ただあなただけの存在[3]

 仙道が桜木と出会ったのは二年前、医学研究専門学校で五年目を迎えたときだ。
「おまえ、いつまで学生やってるつもりだよ」
「そんなこと言ったってさ。どうして子供が親のあと、当然のように引き継がなきゃなんないわけ? 倍速培養なんてさ、誰だって研究できるじゃん。オレでなきゃいけない理由でもあるわけ。
 大体オレには他に研究したいことがあるって言うの。細胞は記憶を持つか、そそられないか?」
「そういう愚痴は本人に言えよ。大体、継ぐ気がないなら専門なんかこなきゃいいんだし、いつまでもそこに居座ってる必要もないだろ」
「嫌だよ。研究自体は面白いんだもん。ただそれを仕事にしたくないだけ」
「ふざけてろ」
 すでに社会人だった友人に言われながら、ぶらぶらと毎日を過ごしていた。遊び半分の専門生活。
 その時、桜木は一年だった。ピカピカの新入生と言うヤツだ。
 真紅の髪は人目を惹いた。その穏やかな笑顔も、興味をそそられた。
 声を掛けたのは、仙道からだ。
「医者になるのが目的? それとも、研究者とか」
「どっちでもねぇな」
 苦笑しながら桜木は言った。
「自分の病気をちゃんと知りたい。それが、ここに来た理由」



 目が覚めると、そこには見慣れた天井があった。
 パチパチと瞬きを数回繰り返し、霞のかかった頭がクリアになるのを待つ。
 そこで桜木はようやく、自分の病状が悪化したことを思い出した。
 視線をさまよわせると、点滴の管が腕に突き刺さっている。
 胸には包帯が巻かれているようだ。
 もう終わりだと思った。あの時、桜木ははっきりと死を確信していた。なのに。
 ドナーの数は絶対的に少ない。そのうえ、組織適合率も低い。そう簡単に、移植手術は出来ないのだ。
 同じ遺伝子を持つ人間――いわゆる、クローンが存在しない限り。
 ドクンッ、と心臓が脈を打つ。
 何も心配はいらないと言った仙道。すべてを任せろと言った仙道。なのに、治療らしい治療を受けたことなど、一度だってない。
 記憶にあるのは、初めてここに来た日に受けた、血液検査と細胞検査。
 耳の奥で鼓動が鳴り響く。
 それを遠くに聞きながら、桜木は懸命に記憶をたどる。
 あの夜、ここにやってきた少年。自分がここから逃がした少年。
 きつい目の、釣り上がった眉の、無邪気な顔の、赤みがかった髪の。
 ――名前は……?
 予測しながら投げかけた問い。
 ――オレは桜木花道だ。
「仙道……!」
 固く閉ざした目の上に腕をあてがって、桜木は吐き出すようにその名を呼んだ。



