春休みのディストレス[1]

 気が抜けるような青い空を、花道はぼんやり見ていた。
 開け放たれた窓枠に、仰向けに頭をのせて、時折流れくる涼しげな風に、赤く染められた髪を遊ばせる。長い手足を雄大に伸ばし、ただ徒に時間を消化しているようだ。
 いつもであれば、中学からの悪友が、電話の一つでもかけてきて、さっさと出かけてしまうのだが、それは期待できなかった。
「明日から、高校始まるまでの一週間。好きなことしろよ」
 それが誕生日プレゼントだ。洋平はそう言って、残りの三人に同意を求めた。
「オレらとお前とじゃ、状況が違うからな。好きでヤンキーやってんのと、ヤンキーにさせられちまったのとじゃ、精神的に違うだろ。ま、そんなこと、高校行っちまったら、また言ってられなくなるからな。今のうちに、ちょっと気晴らしすりゃいーよ。
 どーせオレらはバイトだし、遊んでる時間もそんなねーんだけどな。でも、構ってほしかったら連絡くれや。時間は作り出すことができっから」
 にやりと悪戯っぽく笑ってみせる洋平の好意は、花道にはありがたくもあり、腹立たしくもあった。
 大楠や野間や高宮の事情は聞いたことがないので詳しくは知らないが、確かに、洋平と花道とでは違った。
 洋平の家は共働きで、しかも両親共にやり手だ。日頃あまり帰宅しない彼らに、反抗的態度をとっているというわけではないのだが、自然、好き勝手に行動することが多くなった。
 家族仲は、それほど悪くない。洋平も、親に迷惑がかかるようなことはしていないし、単に自分の考えに正直なだけなのだ。その結果が、ヤンキーたる態度になってしまう。もっとも、洋平自身それを自覚していたし、それはそれでいいのだ。
 ただ、花道はそうではなかった。
 彼の髪が赤いのも、それをリーゼントにしているのも、ヤンキーだからではなく、またヤンキーになるつもりもなかったのだ。
 もともと彼の髪の色は、黒というより茶に近かった。北欧の流れを持つ母の血の影響なのだろう。写真で見る彼女の髪は、見事なまでの赤金髪だった。いっそのこと、自分も赤く染めてみようと思ったのは、中学に上がる前のことだ。父は別に反対はしなかった。
 花道が二歳になる前に、母は病気で亡くなっている。
 以来、父が手ひとつで彼を育ててくれた、近所の人に色々と助けられながら。そのうちの一人が、冗談まぎれに言ったのが、リーゼントのきっかけだった。
「そのほうが、かっこいい」
 花道は無邪気で人懐こい、ごく普通のやんちゃ坊主だった。かっこいいという言葉に、つい反応してしまったのである。
 渋る床屋のおじちゃんに業を煮やし、言い出しっぺの兄ちゃんを尋ねたら、「おっちゃんに悪いことしたなぁ」とぼやきながらも、セットの仕方を教えてくれた。
 髪を真っ赤に染めて、リーゼントにしてみせたら、父は感嘆した。
「似合うじゃないか」
 そう言われて、花道は嬉しかった。断然この姿が気に入って、何を言われようと、これを三年間貫き通したのである。その結果、花道にはヤンキーという肩書きが付けられたのだ。
 ただ歩いているだけで難癖をつけられ、勝手にケンカを売り付けられる。向かってくる相手には、礼を返すのが男だ。授業をフケたことすらない花道だったが、のした相手の数が増えるにしたがって、周りの、花道に対する認識が変わっていった。
 正直、それに戸惑いを感じなかったと言ったら嘘になる。洋平は、その辺りのことを気にしてくれたようだが、このくらいで参るような自分ではない。花道はそう思っていた。
 中学二年のとき、過労が原因で倒れた父は、入院先で知り合った看護婦と再婚することになった。高校進学とあいまって、花道は一人暮らしをすることにした。恵子さんが嫌いというわけではない。むしろ彼女のことは好きだった。いい人だと思う。何より、父が好きになった人なのだ。今までのお礼のつもりで、二人に新婚気分を満喫してもらうためだ。
 アパートの一室で、花道は一人、空を見ていた。
 しばらくそうして、やおら腰を上げる。花道は、そのまま行きつけの床屋に足を向けると、
