
「何言ってんだい、父ちゃん。この子はお酒弱いんだから、すすめんじゃないわよ」
「おう。すっかり忘れてたぜ。そんな顔してんのによ」
「顔で酒飲むわけじゃねぇだろ」
「半分は顔で飲むんだよ」
「……っす」
「あいよ。ほれ、あんたも父ちゃんと漫才やってないで、食べちゃいな」
「漫才なんてやってねぇっすよ。ったく。……いただきます」
「あいよ」
「うまいか、ルカワ」
「うまい」
「だろー」
「いつも、ここに来てんのか」
「んーん? いつもってこたぁねぇけど。メシ作んのめんどくさくなったり、買い物し忘れたときとかは、ここ」
「なぁにが、いつもってこたぁねぇ、だ。今でこそそうだけど、学生のときは毎日ここに来ていたじゃねぇか。お蔭で夜は定食ねぇってーのに、作らされる俺の身にもなれってんだ」
「いいじゃねぇかよ、ツケもきっちり払ったんだから。今となってはいい客だろ。大体、ちまちま頼むより、定食の方が楽じゃねぇか」
「そりゃおめー、おめーさんの勝手ってなもんよ。――はいよ、いつもの」
「あいよ。――はい、おまちどうさま」
「おー、ありがと。おばちゃん」
「ども」
「はーぁ、きれいな子だねぇ。あんたの友達とは思えないよ」
「部活が一緒だったんだよ。最初はいけすかねぇヤローでさ、しょっちゅうケンカしてた」
「てめーが一方的に突っ掛かってきていただけ」
「な、な? 口悪いだろ、こいつ」
「るせー」
「オレのことなんか、どあほうって言うんだぜ」
「そりゃ間違ってねぇんじゃねーのかい」
「そのとーり」
「……くそう。二人して」
「まぁまぁ。それで? そんな二人がどうして仲良くなったんだい?」
「別に仲良くなったわけじゃねぇよ。――借りが出来たんだ」
「借り?」
「金がなくて三日間ろくに食ってなくてさ。それがこいつにバレたんだよ。そしたら、どういうわけか、メシおごってくれて。おふくろさんがいい人で、急に家に行ったのに、すげぇご馳走してくれたんだ。またいつでもいらっしゃいね、て言ってくれて」
「本当に来た」
「うるせえ。背に腹はかえられなかったんだよ」
「こんなヤツが主将だったなんて」
「……思い出したぞ。おめーがあんならしくねぇことしやがるから、あのあと急に雨降ってきたんじゃねぇか」
「ちゃんと駅まで送った」
「駅から家までずぶ濡れだ」
「カサ貸すっつったら、いらねーっつったの、てめーじゃねーか」
「はいはい。わかったよ。この子はむかしっから、こうだったんだね」
「……おばちゃん」
「もっと話聞いとりたいけど、ちょっと混んできたからねぇ。喧嘩なんかすんじゃないよ」
「今更しねぇすよ、この年で」
「どうだろねぇ。このままほっといたら、喧嘩しそうだったけどね」
 言われて桜木は口をつぐんだ。
 それから二人、おとなしく食事をとり、店を出た。給料が出たばかりだとかで、桜木の奢りだった。
 むかしの借りを返すだけ、と言っていたが、流川は、それじゃ全然足りねーと思った。