 桜木の経過は順調だ。日々の検査結果を見ながら、仙道は安堵の息をつく。
 当たり前だ。順調以外の何があるというのだ。
 あれが逃げ出したと知ったとき、仙道にはあれが意志を持ったということよりも、いなくなったということの方が問題だった。
 大切なファーム。桜木のための心臓を作っている工場。それがなくなった。
 しかも、それを逃がしたのが桜木本人だと知ったとき、ショックはさらに大きかった。
 桜木のための特別な培養液。桜木のための特別な培養カプセル。遺伝子治療を施した結果、微妙に違う外見を持つもの。
 あと少しで機が熟するというのに、すべては桜木のためにやったことなのに、それを根こそぎ、無にしようなんて。
「なんてことしたんだっ!!」
 と、怒りのためか、目にうっすらと涙を浮かべて、桜木は怒鳴った。
「そうまでして、オレ、助かりたくねぇよ。
 あの子を殺すつもりだったのか? オレのために、あの子の生きる権利を奪っちまうのか? そんな権利、オレにもおめーにもねぇんだぞ?」
 あるよ。オレにはある。
 だって、あれを作ったのはオレなのだ。あれはオレのものなのだ。どうしようと、オレの勝手だ。
 だから、桜木の病状が悪化したとき、仙道は即行動に移した。
 何の為にあれを作ったと思っているのだ。桜木を死なせないためだ。そのためなら、何だってする。
 あのナリから、そう遠くへは行けないことは明白だ。街へ出れば、あっけないほどに見つかった。
 馬鹿な、という思いが、一瞬頭をよぎる。意思云々は、持つ可能性は十分にある。けれども、あの動きはなんだ。
 カプセルの中、目覚めることなく細胞分裂だけを繰り返してきたものとは思えない、あの動き。成長期の活発な子供にしか見えない、あの動き。
 そもそも、立てたこと自体おかしいのだ。筋肉など、特殊な信号を送り続けないと発達はありえない。そんなことをした記憶はない。
「どあほう」
 一緒にいる青年が言う。馴れた感じであれが答える。……そうか。
 どうやら、囲われているらしい。なるほど。作戦変更だ。
 そうして翌日まで仙道は待った。あれが一人になるときを見計らって、その隠れ家を訪れた。
「迎えに来たよ」
「あんた……誰……?」
 そう言いながらも、おぼろげながら記憶があるようで、懐疑ではなく困惑に眉を顰める。
「君が元いた場所の、責任者みたいなものだよ」
「あの、白い建物の?」
「そうだよ。一緒に帰ろう」
「……嫌だ」
 一瞬ためらって、あれは首を横に振った。
 嫌だって? オレの聞き間違いか?
 よくそんなことが言えたものだ。もののくせに。ただのもののくせに。
「オレの大事な人がね、今とても大変なんだ。たった一人の大切な人のために、何かしてやりたいってオレの気持ち、分かるだろ?」
「でも……それとオレと、どういう関係が……」
「おまえはね、人じゃないんだよ」
 おまえはオレが作ったんだ。心臓を移植するために。おまえはただそのためだけの存在。
 それを聞いて、見る見る顔面が蒼白になっていく様を、仙道は愉快に思い出していた。
 もののくせに。オレの所有物のくせに。逆らうなんて許さない。
 急におとなしくなったあれは、素直に仙道の言うことを聞くようになった。
 その足で研究所に戻り、早速手術に取り掛かった。
 あっけないほどにそれが終わった直後、一人の青年がここを訪れた。
「どあほうに会わせてくれ。ここにいるんだろ」
 何のことを言っているのか、仙道にはすぐに解ったが、それを微塵も出さずに聞き返す。
「どあほうって何のこと?」
 青年は言葉に詰まったようだ。なるほど。あれのことは何も知らないらしい。
「あれのことかな? 毛が赤っぽい」
 助け舟を出してやると、こくりと頷く。仙道はくすりと笑った。
「持って帰る?」
 頷くのを見て取って、仙道はまだ処分していないままの、その残骸を持ってきた。
「冷たくなっているけど、大丈夫。見た目もきれいだし。上手いもんだろ? 胸にしか傷つけてないよ」
 多分、耳に届いていないだろう。
 話しかけながら、仙道は青ざめていくその顔を、存分に眺めた。
 吐きそうになったのか、手で口を押さえながら、青年の目はそれでも肉の塊に釘付けだ。
 仙道は、ずいとそれを差し出した。
「いらないの?」
 実に楽しいひと時だった。とうとう吐き出してしまった青年を、仙道は笑いながら眺めていた。
 嬉しい。桜木が生きている。仙道にはそれだけだった。
 他のことなんて関係ない。ただ桜木がいる、それだけでよかった。



 桜木は、どうしていいのか分からなかった。
 仙道のしたことは、許されることじゃない。
 どんな理由があったにせよ、彼は人を殺したのだ。人殺しをしたのだ。
 けれども、桜木には、仙道を責めることは出来ない。
 仙道の気持ちを知っているから。その気持ちを、嬉しいと思っている自分がいるから。
 自分も同罪なのだ。
 ただ一人のために。ただ、あなただけのために。
 生きることをのぞんで。
 人の禁忌を犯して。
 そうするしかなかった。仕方なかったのだ。けれども。
 彼はどうだったのだろう。あの少年は。
 もしかしたら、彼にも特別な誰かがいたかもしれない。自分が仙道を思うように、誰かを想っていたかもしれない。
 もしそうなら、自分はどうしたらいいのだろう。
 謝ることも出来ない。第一、今更謝って何になる?
 彼は生き返らない。
 自分とは違ったように、同じ細胞を何度使っても、彼はもう生き返らないのだ。
 いくらDNAの配列が同じでも。
 違う人間なのだ。
 桜木は息をのんだ。
 経過も順調で、そろそろ起き上がることも可能だろうとの仙道の言葉を思い出す。
 同じ遺伝子を持っている臓器なのだから、拒絶反応なんか起こりえない。
 けれども、本当だろうか。
 同じ遺伝子を持ってはいても、彼は別人だった。決して自分ではなかった。
 言い切れるのだろうか。それは絶対にありえないことなのだと。
 ドクンッと、心臓が脈を打つ。鼓膜が破れるのではないかというくらい、大きな音で。
 ――これは。
 思うように、上手く息が出来ない。
 ――これは……。
 桜木は震える手を、枕元に伸ばす。
 指先に触れるブザーを、無我夢中で押した。


