ただあなただけの存在[2]
いつまでここにいていいんだ、という問いに、青年は好きなだけいればいいと答えた。
どうせほとんど寄り付かない家だ。
しかし、そういう訳にはいかないと少年は言う。誰だって、生活には必ず出費が付き物だ。
「ガキがそんな心配してんじゃねー」
青年だって、考えなしに少年を招き入れたわけではない。問題があるのなら、端から誘いはしなかった。
それでも、なお言い募る少年に、「それなら」と青年は聞く。
「どこか、行く当てでもあんのか」
少年は言葉を詰まらせた。
「……ねぇけど」
「だったら、うだうだ言ってねーで、ここにいろ」
無条件で世話になることにかなり抵抗を感じるのか、少年はなかなか頷きはしなかったが、やがて厄介になる条件として、家事全般を請け負うと言い出した。
やりたければ、やればいい。それが青年の考えだ。それで気兼ねしないのであれば、こちらには関係のないことである。
これはあくまで少年の問題であって、自分の生活サイクルに変わりはない。そう思っていた。
そんなある日。
「おめー、本当に家に寄り付かねぇんだな」
不貞腐れているのか、唇を尖らせて少年が言った。上目遣いに、姿の見えない相手に視線を送っている。
「最初にそう言った」
「だからさ。……せっかくオレがメシ作ってんのによ」
「……それで?」
「それでじゃねぇよ。ここはおめーのウチなんだから、ここでメシ食っても罰はあたんねぇんじゃねぇ?」
今ではもう指定席となっているソファの上で、ひざを抱えながら少年は、むぅと唸る。
寝室から青年が、それで? という顔で現れた。
少年は微かに顔を赤らめる。
「……一人でメシ食うの、嫌なんだよ」
冷蔵庫から牛乳を取り出す手が、一瞬止まる。
落ちた沈黙をどう取ったのか、ひざを倒しあぐらをかいて、慌てたように少年は口を開いた。
「まぁ、どこでいつメシ食おーが、てめーの勝手だよな。オレぁここで厄介になっている身なんだから。ごめん、何でもねぇんだ。気にすんな」
牛乳を口に運びながら、青年はリビングに視線を投げる。が、横を向いてしまっている少年の顔は見えなかった。
近付くと、ばつが悪いのか顔を伏せてしまう。その頭に、青年はポンと手をのせた。
「悪かった」
意外な言葉に、少年は、そっと顔を上げる。
「食えるメシなら、一緒に食ってやる」
「食えるよ」
「ホントか?」
「これ以上ねぇくれーに美味ぇぞ?」
「どーだか」
「本当だって。何てったって、オレぁ天才だからな」
不敵に笑ってみせる。それが少年の癖だとは、まだ知らなかった頃。
それから青年は、ほとんどの食事を家で取るようになった。
少年の料理は、本当に美味かった。見たところ、19歳の青年の半分くらいしか生きていないはずなのに、一体どこで覚えたのか、正直不思議だった。
あそこで何をしていたのか、少年は覚えていないと言う。
確か、普通に生活していたはずだ。おぼろげながら、少年は記憶をたどる。
不確かなことなので青年に話してはいないが、両親が亡くなった所為で一人で生活していたはずだ。施設だったか親戚の援助だったかは思い出せない。
だから、家事は慣れたものだった。初めの頃は頭が混乱していたからか、すべてがうまくいかなかったけれど、今ではもう大丈夫だ。
青年がバイトに行っている間は、掃除や洗濯をする。自分が知っている機種よりも、少し便利なものばかりで、ちょっと感動したりもした。
全く勝手が分からなかったのは、マルチパネルだ。青年に扱い方を教えてもらって、ようやく暇を潰せるようになった。
物珍しさに楽しんでいたのも束の間で、それにも飽きてきた頃、青年はバスケに行くとき、少年を誘うようになった。
「いってらっしゃい」
