春休みのディストレス[2]

 翌日も過ごしやすい日だった。
 あれからアパートまで帰るのが面倒になった花道は、そのまま父と恵子さんの家へと転がり込んだ。二人は今、この病院の近くに住んでいる。
 たまたま家にいた恵子さんは、花道の頭を見て驚いていた。校則の所為かと聞かれて、気分転換だと答えた。高校へ行っても、これまでのスタイルを変えるつもりはない。そう言うと、恵子さんは嬉しそうに笑った。
「花道くんのあの色は、きれいなんてものじゃないわ。もったいないわよ、やめたりしちゃ」
 流川がいつ頃来るのかわからなかったけれども、父も恵子さんも仕事に出かけてしまったので、花道はまだ午前中のうちに昨日の場所へ向かった。さすがに流川はまだ来ていなかった。
 とりあえず、花道は隣の公園を散歩する。
 流川はどこに住んでいるのだろう。
 少なくとも、この近くではないことは確かだ。この辺りのことは知らないようだったし、片瀬海岸でランニングをしていたのだから、どちらかと言うと、あちら方面だろう。とすると、花道のアパートの近くなのだろうか。
 けれども今まで会ったことがない。学区が違うということは、線路の向こう側なのだろう。それならば、自転車で来ていたことも納得がいく。
 年は、たぶん同じだと思う。
 あれだけバスケが好きならば、当然部に入るだろう。もし年上ならば、春休み中も部活があるはずだ。この時期暇なのは、新一年生ぐらいである。流川のあの背格好から言って、新中学生ということはないだろう。
 流川の姿を思い出しながら、もてるんだろうな、とぼんやり思う。
 男の自分ですら、見惚れてしまったくらい、バスケをしている流川はすごい。
 女の人から見れば、それはかっこいいと言うものなのかもしれないが、花道はきれいだと思った。
 バスケをしている流川はきれい。気迫があるほど、きれいだった。


 まだ来ていない。
 流川は、しばらくコートのほうを見つめて、ため息と共に自転車を降りた。フェンスにもたれかけるように自転車を止めると、何となく気落ちしたように目を伏せながら、ベンチへ歩み寄った。バックに付けてある腕時計をちらりと見ると、まだ昼前だった。早すぎたのかもしれない。
 いつもであれば、朝の五時頃からリングのある広場に向かう。授業や部活のない日は、ゲートボールを楽しむお年寄りが来る十時頃まで、一人で黙々とやっている。
 勝手の違った昨日は、お年寄りの変わりに役場の人間がやってきた。はじめのうちは、「ちょっと点検」だったはずが、どうやら古すぎるリングが気に入らなかったらしく、取り替えることになったようで、「三日ばかり使えない」と言われた。それで、待っていても無駄とわかり、ランニングに変更したのだ。
 確かに、一見リングとはわからないあれを、新しいものに替えてもらえるのだから、正直嬉しいけれど、三日もボールに触れないのは勘弁してほしかった。
 流川は、ボールを手にとって、花道が来るのを何となく待った。
 別に待ってやる義理はない。さっさといつものように練習を始めればいいのだ。けれども流川は、しばらく待った。待ちながら、ふと思った。
 昨日、花道はどうやって帰ったのだろう。
 思い返してみると、どう考えても、彼はこの辺りに住んでいるとは思えない。
 歩いて帰ったのだろうか。歩いて帰れるような距離なのだろうか。何も言わなかったということは。
 別に。どうでもいいけど。
 自分で答えを出せないことを考えるのは、得意ではない。
 心の中で、半ば吐き捨てるようにつぶやいて、流川はベンチを立った。待ってやるのもこれで終わり。
「あれ。早いな」
 立ったと同時に声がして、流川は振り返った。そこに花道を認めて、流川は思わず言葉を漏らす。
「てめー、昨日……」
「ん? 何だ」
 そこまで言って口を閉ざすと、小首を傾げて花道が先を促した。諦めて、流川は続きを口にする。
「あれから。家まで歩いて帰ったんか」
 花道は大きく目を見開いたあと、照れたように笑ってみせた。
「いや、昨日は親父んとこに泊めてもらった。この近くなんだよ」
 花道の答えを聞いて、流川は訝しんだ。
「別々に住んでんの」
「おう。やっぱ新婚は、夫婦水入らずの方がいいだろ」
「ふ……ん?」
 要するに、父親が再婚したということなのだろうか。
「歩いて帰ろうかとも思ったんだけどよ。さすがにここから鵠沼まではきついと思ってな」
 鵠沼。だったら帰り道だ。送ってやったかどうかは別として。
「言えばよかったじゃねーか」
「だよな。オレも後悔した」
「……どあほう」
 呆れて思わずそう言うと、花道はむっとして、きつく流川を睨み付けた。
「オレは天才だ」
 返ってきた言葉に面食らう。もしかすると、正真正銘『どあほう』なのかもしれない。
「それより、おめー。始めねぇのか」
 そう言って、花道はさっさとベンチに腰を下ろした。その様子を見て、流川は何とはなしに聞いてみる。
「てめーはやらねーの」
「なにを」
「バスケ」
 そのために来たのではないのだろうか。
「いやー、オレは……」
 花道は右手を左右にひらひらと振って、
「バスケなんて、小学校以来だから」
「……中学で、やらなかったのか」
「オレんとこさぁ、春は陸上、夏は水泳。秋はサッカーで、冬は柔道って決まってたからな。三年間、その繰り返しだった」
 だから、バスケは苦手だと言う。
「てめーの練習の邪魔にしかなんねぇよ」
「んじゃ、何しに来たんだ」
「見てぇから」
「なにを」
「てめーがバスケしてるとこ」
「ふーん……」
 別段照れているようでもなく、からかっているわけでもなさそうな花道に、一瞬だけ目を合わせて、流川は一人、コートに入った。
 いつもであれば、すぐに周りのことなど全く気にしなくなるのだが、どういうわけか、こちらに向けられる視線を、流川はずっと意識していた。