「おう、花坊。いらっしゃい」
「おっちゃん、髪、軽くでいいから黒に染めてくんねぇ?」
 鳩に豆鉄砲を食らわせた。


 店を出たのは、昼を幾ばかりか過ぎた頃だった。
 時折、腹の虫が小声で鳴くのをだましながら、花道は、海へと続く、ゆるやかな坂道を下りていた。まだ四月も初頭。いくらなんでも、海岸の人影はまばらだろう。
 海をぼーっと眺めるのは好きだ。波が刻む時の流れは、日頃の気忙しさを忘れさせてくれる。しばらく一人で訪れる機会もなかったが、久しぶりに行ってみるのもいいだろう。
 海に沿うようにして伸びる国道に突き当たると、花道はそこを左に曲がった。潮風のきついプロムナードを、ことさらゆっくり歩いてみせる。おろしたままの黒髪が、風にあおられて舞い上がる。花道はそれを楽しむ。
 デニーズを横目に通り過ぎ、片瀬海岸へと階段を下りた。砂の感触が懐かしい。
 波打ち際まで近付いて、花道はふと気付く。
 誰かの忘れ物だろうか、バックがひとつ置いてある。開けられた口にはタオルがかけられ、中からは赤茶けた丸いものがのぞいている。おそらくは、バスケットボールだろう。辺りを見回してみたが、それらしい人影はなかった。
 盗まれたらどうするつもりだろう。
 花道は腕を組んで、しばらく考えていたが、やがてその脇に腰を下ろした。どうやら見張りを決め込んだらしい。どのみち、目的があって来たわけではないのだから、役目が増えても差し障りはない。
 そうして十分ほど経っただろうか。砂を蹴る音がして、花道はそちらに顔を向けた。
 ジャージ姿の男が、ランニングをしている。
 年と背格好は、花道と大して変わりはないようだ。リズムに合わせて弾む髪は、見事なまでの漆黒で、それと対峙するように肌の色は白い。幾分長めの前髪の奥からは、きつい眼差しがのぞかれた。総じて言うならば、きれいな顔つきをしている。
 ちらりとこちらに目を向けると、彼は歩調をゆるめた。袖口で流れる汗を拭いながら近付いてくると、何も言わずに花道の脇のタオルに手を伸ばす。
 確認のために、花道は声をかけた。
「これ、おめーの?」
「……そう」
 ぶっきらぼうで、ぼそっとした声は、意外とよく通るようで、波の音に消されずすんなり耳に届いた。嫌いじゃない声だ。ぼんやりとそんなことを思う。
「こんなところで、ボール使うのか?」
 何とはなしに聞いてみると、バカにしたようなため息をつかれた。
「砂地じゃボールは弾まねー」
「んなこたぁ、わーってるよ」
 ムッとして、花道は下唇を突き出す。花道は、ここにボールがあるわけを知りたかったのだ。はじめからランニングだけのつもりなら、ボールは必要ない。
「バスケしに行くんじゃねぇの?」
「そのつもりで家を出たけど……」
 一通り汗を拭き終え、タオルを首にかける。花道を見下ろすように突っ立ったまま、彼は言葉を続けた。
「整備中で、いつものところは使えなかった」
「んじゃ、あれか? 時間待ち」
「違う。整備に三日かかるらしー。しょーがねーから、ランニングに変更した」
「なるほど」
 そう言って、花道は視線を海に移す。しばらくそのままでいると、立ち尽くしたままじっと花道を見下ろしていた彼が、諦めたような短いため息をひとつ吐き、そこに腰を下ろした。ちょうど、花道とバックをはさむような形になる。
 花道は無言で笑った。思わず顔がゆるんだ、という笑顔。ただしそれは、にやりとしたものではなく、つられてこちらも笑顔を返したくなるようなものだ。
「バスケ、したいか?」
 海に向けたままの瞳を、ちらりと傍らの彼に移す。小さく頷いた。
 花道は、よっしゃ、と言って立ち上がる。
 確か、恵子さんの勤めている病院の近くに、バスケが出来るコートがあったはずだ。父の入院中に、窓から偶然見かけただけなので、あまり詳しくは覚えていないけれど。ここからそう遠くないはず。
「運がよけりゃ、出来るぞ」
 それは、その場所を見つけられればという意味と、その場所が彼の言う、いつものところでなければという意味。