そう言うときの少年が、放っておけなかったのだ。落胆を隠しているつもりなのだろうが、手に取るようにわかる。
なのにまた、自分からは口にしないのだ。
どうやら境界線があるらしいが、青年にはその基準が分からない。
一度誘ったら、いいのかと聞いてきた。いいから誘っているのだ。
以来、バスケにはいつも二人で行っている。
はじめは目を覆いたくなるような、ど素人だった少年だが、今ではいくらか形になってきていた。驚くほどの成長振りだ。
「何で月に行かなかったんだ? あっちに行けば、チームメイトもいるんだろ」
地球以外のところで地球人が生活しているなんて、信じられねぇと思いながら、少年は聞いた。
「重力が違う」
故に、バスケスタイルも違うらしい。青年は、地球の重力のもと成り立っている、慣れ親しんだバスケを捨てる気はさらさらなかった。
「てめーらしいな」と、少年は笑った。
少年はよく笑う。元気が取り柄だとでも言うくらい。
ほとんど表情の変化が見られない青年とは、対照的だった。
バスケから戻ると、青年はすぐにシャワーを浴びる。それが終わると、少年が汗を流して、料理に取り掛かる。
習慣と化したその行動を、今日も繰り返していたとき、不意にマルチパネルに通信が入った。
青年は、まだバスルームだ。
ちょっとためらったが、少年はスイッチを押した。
フォン、とパネルが見知らぬ女性を映し出す。
若い彼女は、息せき切って口を開いた。
『流川くん!』
……ルカワ?
誰だろうと少年は思う。この女性も、ルカワなんてヤツも、少年は知らない。
間違いだろうか。そう思ったとき、彼女があらっと声を上げた。
『ごめんなさい、流川くん、いる?』
「ルカワ……? オレ、ルカワなんて……」
知らない。
そう言おうとしたとき、青年がバスルームから出てきた。
「どうした」
何か様子がおかしいことに気付いて、少年に声を掛ける。
振り返ったその顔が、困ったように歪められていた。
『あれ、知らない? おかしいな、間違えたかしら』
この家では存在するはずのない声を聞いて、通信が入っていることに気付く。
ダイニングに入っていくと、パネルを確認する前に、相手が声を掛けてきた。
『あっ! 流川くん、流川くん。私っ』
「……ああ」
『ごめんねー、いきなりー。実はさ、明日のバイトなんだけど、急用できちゃって。代わってもらえないかな』
「……別に。いいけど」
『よかったー。流川くんに断られたら、全滅するとこだったんだー。感謝する! じゃぁね、よろしく』
ふぅ、とため息をついて、青年はスイッチを切った。振り返ると、少年が表情のない顔で突っ立っている。
訝って眉を寄せると、ゆっくりと少年が口を開いた。
「ルカワ……」
呟くように、言葉を転がす。まるで確認するかのように。
「どうした?」
問いかけると、ふるふると首を左右に振った。力なく項垂れて。
「……フロ、入ってくる」
そう言ってダイニングを出る、どこか様子がおかしい背中を、流川はじっと目で追っていた。
バスルームから出てきても、少年の様子はおかしかった。
いつもは鼻歌交じりに食事の用意をするのだが、今日はずっと黙したままだ。
どうしたのだろう。どこか具合でも悪いのだろうか。
ずっと様子を窺っていると、ふと上げた視線とぶつかった。
「……メシ、できた」
食卓についても、少年の様子は変わらない。
しびれを切らした流川は、黙々と食べ続ける少年に、ため息をついて声をかける。
「おい」
「……うん?」
「なんかあったんか」
「……」
「あの女に、なんか言われたんか」
「そうじゃねぇよ。そうじゃなくて……別になんも、たいしたことじゃ……」
「どこが、たいしたことじゃねーっつーんだ。ずっと黙ったままじゃねーか。顔も上げねーで、俯いたまんまだし。言え、何があった」