 一時に、コンビニまで昼食を調達し、軽く空腹を満たしてから、花道は昨日と同様、流川が帰り支度をしだすまで、時間の経過がわからなかった。
「飽きねーの?」
「全然」
 飽きるどころか、まるで自分のすべてを奪われるような感覚を、花道は楽しんでいた。
「今日は、どうすんだ」
「何が」
「鵠沼まで、帰んのか」
「うー……、ルカワは? どこに住んでんだ」
「本町の駅の近く」
「それじゃ、近道教えてやる。海から帰るんじゃ、遠回りだからな」
 花道は、昨日の流川のように自転車の後ろ側に立つと、海とは反対の方向を指差した。
 しばらく行ったところに、右に逸れる道がある。そこを入ればまっすぐに、鵠沼まで続いているのだ。
「ルカワってさ、あれだろ」
「何が」
 自転車をこぎながら、中途半端な言い様に、流川はぼそりと言葉を返す。
「今度、高一?」
「……そうだけど」
 訝しげな声。
「やっぱ一緒だ」
 花道は嬉しくなって、笑った。
「なぁ。んじゃ、やっぱりバスケ部入んのか?」
「あたりまえ」
「ふーん……」
 花道は、顎を上げて頭上を見た。薄暗くはなっているが、星はまだ見えなかった。もっとも、ここは住宅街とはいえ街中なので、真夜中になっても、数えるほどしか見えないのだが。
「……明日」
 そこまで言って、言葉を切った。
 流川には聞こえなかったのか、先を続けなくても何も言わない。
 突然、何かが胸の中に広がった。
 明日で三日目。
 明日が、最後。
 今日、会えたのが嬉しいのは、自分だけなのだろうか。
 明後日から会えなくなる、と思うと、暗い気持ちになるのは、自分だけなのだろうか。
 自分だけなのだろうか。
 自転車は、花道の疑問を解消させることもなく、分岐点に着いてしまった。
「わかるか?」
「わかる」
 後ろを下りて、道を確認した花道に、流川は頷いてみせた。
「んじゃ」
 昨日と同様、短く流川は言葉をよこす。
 足は今にもペダルをこぎだしそうで、花道が何も言わなくても、そのまま去ってしまいそうだ。
 自分だけなのだろうか。
 花道は右手を上げる。昨日と同様、左右にひらひらと振ってみせる。
「気ぃ付けてな」
 流川はそれを見届けると、線路に向かって自転車を走らせた。
 昨日と同じやりとり。ただひとつ違うのは。
 花道は、上げていた手をゆっくりと下ろす。流川の後ろ姿が見えなくなるまで見送って、やっと家路に足を向けた。
 ただひとつ、違うのは。
 明日の約束を、交わさなかっただけ。


