それに気付いても
全日本ジュニアの合宿から帰ってきて、数週間が過ぎた。季節もだんだん秋めいてきて、汗を拭わずに放っておくと、肌寒さを感じるようになった。
桜木花道は、まだリハビリから戻っていない。
彼のいない体育館に、流川は違和感を感じることなく、毎日練習に打ち込んでいた。何かとうるさい桜木がいないお蔭で、流川は邪魔をされることがない。充実した時間を過ごしていた。
ただ、チームメイト達は、事ある毎に桜木の話をしていた。
元気にしているだろうか。
背中の具合は、どうなのだろうか。
いつ頃になれば、バスケを再開出来るようになるのだろうか。
妙に自信過剰で、負けず嫌いで、図々しくて、だれかれ構わず対等に接する、髪の赤い桜木は、涙脆くて子供じみている所為か、大概まわりに好かれている。流川にとっては、ただの傍迷惑な素人でしかなかったが。でもそれも、夏までの印象で、今では幾らか、桜木に対する評価も変わってきている。
対山王戦での興奮と充足感は、そう簡単に忘れることは出来ない。桜木と流川、二人が初めて力を合わせて、手にした勝利だった。
心待ちにしているわけではないけれども、流川も桜木の帰りを望んでいるのは、確かだった。
ある日、いつものように部活に参加していた流川は、何かが少しおかしなことに気付いた。
別にメニューが変わったわけでも、自分の体調がおかしいわけでもない。雰囲気が悪いということもないのに、流川は何故か、妙な違和感を感じていた。本当のことを言えば、数日前からだ。何かが、いつもと違う気がする。はっきり何とは、普段周囲に気を使わない流川には言えないけれど。
漠然としたわだかまりを抱いたまま、何日かが過ぎた。
いつもであれば、桜木からの定期便が届く頃だ。なのに、それが届いた気配がない。それどころか、あれだけ毎日のように話していた桜木のことを、誰一人口にしていないことに、流川は気付いた。
このところの違和感は、それだったのだ。
まるで示し合わせたかのように、皆一斉に桜木と言う名を口にしなくなっていた。
何故なのか、と、今度は不安になる。
桜木に、何かあったのだろうか。
そういえば、たびたび部の方に顔を出していた、桜木の親友の水戸洋平も、全く姿を見せなくなった。
背中が悪化したのだろうか。手紙も書けなくなるほどに? 桜木のことだから、リハビリを頑張りすぎて逆効果、ということもありそうだけれど。
でも、それにしたって、どうして流川には知らされていないのか。確かに、桜木との仲は良いとは言えないけれども、自分にだけ隠しておくというのもおかしい。もしかして、報告されたけれども、聞いていなかったのだろうか。その可能性は充分に考えられる。
様子を見に行こうかとも思ったけれども、流川には桜木の入院先がわからなかった。どうしようかと考えて、流川は、以前海岸沿いで桜木と出くわしたことを思い出す。
確率は低いけれども、あの場所に赴くことしか道はなかった。
日曜日に、流川はランニングを兼ねて、海へと向かった。浜辺へ下りて、おおよその見当をつけ、走り出す。しばらくして、前方に影を見つけた。
両腕をまっすぐ上に、背伸びをしている。
近付くと、髪の色が赤いことがわかった。
いた。桜木だ。
知らずに緊張していたらしい。気が付けば、ほっと息をついている。
流川は、桜木の傍まで寄って、足を止めた。袖口で汗を拭っていると、目が合った。
当然「何しに来た」とか言いながら、いつものように理由もなく突っ掛かってくるものだと思っていた流川は、桜木の反応が見事にそれを裏切ったのに、面食らった。
微笑んだのだ、彼は。
そして一度深呼吸した後に、声を掛けてきた。
「いい天気だな、今日は」
「……そうだな」
ぼそりと答えながら、桜木を凝視する。
人違いでは、なさそうだ。
では、一体、何だ?
「暑くもねぇし、風もちょうどいい。ランニングには、もってこいの日だ。なぁ」
桜木の態度は普通だ。日頃、皆に接している時と変わらない。でも、流川に対してこうなのはおかしい。今まで、一度だってこんなことは、なかったはずだ。
どういうつもりだ?