流川の頑固な言いように、少年は諦めてため息をついた。
とても重くなっているその口を、無理矢理こじ開ける。
「……嫌だったんだよ」
何が嫌だったのか、流川にはまるで分からない。
黙って先を促すと、少年は眉間にしわを寄せた。
「……オレが知らねぇおめーを、誰かが知ってるのが、嫌なんだ」
「てめーが知らねーオレ……?」
「オレ、てめーがバイトしている間、てめーが何しているのかなんて知らねぇ。でも、一緒にバイトしている人は、そん時のてめーを知ってんだ。
オレ、てめーのことなら全部知ってんのかと思ってた。心のどっかで、てめーのこと全部。でも、違ってた。
なんか、それがすげぇ嫌だ。オレ……」
「どあほう」
流川は少年の言葉を遮る。
「てめーの知らねーオレがいるか」
「……でも」
名前すら、知らなかったのに。
それを口にする前に、流川は畳み掛けてくる。
「今現在、オレのことを誰よりもよく知ってんのは、てめーだ、どあほう。一日の大半一緒にいて、いまさら何言ってんだ。
それに、オレはバイト先でも変わらねー。違うとこっつったら、全然しゃべんねーことくらいだ」
少年は顔を上げた。
「しゃべんねぇの……? なんで」
「必要ねーから。しゃべりたくもねーし」
「ルカワ」
何故だかその言葉に嬉しくなる。少年は笑みを作らずにはいられなかった。
そんな様子に流川は気付かないまま、目を伏せて抑揚のない言葉を続ける。
「くだんねーことで落ち込んでんな。さっさとメシ食え」
その言いぐさに、少年はムッとする。
「くだんなくなんかねぇよ。オレぁ本気だぞ」
「わかったから、心配すんな」
照れを隠し切れないように、嬉しいのを止められないように、少年は笑った。その違いに、相手は気付いていないようだけれど。
ようやく復帰した少年に、流川はほっと息をつく。あのままだったら、こっちまでどうにかなってしまいそうだ。
先程とは雰囲気の違う沈黙が、しばらく落ちたあと、少年はためらいがちに口を開いた。
「……なぁ、ルカワ。わがまま言ってもいいか」
上目遣いに聞いてくる。かわいく見えるのは、どうしてだろう。
淡々と流川は言い返す。
「言うだけ言えば」
ちぇーっ、とぶすくれたあと、少年はニッと笑った。
「てめーのベッドで寝ていいだろ? ソファだと窮屈なんだよ」
「……オレの寝るとこは?」
「一緒に寝りゃいいじゃん。あのベッド、てめーが三人余裕で寝れるくれぇ、広ぇじゃねぇ? 全然、大丈夫」
「……好きにすれば?」
「おう。好きにする」
翌朝。
いつもと変わらない日常。いつもと変わりない始まり。
清々しい朝の陽射しに送り出され、流川はバイトに向かう。
一瞬見上げたベランダからは、少年が笑みを浮かべてお見送り。
「ルカワ。帰りに卵買ってきてくれねぇ?」
わかったと頷いてみせ、流川は自転車に跨った。
いってらっしゃいの言葉に、軽く手を上げる。
風を切って走り出す。
流川は、いつもとはどこか違う自分を感じていた。
今まで、誰かに好意を向けられて、嬉しいと感じたことは一度だってなかった。いつも、ただ鬱陶しいとしか思わなかった。
でも、今は違う。
少年の笑顔が好きだ。
無闇に勝負を挑んでくるのが楽しい。
不貞腐れた顔も好きだ。
わがままだって、出来る限り聞いてやりたいと思う。
声が好き。仕草が好き。料理も好き。
そうか。流川は初めて気付く。
自分は、あの少年が好きなのだ。
突拍子もない結論かもしれない。けれども、それを否定する気は全くなかった。
むしろ、喜んで自覚したいくらいだ。
朝の冷たい風を切りながら。
流川は、一人の男とすれ違った。
その日を境に、少年の姿は忽然と消えた。
続く
⇒きまぐれにはなるはな