 翌日。花道はコートへは向かわなかった。
 空はきれいに晴れていた。気温だって穏やかで、まさにスポーツ日和だった。今頃きっと、流川は一心不乱にバスケをしているだろう。たった一人で。
 流川のバスケを見ていると、花道はそれに引き込まれてしまう。花道の、意識のすべてを奪われてしまう。
 怖いくらいに。
 今日、流川に会ってしまったら、花道は自分がどうなってしまうかわからなかった。否応無しに、一緒にいられなくなる明日からの言い訳が考えられなかったし、高校が始まれば、それこそ会えなくなるのは必然だから。
 だったら今のうちに、自分の意志で決められる今日のうちに、『会えない』ではない『会わない』を選びたかった。
 この気持ちは一体何だろう。
 花道は、その日のうちに髪を染め直した。
 いつものように、きっちりリーゼントにした。
 洋平たちがくれたプレゼントは、確かに自分を息抜きさせてはくれたけれども、全く別の、何だかもどかしいような、うざったいような、苦しいような、どうにも出来ないものを抱え込んでしまったので、今となっては本当に、ありがた迷惑になってしまった。
 こんなときは、みんなと会って、思い切りバカ騒ぎでもしたいのに。
 一人家にこもって、花道はこれで何度目かのため息をつく。早く高校が始まればいいのにと思う。そしたら、毎日の気忙しさに、何も考えなくてすむだろう。
 いつの間にか、忘れてしまうことも出来るだろう。


