ただあなただけの存在[1]
桜木花道は外を見ていた。大きなガラスが埋め込まれている窓は、けれども換気と採光のためだけのものらしく、そこから窺える景色は、ただ真っ白な、この建物の外壁だけ。
夜も寝静まった深夜。薄ぼんやりとした月の明かり。それに照らし出される顔は、どこか白んで見える。
外気をガラス越しに額に感じながら、桜木はひとつ、ため息をついた。
彼がここに収容されて、もうどれだけの月日が流れたのだろう。それとも、もしかしたらそれは、年月に置き換えられるほどの長さなのだろうか。
時計も暦も置かれていないこの部屋では、それを知る術はない。別に知る必要もなかった。
彼は病に侵されている。心臓病だ。
移植手術を行えばそれは治る類のものだが、絶対的にドナーの数は少なかった。それこそもう何年も待ち続けながら、叶わずにその生涯を閉じた人達を何人も知っている。
そして彼は、自分もその中の一人になることを覚悟していた。
死ぬことに恐怖を覚えていないわけでもないけれども、自分の運命に逆らう気もなかった。
取り立てて、何かを成したいという目標もない。
今まで生きてきた人生に悔いもない。
彼は満足していたのだ。だから、別に死んでもいいと思っていた。
ただ、仙道は違った。
「オレに任せて。絶対に助けてみせる」
そう言って仙道は、自分の職場でもあるこの研究所に、桜木を連れてきた。同意の下に。
海と山のちょうど中間にある、街から少し離れたこの場所に。
仙道は、桜木の友人だ。今となっては、ただ一人の。
それはきっと、互いに言えることだろう。
桜木が知る限り、彼は毎日研究に明け暮れている。友人を作る暇もないほどに。
仙道は桜木を失うことを、過剰に恐れていた。
桜木のいるこの部屋を、仙道は毎日のように訪れる。しかし、検査も何もない。
他愛もないことを数分話して、体の調子を聞く程度だ。
一体何のためにここにいるのか、桜木は分からなくなる。
仙道は何を考えているのか。まるでさっぱりだ。
自然と洩れるため息に、桜木はふと我に返る。
最近、寝付けない夜が多い。
だからといって、このままでは睡眠不足になってしまうだろう。そうすると仙道が心配する。
窓を離れ、ベッドへと踵を返したとき。
廊下を誰かが歩く音がした。
こんな夜更けに誰だろうと、桜木はいぶかしんだ。いや、それよりも。
この足音は、まるで裸足のそれだ。
ドアに体を向けて、桜木はその足音に耳を澄ました。
段々とこちらに向かっている足音が、不意にぴたりと止む。この部屋の前で。
そして間を置かずに、そのドアは開かれた。ためらいもなく。
侵入者のその容姿に、桜木はただ、目を見張るだけだった。
先程の男は、一体誰なのだろう。
少年は、道を街に向かって駆けながら、あの白い建物の、何もない部屋でたたずんでいた、真っ赤な髪の人を思う。それは月の柔らかな光を受けて、きらめく朱色に輝いていた。
その下の澄んだ目が、自分を認めたとたん大きく見開かれ、その顔は驚愕を露にした。
ようやく開かれた口からは、擦れた声が発せられた。
名前は、と。
その問いに答えを返すと、男は眉間にしわを寄せた。
悲しそうに眉を寄せ、苦しそうにこちらを見る。そして、一瞬唇を噛み締めたあとにこう言った。
逃げろ、と。
少年は、何故自分が逃げなければならないのか分からなかったが、男の目はとても真剣だった。どうして、と問う間もないほどに。
とにかくここを出ろと、この建物から姿をくらませと言う。
頼むから。
悲痛なまでの訴えに背中を押されて、少年はその部屋の窓から外へと抜け出した。
もう二度と、ここへは戻るな。
振り返った少年に、男は強くそう言った。
覚束無い足取りで道を駆けながら、少年は今更のように裸足に気付く。
左の、何もさえぎるものがない――海のほうの空が、うっすらと白じんでくる。
――夜明けが、近い。
少年は、ふと足を止めた。そしてそのまま、日の出までの短い時間、そこに立ち尽くす。