 店の目の前にあるアパートが、今の桜木の住まいだった。
「な。近いだろ」
「いつ引っ越したんだ」
「あー……、前のアパートを出たのは、大学一年の時だったかな。建て替えるってんで、そのまま出たんだよ。寮に入ることにしてさ。そのほうが楽だったから。ここに来たのは四年の時。――オレ、バスケやめたんだよ」
「……知ってる」
「……あっそ」
 ドアの鍵を開けて、中に入る。
 靴を脱ぎながら、流川は言った。
「同じとこ、同じようにやってんなよ、どあほう」
「音信不通だったくせに、何でも知ってんだな、てめー」
 チェーンを下ろして振り返ると、部屋に突っ立ったまま、こちらを見ている流川と目が合った。
「さがした」
 とりあえず座れ、と桜木は勧める。
「てめーが、どこのチームに入ってんのかと思って」
「同じとこ入ろうって?」
「どあほう」
「へいへい」
「なのに、てめーはどこにもいなかった」
 桜木は流川を見た。何を考えているのかは相変わらずで、どう言葉を返せばいいのか分からない。
 一瞬の沈黙が訪れ、それを切り裂くかのように、電話が鳴った。桜木は知らずほっと息をつく。
「ちっとごめんな」
 流川に断ってから受話器を取り上げた。
「はい、桜木です」
 相手は、赤木晴子だった。
『あ、桜木くん? こんばんは、晴子です』
「ハルコさん」
『久し振りね』
「そうっすね」
『元気だった?』
「はい」
『あのね。さっき流川くんから連絡があって、桜木くんの会社とか教えたんだけど……大丈夫だった?』
「あ、はい」
『もしかしたら、桜木くんのところに顔出すかもしれないけれど、ケンカしないでね』
「大丈夫ですよ」
『本当に?』
 くすくすと笑っている。
『桜木くんや流川くんと話していたら、何だか懐かしくなっちゃった。またみんなで会いたいね』
「そうっすね」
『あ。それじゃ、それだけだから。体には気をつけてね』
「はい。ハルコさんも」
『ありがとう。――あ、たまにはお兄ちゃんに連絡してあげて? 元気にしているのか、気にしてたから』
「わかりました」
『それじゃ』
「はい。おやすみなさい」
 電話を切って、桜木は流川に向き直った。
「ハルコさんに聞いて、あそこで待ってたんか」
「赤木先輩なら、てめーのこと知ってると思って。オレも、そんくらいしか連絡とれねーし」
「不精もん」
 流川は、どっちがという顔をした。桜木は苦笑する。それからふと、時計を見た。
「てめー、電車の時間、知ってんのか? 何時だ」
「泊まる」
「何!?」
「泊めろ」
「……家の人は知ってんだろうな」
「いくらオレでも、手ぶらで日本に越してこねーよ。一度家に寄った」
「だぁから、おめーが今日ここに泊まるってことを、家の人は知ってんのかって……おい、ちょっと待て。越してこねーって、おめー、もうアメリカには戻らねぇつもりか? あっちのチームはどうなったんだ」
「契約の更新はしてねーよ」
「でも、そんなこと全然書いてなかったぞ」
「まだ公表してねー。色々めんどくせーし」
「あぁ、そう……あ、だからさっき、まだ言えねーって」
 頷く流川。
「でも、何でこっちに帰ってくる気になったんだ? あっちでも結構いい線いっていたじゃねぇか」
「だから」
「ん?」
「だから別にこれ以上アメリカにいる理由もなくなったし……てめーが気になって」
「オレがぁ!?」
「全然話きかねーし」
「ゴリかアヤコさんか、誰か言ってんのかと思ってたぞ」
「聞いて初めて教えてくれた」
「じゃ尚更、何でこっちに帰って来たんだ? オレはもうバスケやってねぇってのに」
「……赤木とは、しょっちゅう会ってんの」
「ハルコさんか? 別に、偶然会ったら食事する程度だけど。ゴリともたまにしか会わねぇし」
「……」
「おめーはどうなんだよ。彼女いたのか? こっちまで追っかけてくんじゃねぇの?」
「いねーよ」
「相変わらずだなぁ」
 桜木は笑った。流川はそれを気付かれないように見ていた。

        ●六年前のあの日

「ルカワ。オレ会社行ってくっから、鍵ちゃんとかけて、郵便受けの上にくっつけといてくれよな。んじゃな」
 桜木の声を、流川は半覚醒の状態で聞いていた。布団の中でモゾモゾしていると、ドアが閉まる音がした。それで流川は、ようやく起き上がる。
 テーブルの上には、流川の分だろうか、食事の用意がしてあった。
 何時だと思って時計を見てみる。まだ七時半を過ぎたばかりだった。
 毎朝こんな早くに出て行くのか、と流川は思う。
 2Kのアパート。玄関を開けたら、すぐ左にコンロや流し台があり、右手には風呂とトイレ。いわゆる台所を過ぎるとすぐ居間があり、その右手奥、居間を襖で仕切ったかたちで寝室がある。ちょっとしたベランダが、二部屋にまたがるようにあった。
 昨日は先に流川が風呂に入って、ちゃんと布団が敷いてあったけれども、そのまま桜木のベッドで眠ってしまった。布団はもうしまわれている。少し悪いことしたかな、と思った。
 朝食を食べて、これからどうしようかと考える。移籍の件については、すべてエージェントに任せてある。今はまだ、やらなければならないことはない。
 やらなければならないこと。
 流川は頭をかいた。
 桜木に会いに来たのには、理由があった。