 高校生活初日。
 登校の道すがら、花道は景色が少し変わっていることに気付いて、足を止めた。
 近所のおじいさんおばあさんが、毎日ゲートボールを楽しんでいる小さな広場。公園と呼べなくもないそこに、今までなかったはずのものが存在している。
 バスケのリング。
 花道は息を呑んだ。
 せっかく忘れかけていたのに。やっと忘れられたのに。たったそれだけを見ただけで、また思い出してしまった。
 思い出したくなど、なかったのに。
「ちぇっ、ついてねぇの」
 半ば吐き捨てるようにつぶやいて、花道は足早にそこを後にした。
 県立湘北高校。一年七組。腐れ縁なのか、洋平と同じクラスだ。
 出席番号順に指定されている席に腰を下ろすと、程なく洋平もやってきた。
「よ、花道。元気だったか」
「あー、まーなぁ」
 曖昧に返事をすると、洋平は「あぁ?」と片眉を上げてみせた。
「何だ、元気ないじゃん」
 何かあったのか、と洋平が口を開きかけたとき、何気なく廊下に目を向けていた花道の表情が一変した。
 驚愕と、戸惑いと、嬉しさと。
 腰を浮かしかけて、花道は思いとどまった。
 今出て行っても、きっと流川にはわからない。自分が桜木花道だなんて、気付いてもらえるはずがない。
 そう。そこには流川楓がいた。眠そうにあくびをしながら、自分と同じ学ランを着て廊下を歩いている。考えもしなかった。もしかしたら、同じ高校かもしれない、なんて。
「どうした? 花道」
「い、いや、なんでも」
 取り繕って笑ってみせて。自分でも何だかわからない感情をもてあましながら、盗み見るようにもう一度視線を上げた。
 確かに流川だ。バスケをしているときとは、雰囲気が全く違うけれども。
 後一歩で視界から切れる、というところで、流川がふとこちらを見た。足が止まった。
 やばい。ヤンキーにガン付けられたと思ったかもしれない。
 花道はあわてて目をそらした。けれどもすでに遅かったらしく、流川は目を据わらせて、花道のほうに向きを変えた。そしてまっすぐこちらに向かってくる。
 どうしよう。何て言ってなだめようか。
 訝る洋平をよそに、一人慌てふためく花道。その頭上に降ってきた言葉に、花道はすべての思考を停止した。
「どあほう」
 今のは、今の言葉は一体何なのだろうか。
 普通、初対面の相手に、こんなことを言うか? 開口一番。……それとも。
「てめー、何であの日、来なかったんだ」
 淡々とした口調。怒っているのか、それともただ純粋に聞いているだけなのかはわからないけれども。
 花道は顔を上げた。勢いよく顔を上げた。
「何でわかったんだ?」
 髪型も、髪の色も、流川の知っているものじゃないのに、どうして今この一瞬で、わかってしまったのだろうか。
「何で、オレだってわかったんだ」
「……知らねーよ。わかったんだから、しょーがねーじゃねーか」
 見下ろしてくる目が、そんなことはどうでもいいと言っている。それよりも、早く質問に答えろと訴えている。
「い……いいじゃねぇか、そんなこと」
 言えるわけがない。自分でだってわからないことなのに。自分でだって認めたくないことなのに。
 会いたいなんて。見ていたいなんて。ずっと一緒にいたいなんて。
「だって、どうすりゃよかったんだ。会ってまだ二日目だってのに、何かわかんねぇ感情に引き摺られて。そのままあの日会ったりしたら、何かすげぇ怖いじゃねぇか。しつこいくらいにいろんなこと聞きまくって、バカみてぇにわがまま言いそうで」
 怖かった。
 最後の一言を言う前に、花道は我に返った。勝手にべらべら動いた口を恨んだけれど、もう遅い。全部、全部だ。言ってしまったも同然だ。これでは本当にバカみたいだ。
 流川はため息をつきながら「どあほう」と言った。
「聞きてーことがあったら聞けばいい。言いてーことがあったら言えばいい。それに答えるかどうかはオレの勝手だ」
 だから、その答えが不安だったんだ、とは、流川にはわかってもらえないらしい。
「オレだって、てめーに聞きてーこと、山ほどあった。言いてーことだってあった。なのに、ずっと待ってたのに、てめーは来なかった」
 流川の声を聞きながら、花道は恐る恐る視線を上げた。
「すげー後悔した。変な意地張らずに、すぐに聞いとけばよかったって思った。いろんなこと」
 流川がこっちを見ている。真っ黒い目で、じっとこっちを見ている。
 花道は息を呑んだ。ごくりと息を呑んで、腹にぐっと力を入れた。言わなければいけない。ちゃんと、流川が今そうしたように。
「ルカワ。オレもバスケする」
 流川の目が、微かに見開かれた。驚いているのか、呆れているのかはわからない。
 花道はその奥を覗き込む。流川が何を見ているのか、一体その先に何があるのか、それが知りたい。
 同じフィールドに立って、同じ目線で、同じものを見てみたい。
 一度でいいから。
 チャイムが鳴って、流川は何も言わずに教室を出て行った。見送る花道の顔を、じっと洋平は見ていた。
「……バスケするって、花道。バスケ部にでも入るのか」
 あいつ、誰? とも聞かないで、洋平がのんびりと口にする。そんな洋平に、花道は笑ってみせた。
「おう。そうする」
 事を起こす前に恐れていては何も出来ない。
 そのことを教わった借りは、必ず返す。奇妙な対抗心が、花道の中に芽生えていた。
「充実した高校生活になりそうだな」
 どこか大人びた笑みを浮かべながらそう言った洋平に、花道は大きく頷いてみせた。

1998/12


きまぐれにはなるはな