朝日が顔を見せた瞬間。知っているはずの、そのあまりもの眩しさに、少年はあわてて目を保護した。
まるで、初めて網膜が焼かれたみたいだ。
「……すげぇ」
閉じた目蓋の裏が、オレンジ色にちかちかする。それが収まるまで、少しの時間がかかった。
街に着いたとき、まだ早朝の所為か、通りには人影はほとんどなかった。
微かに聞こえる鳥の声に耳を傾けながら、徒に少年は歩いていく。
街まで来たのはいいけれど、これから一体どうしようか。
見れば、身に着けている衣服は病院で検査を受けるときのそれで、もちろん金銭の類は一切入っていない。
自分の格好をいささか疑問に思いながら、少年は途方にくれた。
何をするにしても必要となるものがなければ何も出来ない。
野宿という言葉が頭に浮かんだが、食べ物に関してはどうしようもなかった。
見たところ、街は人工色にあふれている。ここへ来るまで、口に出来るようなものも生息してはいなかった。
海や山に向かえば何かあるのかもしれないが、果たしてそれまで腹が持つだろうか。
人気のない建造物が立ち並ぶ道を、あてもなく少年はさまよい続ける。
と、その時。どこからかボールが弾むような音が聞こえてきて、少年は辺りを見回した。
リズムを刻む音は、この近くだ。それに誘われるように、歩みを進める。
静かな街に、その音だけが反響していた。ともすれば迷いそうになるその音源を、確実に伝っていく。
しばらくすると、フェンスで囲まれた一画が見え出した。
少年は、かすかにこわばらせていた顔をほっと緩める。不安を払拭して、足早にそこへ向かった。
――人がいる。
茶色の大きなボールを持って――あれは確か、バスケットボールだ――青年が一人、リングと対峙している。少年は思わず目を見張った。
漆黒の目と髪を持ち、その面は磁器のような滑らかさで、とてもきれいだ。けれどもその眼光は、きれいという言葉を遠ざけてしまうほどに鋭い。
すらりとした長身。易々とボールを掴み、それを自在にあやつる手。
架空の敵がいるのか、おそろしく機敏に動く足。切れのある動作。
その動きの一つ一つを、少年は理解することは出来なかったが、目が離せなかった。
時には鋭く、時にはふと足を止めて、刻まれ続けるドリブル。それは何ら危な気などなく。
やがて青年は、軽く地面を蹴った。
のびやかにボールは弧を描く。まるで吸い込まれるように、それはリングをくぐり抜ける。
背中がぞくっとした。すごいと思った。
全身がぞくぞくする。込み上げる感情が、唇の両端を引き上げる。早鐘が止められない。逸る気持ちも止められなかった。
少年は、こぼれたボールにとびついた。それを見て不機嫌に眉を寄せる青年に、びしっと人差し指を突きつける。
「ショーブしょうぜっ」
爛々と目を輝かせる少年。
ボールを抱え込む姿を見て、青年は深くため息をついた。
シュートが一本も決まらない。それどころか、ドリブルもままならない。
そんな少年の無様な様子に、青年はもう一度ため息をついた。
この調子では、勝負どころの話ではない。それ以前の問題だ。
ぎこちない少年から容易くボールをカットして、終わりとばかりにシュートを決める。
くぐったボールを頭上で受け止め、ちらりと見ると、膨れっ面の少年が、ずいっと両手を差し出していた。
ため息が止められない。
「終わり」
「終わりって、まだ一回しかやってねぇじゃねーか」
「充分だろ?」
言ってくるりと背中を向けると、大きな声が引き止めた。
「あーっ、ひでぇ! 勝ち逃げかよっ」
少年は地団駄を踏む。青年は見下ろすように一瞥して、冷ややかに言い放った。
「これ以上やったって無駄。てめーの負けが増えるだけ」
「んなことねぇよっ。次は勝つ。ぜってー勝つ!」
「初めてボール持つヤツが言うセリフじゃねーな」
「はじめてじゃ……」
言い返そうとして、少年ははっとした。
たしかに。
確かに、初めての感触だ。