 黙って花道を見上げていた彼も、その言葉に腰を上げる。
「ただし、条件がある」
 バックに伸ばしかけた手が、ぴたりと止まる。むっとして見上げてくるその目は、彼の気が短いことを語っていた。
 腕っ節も強そうだ。
 瞬時にそう悟ったが、花道は何食わぬ顔で続けた。
「オレは桜木花道。てめーは?」
「……流川楓」
「よし、ルカワ。付いてきなさい」
 海に背を向け歩き出す花道に、流川は「おい」と声をかける。
「条件」
 ってなんだ。と続けるのが普通だ。が、流川の言葉はそこで止まる。花道は苦笑する。ずいぶんと話下手だ。
「クリアされたぞ」
 振り返って言ってやると、訝しげに流川の眉がよる。
「おめーの名前」


「てめーがいつも行っているところって、病院の近く?」
 流川のものだという自転車に二人乗りしながら、花道は聞いた。
「……違う」
 後輪のボルトに足をかけ、立った姿勢の流川は、少し考える様子で答えた。両手は花道の肩。流川の肩にはバックがかけられている。
 おぼろげな記憶を必死に手繰り寄せながら、花道はペダルをこいだ。海沿いの道を、先程とは反対に向かう。
 朝から比べれば幾分強くなった陽射しに、真横から照らされる。
 慣れていない下ろしたままの前髪が、少し疎ましい。頭を振って視界を開ける。
 にじみ出る汗に、風が気持ちいい。陽射しはきついが、風は冷たい。そんな感じだ。
 父が入院していた病院へは、丸一年行っていない。まして、この方向から来たことはないので、花道の頭の中は、一種パニック状態だ。本当にこっちでよかったかな、といささか心配になってくる。まっすぐ伸びる一本道は、果てしなく長く見えてしようがない。
「……まだか」
 ずっと黙っていた流川が、ぼそりと声をかけてきた。どうやら痺れを切らしたらしい。花道は、場所を思い出すのに精一杯で、流川の存在をしばし忘れていた。
「うー、たぶん、もうちょい」
 右前方奥に、病院の白い壁が見えてきた。その脇に公園が姿を現す。花道は、ほっと息をついた。確かこの近く。
 道路を右折し、少しスピードを落とす。左の目の端に、ちらりとそれらしい空間が見えた。花道は自転車を止める。
「おし。ついた」
 流川が後ろから飛び降りる。細い道を軽く目で指しながら、「こっちか?」と聞いた。
 よほどバスケがしたいらしい。
「おう」
 頷くと、流川は足早に歩き出す。一瞬この自転車をどうすればいいのか花道は考えたが、諦めたようにため息をついて、それを押しながら流川の後をついて行った。
 しばらく進むと、フェンスに囲まれた3on3用のコートに突き当たる。
 流川は、ざっとコートを見渡すと、脇のベンチにバックを置いてボールを取り出した。軽くついてみる。悪くはなさそうだ。
 自転車を置きながら、その様子を見ていた花道は、満足したように胸を張った。
「どうだ。気に入ったかね?」
 しかし、流川はまるで聞こえていなかったようで、さっさとコートに入ると、ミドルシュートを打ち始めた。花道は面白くない。
 あからさまにむっとしながら、ベンチに腰掛ける。見るとはなしに、流川に視線を合わせた。静かな空間に、ボールの弾む音だけが、やけに大きく響いている。
 別段何の感慨もなく見ていたのに、どういうわけか、視線がはずせなくなってしまった。
 バスケのことは、全くと言っていいほどわからない。何かすごいとか、そんなことなど全然ないのに、淡々とボールを操っている流川から、目をそらすことが出来ない。
 花道は、ただ流川を見ていた。
 まるで一心不乱にリングだけを見つめる流川。こちらのことなど、全く気に留めていないかのように。もしかしたら、花道の存在を忘れているのかもしれない。
 そこに何があると言うのだろう。
 流川は、何を目指しているのだろう。
 惹かれると同時に、花道はだんだん自分が不機嫌になっていくのを感じていた。けれども、何故かそこを立ち去ることが出来ない。意識をそらすことが出来ない。
 流川は今、何を見ている?