 突然起こった拒絶反応。仙道には、何がなんだかわからなかった。
「一体どうして……」
 桜木は痛みの耐えるので必死だ。そんな姿を、仙道は見ていられない。
 自分の中を恐怖が駆け抜ける。
 怖い。嫌だ。桜木を失うのは。
「とにかく、治療の用意を……」
 懸命に気を落ち着かせ、仙道がそう呟いたとき、服のすそを桜木が掴んだ。
「仙、道……」
「桜木」
 大丈夫だ、と言いかけて、彼が何か唇を動かしていることに気付く。
「……何?」
 弱々しく、熱い吐息がかすかに漏れる。
 耳を寄せて、それが一体どんな音なのか、ひとつたりとも聞き逃すまいと、仙道は神経を集中させた。
「あの子を……オレの、クローンを……」
「クローン? つくるよ、もちろん」
 何度だって。桜木を助けるためなら何だって。仙道はする。
 なのに、桜木は首を横に振った。
「オレの、為じゃ……なくて」
「何? 桜木。どうしたの」
 脂汗の量が半端じゃない。早く何とかしないと。
 焦る気持ちで桜木に目を向けると、彼の目からすぅっと、一筋の涙がこぼれた。
「あの子が、会いたがってる……」
「さくら……?」
 仙道は、はっとする。
 桜木のはずなのに、そのはずなのに、今の彼は全く知らない人に見える。
 見たことのない表情で、どこかぼんやり見ているその口が、微妙に仙道の知る桜木とは違う声を発した。
「ルカワに会いてぇ……」
 そのセリフを聞いて、仙道は微動だに出来なくなってしまう。
「会いてぇよ……」
 突然の小康状態に、仙道の総毛が立った。
 これは……。
 これは一体、どういうことだ。何が起こったというのだ。
 先程までの苦痛が嘘のように、仙道の知らない顔で、知らない声で、他の誰かを呼んでいる。
 仙道ではなく、他の誰かを。
 ――違う。
 これは、桜木じゃない。オレの桜木じゃない。
「ちがう……違うっ!」
 仙道は狂ったように、激しく頭を左右に振った。
 これは違う、桜木じゃない。一体どうして。何か手違いがあったとでもいうのか。
 桜木は? 桜木はどこに行ったのだ。さっきまでちゃんとここにいたっていうのに……!!
 ミスなんてしなかったはずだ。細心の注意を払ってきたのだ。完璧だったはずだ。
 ただひとつ。あれが逃げ出したことを除けば。
 ――まさか。
 仙道は目を見開く。まさか、あれが。
 話していた。動いていた。桜木花道だと名乗ったというあれが。
 あれが、桜木を……。
「仙道」
 びくりと、呼ばれたことに反応する。顔を見れば、見知ったそれ。
「桜木……」
 安堵するのも束の間で、仙道は次の言葉に耳を疑った。
「彼の望みを、叶えたいんだ」
「な……に、言ってるの? おまえ、こんなときに」
 桜木は、ふっと笑った。
「オレはもういいよ。このまま、死んでいいよ。悔いなんてねぇ。すげぇ幸せ」
「何言ってんだよ桜木」
「おめーがいるから、すげぇ幸せ。だから、もういい。オレ死にたい」
「桜木!」
「なぁ仙道。オレの最後のお願い、聞いてくれよ。もう一度彼を、よみがえらせてくれ」
「……無理だよ、そんなの」
「無理じゃねぇよ。生きたいって気持ちがあれば、それは叶えられるんだ。
 神様はすげぇよ。誰だって、すぐに本心を見抜けられる」
 笑いながら、桜木はそんなことを言う。
「じゃあ……オレの願いだって……」
「おめーの本当の願いは、違うだろ?」
「……」
 仙道は桜木を見返す。
 オレの本当の願い。
 本当の願いは……
「心配すんな、仙道。オレ、おめーが一番好きだ。誰よりも好きだ。いいじゃねぇか、これで。これだけじゃ駄目なのか?」
「駄目じゃないよ。駄目じゃないけど」
「罪滅ぼし、しなくちゃなんねぇ。オレたちは、二人の人間を傷つけたんだ」
「――」
「……頼む」
 懇願する桜木を、仙道はただ見つめるだけだった。




