そんなはずはないと思うのに、そんなばかなこと、あるはずがないと思うのに。
少年は思わず、自分の両手を見た。
そんな……そんなばかなこと、あるはずがない。
だって記憶はちゃんとある。体育の授業で何度もやった。確かに何度もやったはずだ。なのに。
なのに……記憶がはっきりしないのは何故だろう。
ゆっくりと、少年は青年を見上げる。
まるでバスケをしたことがなかったかのような感触。
何一つはっきりとしない記憶。
「……あれ?」
青年の言うとおりかもしれない。
少年は、ぎこちなく視線をそらした。その強張った表情を、青年は見過ごさなかった。
ぼんやりとした記憶はあるのに、思い出と呼べるものが何もない。すべてが断片的で、すべてに靄がかかっているみたいだ。
不安が押し寄せてきた。
少年の先程とは打って変わった様子に、青年は声を掛けようとかと思う。その時。
急にきゅるるるるという盛大な音が、どこからともなく聞こえてきた。
びっくりしたように少年が顔を上げる。そしてきょろきょろと辺りを見回した。
「……なんだぁ?」
青年は思わず、あきれ返ってしまう。
「ハラ減ってんじゃねーの? てめーだろ、今の」
「腹?」
少年は俯き、その箇所に手を当ててみる。
言われてみればそうかもしれない。にわかに空腹感が襲ってきた。
そうか、さっきのは腹が減って鳴った音か。
なるほど。青年の言うことは、いちいちもっともだ。
少年はとりあえず、この食欲を宥めようと、青年に向き直る。
「なぁ、この辺にどっか、食いもんなってるところ、ねぇ?」
「……は?」
「果物でも木の実でも草でも、何でもいいからさ、食いもん」
「……金ねーんか」
「おう。ついでに家もねぇぞ」
青年は眉を顰める。
「どっから来たんだ、てめー」
「この外れにある、白い建てもんから」
「外れ?」
そういえば何か、病院だったか研究所だったかが建っていたかもしれない。
全く興味のないことなので、あまりよくは知らないけれど、なるほど、それならこの少年の格好も納得できる。
今更のように、青年はその姿を訝った。
「病人がこんなところで何してんだ」
「病人じゃねぇよ。……たぶん。どこも悪くねぇし」
弱くなる言葉じりに、どうだかと思いながら青年は続ける。
「んじゃ、逃げてきたんか」
少年はムッと唇を尖らせた。
「ちげぇよ、追ん出されたんだよ。――あ、でも、逃げろっつわれたっけ」
よくわかんねぇと首をひねる少年を、妙なものにかかわってしまったと青年は見下ろす。
基本的に、面倒はごめんだ。いつもであればこんな厄介ごと、完全に無視して通り過ぎることが出来るのに。今回は勝手が違った。
何故か放っておくことが出来ない。
自分の胸より下にある、赤みを帯びた茶色い髪。同じ色の目。汚れた足。
強気な態度でくるかと思えば、急に不安を隠しもしない。なのに、人に頼ろうとしない。そんなところが……。
青年は、自分自身にため息をつく。
「行くとこねーんなら、うち来るか」
弾かれたように、少年は顔を向けた。
「いいのかよ」
見開かれる目に囚われる。よく見れば飴色だ。髪のように赤みは帯びていない。
戸惑いあらわの少年をよそに、青年はボールをバックに詰め込んだ。
「よくねーんなら誘わねーよ」
「……わりぃな」
ぶっきらぼうな青年に、少年は、はにかみながら笑って見せた。
青年の住まいである学生寮は、今やほとんど人影がない。いや、学生に限らず、街全体が人口減少傾向にある。
5年ほど前から本格的に、人々は大気圏外に移住し始めたのだ。
移住者ははじめ、研究員が主だったが、やがてその家族も移り住むようになり、今では立派な都市がいくつも出来ているという。
新天地に夢を求める者は少なくなく、あらゆるものが宙に移った。
青年の高等学校も例外ではない。
月や火星、コロニーでの生活が可能になってから、ここ10年で急速に社会は変わった。政府はこれを機に、抜本的改革を行なった。教育編成もそのひとつだ。