 これで打ち止めとばかりに、リングに叩き込んだボールが、ころころと転がっていく。
 流川は、それが花道の足元で止まるのを見て、初めて彼がまだそこにいたことを知った。
 大きく目を見開いて、まるで何かを凝視しているかのような、それでいてどこか放心している花道に向かって、声をかけてみる。
「……おい」
 近寄って、転がっているボールを拾い上げる。それでもまだ、心ここにあらずだ。
 真正面から顔を近付けてみた。
「どあほう」
 それでようやく、はっとしたように花道は焦点を合わせた。と同時に、ひどく驚いたらしく、あわてて上体を後ろに退く。
「なっ……なな」
 流川はため息をつく。花道の顔は、夕焼けの所為とは言えないくらい赤くなっていた。
「何……なんだよ」
 気が落ち着いたらしい花道は、睨み付けるように流川を見た。拗ねているのか、怒っているのか。もしくは、気恥ずかしいのか。
 けれども、流川は別段気に留めるようでもなく、タオルを取り出しながら、花道の隣に腰掛ける。
「別に。まだいたのかと思っただけ」
「わ、悪かったな。なんだよ。いちゃメーワクだったか?」
「……べつに」
 本当に素っ気無く否定して、流川は息をついた。花道はまだ不満らしく、膨れっ面のまま横顔を見ていたが、ふと思ったように表情を変えた。
「もう終わりか?」
 休憩にしては長すぎると思ったらしい。聞き様によっては残念そうに取れなくもない。
「暗くなったら、道がわかんねー」
 流川の言葉に、花道は周りを見回した。日が傾いていることに、今気付いたらしい。もうこんな時間かと、独りごちている。
 荷物をバックに詰め込んでコートを出ると、黙って花道がついてきた。流川は、自転車をひいて細い道を歩く。
 通り抜けたとき、花道が口を開いた。
「なぁ」
 振り返ってみると、まっすぐに目がぶつかる。
 その目が微妙に伏せられた。
「明日も、来るのか?」
 いつものところが、整備で三日使えない。その間、流川はここに通うつもりだ。家からはだいぶ遠いが、これもトレーニングのうちだと思えば、さして苦でもない。
「……そのつもりだけど」
 理由を聞き返すわけでもなく答えると、花道は嬉しそうに口の両端を上げた。ほっとした息もつく。
 思いがけない反応に、流川は一瞬目を瞠った。花道から視線をそらせなくなる。
 彼は、ひどく嬉しそうに笑いながら、
「そっか。じゃ、明日も会えるな」
 そう言って、右手を上げた。流川に向かって、左右に軽く振って見せる。
「気ぃ付けて帰れよ」
 流川は眉間にしわを寄せる。
 腹を立てているのか、悲しいのを堪えているのか、自分でもよくわからない。
 人を惹き付けておいて、あっさりとさよならを言うなんて。
「また明日な」
 花道の穏やかな声が響いた。
 空が赤い。
 こんな景色の中で、そんな言葉をかけられるのは、一体何年振りだろう。
 小学四年のときからバスケを始めて丸六年。家路につく頃には、大抵日は落ちていた。
 流川は、一度ゆっくりと目を閉じて、再び花道を見た。夕焼けがひどく似合う。
 程よく焼けた肌の色や、幾分色素の薄い目が、溶け込むでもなく調和する。
 向けられた笑顔で、こんなにも穏やかになるのは何故だろう。
 流川は目を細める。そして徐に自転車にまたがった。
「じゃな」
 ぼそりとした、抑揚のない挨拶に、花道は一つ大きく頷く。
「おう。またな」
 その声を忘れないように、ゆっくりと、力強くペダルをこぎだす。生まれる風に、額を晒しながら。
 流川は嬉しかった。
 決して保障されているわけではない明日の約束が、何故か嬉しかった。
 それはまた、花道も然り。

続く

きまぐれにはなるはな