 少年が部屋を出て行ってから、一体どれだけの時間が過ぎたのだろうか。
 流川は、あれ以来何一つはっきりとしない頭で、ぼんやりとそんなことを思った。
 ……冷たい骸と化した少年を見たとき、ひどく吐き気がして、自分はこのまま死ぬんじゃないかと思ったが、人間、思ったより強かな生きものだ。未だにこうして生きている。
 何一つ変わらない生活リズム。淡々と、時が流れていく。
 時々、こうして生きている自分が、ひどく憎らしく思う。けれども死ねない。
 死ねないのだ。
 まるで死を禁じられでもしたかのように、何を試みても死ねないのだ。
 いっそのこと狂いさえ出来たならとも思ったのに、それすらも許されない。
 一体自分にどうしろというのだろう。
 何も知らなければ、少年にさえ会わなければ、流川は今のこの日常を難なくこなすことが出来ただろう。
 けれども、いまさら後戻りなど出来ない。
 忘れてしまうことなど、出来ないのだ。
 ひどく怠慢な流れの中で、流川ははっきりと夢だとわかる映像を見る。
 ひとつ残らず、鮮明に再生できる記憶。色褪せるどころか、尚一層輝きを増すそれ。
 そして何も知らなかったことを知る。名前すら知らなかったことを知る。
 こんな気持ちだったのだ。
 知っていると思っていた。
 何一つ、知らないことなどないのだと思っていた。
 なのに自分は、本当は何一つ知ってはいなかったのだ。
 そうか。こんな気持ちになるのか。
 流川はぼんやりと、あの時の少年を思い出す。
 あの時は、少年が何故そんなに落ち込んでいるのか理解できなかったが、今ならわかる。
 不安になるのだ。
 全部を知っているわけではないという不安。自分の知らない部分があるという不安。
 いまさら、こんなことに気付いても遅いけれど。
 通い慣れた公園。
 微かに吹く風が薄く前髪を掬って、遮っていた視界を一瞬クリアにする。
 その時、目に飛び込んできた色に、流川は一瞬時を忘れた。
「何ぼーっとしてんだよ、ルカワ。地べたなんかに座り込んで。やらねぇの、バスケ」
 赤。なんだろう、この赤は。
 独特のイントネーションに、彼特有の発音。少年のものだとわかるのに、声が違った。見た目も違う。
 流川は自嘲した。
 何て都合のいい幻なんだ。自分と似たような歳に成長してやがる。
「ルカワぁ? まさか、目ぇあけて寝てんじゃねぇだろうな」
 ぱしぱしと、頬を叩く確かな感触。
 流川は思わず、その手首を掴んだ。
「何だよ。起きてんなら返事ぐらいしろよ。……それともおめー、オレのこと忘れたんか……?」
「誰に向かってそんなこと言ってんだ、どあほう」
 流川は、ぐいとその腕を引き寄せる。倒れこむように重なってきたその体を、確かめるように抱きしめた。
 ――生きている。
 流川は安堵の息をつく。ちゃんと生きている。
「ルカワ?」
 いつまで経っても終わらない抱擁に、彼は困ったらしい。微かに身じろいで見せた。
 それを無視して、流川は聞く。
「名前」
「へ?」
「名前、教えろ」
 一向に、腕を解く気配すら見せない流川に、少年は呆れたのか嬉しいのか、笑みをもらした。
「いまさらかよ?」
「うるせー。いいから教えろ」
「わかったよ。……顔見せろよ、ルカワ」
 抱きしめる腕がゆるく解かれる。
 彼は目を細めて柔らかく微笑むと、流川の端正な顔に自分の顔をゆっくりと近付けながら、その問いに答えた。
「桜木花道だ」
 動く唇が、流川のそれに触れる。
 啄ばむように二三度触れたあと、二人は互いに相手の息を貪った。



「……ただいま、ルカワ」



1997/05


きまぐれにはなるはな