就学は変わらず7歳からであるが、15歳までは初等学校として義務付けられ、16歳から20歳までは進学自由の高等学校。21歳からは専門と呼ばれ、以前で言うところの大学にあたる。
したがって、大半の人々は高等学校まで勉学に勤しんでいる。青年もその一人だ。
初等学校を卒業すれば、大概が独立を始める。そのため、高等学校には寮が付き物だった。
総六階建て。建物自体はまだ新しい。しかしこの中に居を構えている者は、両手で事足りた。
三階の一角、そのドアを青年は開ける。入室を促す言葉はない代わりに、少年を返り見た。
「おじゃましまぁす……」
緊張しているのか、少年はおずおずとそう挨拶をすると、きょろきょろと辺りを見回す。
「あがれば」
「でも、足拭かねぇと」
あぁ、そうか、と青年は目を落とす。見事な汚れようだ。
玄関のちょうど正面に、二つドアが並んでいる。その左側に、青年は少年を連れて行った。ちなみに、右側はトイレだ。
洗面所からバスルームに進み、シャワーをかけて足を洗う。最初は何故かおっかなびっくりしていた。水の感触がこそばゆかったらしい。
水気を拭き取るタオルのふわふわに感激し、嬉々として廊下へ出た少年が不意に立ち止まった。
洗濯機にそれを放り込みながら、青年は声を掛ける。
「どうした」
少年は、廊下の突き当たり、玄関のすぐ脇に備え付けられている鏡を見入っていた。
「これ、オレだよな?」
茶化しているわけではない、真剣な問い掛けだ。しかし、青年の口からはため息が洩れる。
「てめーじゃなかったら、何だってんだ」
「わかってんだけど……何か変だ」
むーんと、自分の姿をのぞき込む。上から下まで視線を走らせ、上体を退いて見て、小首を傾げた。
「やっぱ、何か変だ」
「どこが」
「それが、わかんねぇ」
顔をしかめたまま少年は言う。
「どこもおかしくねーよ。見たまんま、てめーはサルだ」
不安を取り除くための言葉なのか、はたまた本心なのか。
青年の言葉をそのまま受け取った少年は、ぐるりと彼を振り返った。もちろん、目を据わらせて。
「オレがサルなら、てめーはキツネだな」
仕返しのつもりなのだろうか。いーだをすると少年は、するりと脇をすり抜けて、廊下を小走りにかけていった。青年は今日でもう何度目かのため息をつく。
廊下に面している残りひとつのドアを開けて、少年は部屋を探索し始める。
まず目の前に、大人が三人腰掛けられるほどのソファがひとつ居座っており、その右隣には、同じ幅のガラステーブルが、上に何も載せない状態でいた。
二点の延長の壁には、大きなマルチパネル。これでは衛星回線を使って、様々なことが出来る。月に移ってしまった高等学校の講義も、これを通して受けることが可能だ。
右手の仕切られた部屋は寝室で、殺風景にベッドがひとつ置いてある。
少年はくるりと向きを変え、廊下左手に向かった。
ソファの背後に木のテーブル。これには椅子が二脚しかない。鍵型に続く先はキッチンだ。
生活感がまるでない。人が住んでいるとは到底思えなかった。キッチンにいたっては、ほとんど使用されていないかのようだ。
「あんた、ホントにここに住んでんの」
少年は思わず聞いてしまった。
「なんで」
「だってよ、あんまり人のにおいがしねぇ」
「ほとんどいねーから」
「なんで?」
少年はソファに腰を下ろすと、首だけキッチンへ向けた。
ちょうど青年が冷蔵庫を覗き込んでいるところで、何もなかったのか舌打ちしている。
「バイトしてっから。暇なときはバスケすっし。ここには寝に帰るだけ」
「勉強は?」
「出先からでもアクセスできる」
キッチンから戻った青年は、ため息をつきながら少年に言った。
「なんもねー」
「寝るためだけの家だもんな」
顔を仰向かせ、面白そうに少年は笑う。
普段、表情筋が金属で出来ているんじゃないかと噂される青年だが、向けられた笑顔を見て、ほんの微かにだが、その面がほころんだ。
続く
⇒きまぐれにはなるはな