 会社から帰ってきた桜木は、指定した場所に鍵がないことに焦っていた。いくら探しても見つからない。
 もしやと思ってドアノブに手をかけてみれば、それは難なく開いた。
「あのヤロー……鍵かけねぇで出てくんじゃねぇよ」
 呟きながら、ドアチェーンをかけたところで、ふと目の端に映ったものに気付く。
 靴があった。でもそれは桜木のものではない。顔を上げて見たが、部屋の中は真っ暗だった。
「……ルカワ……?」
 寝室をのぞいてみる。流川は寝ていた。
「まだいたのかよ……」
 呟いて、桜木はため息をついた。呆れた。布団も何もかけないで、ごろりとベッドの上に寝っ転がっている流川の顔をしばらく眺める。目を覚ます気配はなかった。
 桜木はそっと、ベッドサイドの引き出しに手を伸ばす。その中から、閉じたままの封筒をひとつ、取り出した。もう一度流川を見、封筒に視線を落とす。
「捨てずにいるオレもオレだけどな」
「……何、それ」
「……ルカワッ!」
 とっさに後ろ手に隠して、桜木は振り返った。ぼーっとした感じで、流川は上体を起こす。
「……いつ、帰ってきたんだ」
「今さっき……」
「わり……待ってるうちに寝ちまったみてー」
「あ、そう……」
「……何持ってんの」
「う、別に。おめーこそ、待ってたって」
「あぁ、話」
「話?」
「話、ある」
「あ、じゃあ、ここじゃ何だから、あっちの部屋、行くか?」
 流川から死角になるように封筒を持ち替えて、桜木は移動した。そんな桜木を、流川は訝しげに見る。
「話って?」
 テーブルを挟むように腰を下ろして、桜木は聞いた。
「あの時……六年前。オレがアメリカ行くとき」
「……おう」
「駅で、先輩とか見送りに来た」
「……おう」
「あの時、てめー、来なかった」
「……おう」
「何でだ」
「……」
 ちらりと、上目遣いに桜木は見た。流川はひとつ、ため息をつく。
「言いたいことがあった」
「……待ってたんか」
 流川は頷いた。視線を落としていた桜木は、気配でそれを感じ取る。
「そっか。悪かったな」
「そんなこと聞いてんじゃねー」
「これ」
 唐突に、隠していた封筒を、桜木はテーブルの上に置く。
「――手紙?」
 流川は聞いた。宛名が下になっていたそれを、桜木はひっくり返す。
「……オレ宛……誰から」
「……オレから」
「わざわざ書いたんか。言いたいことがあるんなら、口で言ったほうが早いんじゃねー」
「……六年前に書いたやつだ。あの日、渡せなかった」
「……」
 何か言ってくるだろうと、桜木は身構える。けれど、流川は何も言わなかった。桜木は続けた。
「行ったんだ。会えなかったけど。向かいのホームから、ずっと見てた」
「……何で」
 自嘲するように、桜木は少し笑う。
「さぁ。……怖かったんじゃねぇ?」
「何が」
「いろいろ――これ、読めよ。手紙って程でもねぇけど」
 流川は封筒を開けた。中には便箋が一枚入っていた。そこにはたった一言、『好きだ』の文字。
「――どあほう」
 声だけでは、流川がどう思ったのか、桜木には分からない。もっとも、顔を見たところで、表情を読み取れる自信もないけれども。
「どんな顔して会えばいいのか、わかんなかった。おめーに会ってしまったら、どうなるか分かんなくて怖かった。こんなもん渡していいのかも分かんなかった」
「――テープ」
「ん?」
 何の脈絡もない単語に、桜木は顔を上げる。
「テープ、くれただろ。アメリカ行きが決まったとき、てめー」
「……あぁ」
 何となく思い出す。あのテープには、確か……
「あの返事、するつもりだった。あの時」
「……返事?」
「オレも好きだって」
 ラブソングばかり、入れた。
「――ルカワ」
「六年も、かけさせんじゃねー、どあほう」

side R

きまぐれにはなるはな