睨み付けたままの流川から、桜木は目を伏せるように視線を外すと「さてと」と身を翻した。
「じゃな」
肩越しにこちらを振り返り、桜木は砂の上り坂へと向かった。流川はじっと、それを見送る。
何か、変だ。
何かがおかしい。
翌日。珍しく急がなくていい時間に家を出た流川は、ちょうど登校途中の彩子に会った。
「あら、流川、おはよう。珍しいわね、あんたが朝練のない日に、寝坊しないなんて」
彼女は部のマネージャーで、流川とは中学時代からの付き合いだ。気さくで姉御肌の彩子には、さすがの流川も頭が上がらない。何かあればすぐ、どこぞから特大のハリセンを持ち出して、容赦ない力で頭を叩くのだ。前主将の赤木が引退してからは、もっぱら桜木との喧嘩の打ち止め役だ。
「……センパイ。どあほうの背中、もう治ったんすか」
「え? 何?」
「どあほうの背中」
だって昨日、桜木は伸びをしていたのだ。背中が治っていなければ、そんなことは出来ない。
そして、治っているのなら、何故部活に復帰しないのだろうと思った。部活どころか、桜木はまだ、学校に来ている様子すらない。
「どあほうって、何のこと?」
からかわれているのかと思って、流川は彩子を見た。しかし、とぼけているわけではなさそうだ。彼女は本当に、何のことかわかっていないらしい。
「……何でもねーっす」
流川は、はぐらかすしかなかった。何がどうなっているのか、全くわからなくなってしまった。
残る望みは、水戸洋平。
運良く、流川は昼休みに水戸を見つけることが出来た。いつもつるんでいる他の三人も、一緒だった。
「水戸」
廊下で呼び止めると、一行は驚いた面持ちで振り返り、足を止めた。
「これは光栄だな。あの、人の名前どころか、顔さえも覚えないって流川楓に、呼び止められるなんてよ」
シニカルに笑って、水戸は言う。
「何か用か」
「桜木は今、何してんだ」
「……桜木……? 桜木花道か?」
「洋平、それ誰だ?」
「ほら、いたじゃねーか、学中ん時」
「あ、確か、母親いなくてよ。親父と二人暮しだったのに、その親父も中二ん時、死んじまって」
「ああ、何か、髪の赤っぽいヤツ。そういや、いたなぁ」
「あいつー、卒業してすぐ、働いているはずだぜ。パン屋、だったかなぁ」
「パン屋、パン屋」
「たまーに見るぜ。配達しているとこ」
「桜木が、どうかしたのか? 流川」
「――住んでるとこは?」
「そこまでは知らねぇけど、働いてんのは、商店街のパン屋だぜ」
「……助かった。すまねー」
「いんや、別に」
何かあったら、またどうぞ。と、水戸は言って去っていった。
流川は混乱する。自分の知っている桜木は、中学を卒業して、この湘北高校に入って、ど素人のくせにバスケ部に入部して、信じられない速さでプレーヤーとして成長して、全国にまでいって、あの最強といわれる山王に、最後まで立ち向かっていった男だ。
その時痛めた背中のリハビリを、今しているはずなのだ。
水戸も嘘を言っているようには見えなかった。
どういうことなのだろう。
今ここにいる桜木は、流川の知っている桜木花道ではないのだろうか。
その日、流川は恒例の自主練をやることなく、チームメイトの誰よりも早く、コートを後にした。着替えを済ませ、その足で駅に向かう。朝、自転車で来なかったことを、少し悔やんだ。
水戸が教えてくれた商店街は、次の駅を下りてすぐにある。パン屋の位置はわからなかったが、探していけば見つかるだろう。
思ったとおり、パン屋はすぐに見つかった。しかし、店先に桜木の姿を見出すことは、出来なかった。配達に行っているのか、奥にいるのか、それとももう、帰ったのであろうか。
ふと、顔を上げると、前方に見慣れた赤い頭が抜きん出ていた。流川は足早に近付く。
「桜木」
声を掛けると、振り向いた。声の主がわからなかったのか、きょろきょろと辺りを見回している。ようやく流川が間近まで寄ったとき、桜木は「ああ」と声を上げた。
「おめー確か、昨日会ったよな」
流川は訳もなく、一瞬息を呑んだ。喉の奥がつっかえた。
「どうかしたのか?」
声を掛けたまま、何も言わない流川を不思議に思ったのか、桜木は覗き込む。
実際、流川は桜木に会って、何かを言おうと思っていたわけではなかった。ただ、『会う』ことだけしか、考えていなかった。そのことに、ようやく気付いて、どうしようかと思案に暮れる。桜木は、じっと待っている。
「あっれー、流川? あ、やっぱりそうだ。こんなところで会うとは思わなかったなぁ」
「センドー」
「あ、桜木。……あれ、二人、知り合い?」
流川は後ろを振り返る。陵南高校バスケ部の、仙道彰が立っていた。
「うー、知り合いってほどでもねぇけど」
なぁ、と同意を求めてくる桜木に、流川は頷けなかった。代わりに眉間にしわを寄せる。
「そ?」と、仙道は眉を上げて、そのまま流川に視線を移した。しばらく見詰めて、窺うようにもう一度桜木を見る。
「えーと、流川。俺達これからカラオケ行くんだけど、一緒に来る? 福田や越野や、彦一とかいるけど」
「……いかねー」
「そう? ――それじゃ、桜木。行こうか」
じゃーな、と言って、仙道は歩き出した。桜木は「おう」と言葉を返したけれども、まだ流川の前にいる。心配そうに、じっと流川を見た後、小首を傾げてこう言った。
「ルカワ……だっけ? 何かよくわかんねぇけど、元気出せよ」
な、と言って笑って見せる。その瞬間、流川ははっきりと、悲しいという感情を自覚した。
桜木が去って行った後も、流川はそこに立ち尽くした。
認めざるを得なかった。
あれは、流川の知っている桜木ではない。
流川の知っている桜木花道は、この世界にはいないのだ。
何故なのかはわからない。どうしてこんなことになってしまったか、流川にはわからない。頭は真っ白なくせに、目の前はただ暗かった。
そして。
そしてようやく、流川は自分でも知らずに抱いていた想いに気付く。
泣きたくなるのは、こういう時なのだろうか。涙なんて、滲んできさえもしないけれど。
どうすればよいのだろう。どうしようもないのだろうか。
今更、この想いに気付いても……。
1999/04
⇒きまぐれにはなるはな