黄昏のその際に陽は紅々と燃え上がる[1]

 その女の声には聞き覚えがあった。練習の時や試合の時に、いつも耳にする声だ。
 多くいる親衛隊とやらの一人なのかもしれないが、でもその声は必ず、それとは別のところから聞こえているので、はっきりとは言えない。
 特別知りたいと思ったことはないが、ただうるさいだけの女とは違い、いつも的確な、バスケを知っている者の応援の仕方をするので、流川にしては珍しく、その声を認識していた。
「桜木くん、こっちこっち」
 朝の喧騒にまぎれるように、その声は耳に届いた。後数歩で自分のクラスというところで、流川は何気なく声のする方へと振り返る。
 同じ生徒たちが行き交う中に、ひょっこりと赤い物体が抜き出ていた。それが何なのか分からないままに、じっと見つめ続けていると、やがて人の頭だと認識できた。
 短く切られた赤い髪は、ハリネズミのように立ててあり、その下は精悍な顔つきである。
 切れ長の大きな目に、りりしい眉。筋の通った鼻の下には、ふっくらとした唇が目許と相俟って、どこかあどけなさを演出しているかのようだ。
 まさしく男と少年の間に位置している彼の人は、先程の声につられるように人の波を縫っている。流川の不躾な視線にも全く気付く様子はなく、一人の女生徒の隣で立ち止まった。
「ほら、彼が流川くん」
 彼女の指につられながら、赤い髪は窺うように顔を上げた。そして当たり前のように流川と視線を絡ませる。
 顔の筋肉を微塵も動かさずに、流川は感情のない目でそれを見返す。ほとんどガンを付けていると言っていいそれをまともに向けられて、黙っているタイプではないと容易に察しがついた。
 確かな体つきにかなりの上背。ましてやその髪の色だ。一騒動起きるかもしれない。ちらりと流川がそう思ったとき、不意に赤頭は笑った。
 にっこりと屈託なく、嘘偽りのない本物の笑顔を、満面の笑顔を、流川によこしたのだ。
 予想だにしなかったその反応に、流川はわずかに目を見開いた。周りの喧騒が嘘のように掻き消えていく。まるで彼だけが浮き彫りにされたかのように、流川の目は吸い寄せられる。その笑顔に釘付けになる。
「おめーがルカワカエデか」
 発せられた声に、全神経が集中する。今まで誰からも聞いたことのない独特の発音で、それが自分の名を呼んだことに、流川は指先をぴくりと動かす。5mほど離れている彼の声は、驚くほど素直に流川の耳に届いた。
「オレは桜木花道ってんだ。よろしくな」
 届いた三つ目の暗号を、流川は瞬時にインプットする。
 と、その時。不意に校内にチャイムが鳴り響き、流川は現実へと引き戻された。周りに突如あふれ出した人に、桜木の姿が掻き消されそうになる。
 あわてて瞬くが、目が慣れた頃には、彼の姿はどこにも見出せなくなっていた。
 高校一年の夏の初め。
 これが、流川と桜木の出会いだった。


 その日、流川はひどく落ち着かなかった。いつもは眠ってしまう授業中も、彼はずっと起きていた。入学してから丸二ヶ月、一度たりともなかった現象に、級友たちはおろか、教師までもが驚きを隠せずに、頻りと彼の様子を窺っている。
 けれども流川はお構いなしに、ただぼーっと前を見ていた。いや、それは見ているように見えるだけで、実際は何も目に映してはいなかったが。
 目を閉じると、その目蓋の裏に、桜木と名乗ったあの鮮やかな赤がいっぱいに広がった。すると、何だかひどく心がざわめいて、とても眠りにつける状態ではなくなってしまう。
 たまらず頭の中から追い払おうとすると、今度はあの笑顔がよみがえった。見るまいと、ぎゅっと固く目を閉じると、あの声が耳の奥で反響する。堪えられなくて目を開けると、それらはすべて消えてしまうが、今度は一つ残らず不確かなそれに、ひどく不安になった。
 目を閉じていても開いていても、あの影が頭から離れない。突然現れた赤い影。鮮やかな赤。輝かんばかりの赤。廊下の窓から差し込む陽の光に照らされて、きらきらとゆれていた赤。自分の手に馴染んだバスケットボールなど、比べものにもならないほどの、きれいな赤。
 あれだけ目立つのだ。しかも187cmある自分とほぼ同じ長身。いくらバスケと睡眠以外に興味のない流川とはいえ、その存在に二ヶ月もの間、気付かないはずはないだろう。
 ……夢を見ていたのかもしれない。でも何故、そんな夢を見なければならない。
 確かめようと思った。確かめなければ。彼が現実にいるのかどうか。
 流川の目は一瞬だけ意志を持ち、黒板の上に掛けられている時計へと向けられた。無表情のその下で、流川は早く授業が終わることを祈ったが、望みとは裏腹に進むのが時の流れというものだ。焦る気持ちを抑えつつ秒針を睨み付ける。いっそのこと飛び出してしまおうかという気にさえなってしまう。
 何をそんなに囚われているのか、流川には分からなかった。何故初対面の、しかも数瞬しか目に映らなかった彼のことが気になるのか。
 他人の顔など覚えない質だ。なのに彼のことだけは、あの一瞬で鮮明に焼きついてしまった。
 容姿、声、名前。あの時知り得た総べてのものは、しっかりとインプットされている。なのに不確かだ。ひどく不安定だ。
 もっと知りたい。もっと確かなものにしたい。あの桜木という存在を。
 そのためには一刻も早く、まずは現実にここにいるという確証が欲しかった。
 流川は、待ち構えていたチャイムが鳴るや否や、教師が終わりを告げるのももどかしく、早々に、けれどもごくゆったりとした動作で席を立ち、すぐ脇の後ろのドアから教室を出た。
 学年など知らないが、今朝この廊下にいたのだから、たぶん同じ一年だろう。十ある教室を端から順番に覗いていく。
 隣の9組、続く8組と希望の赤はなく、階段を挟んだ次の7組に行く途中で、そう気の長くはない流川はため息をつく。
 よしんば彼が本当にいたとしても、今は休み時間だ。もしかしたら、席を外しているかもしれない。今すぐにでも会いたいのに、会えないかもしれない。でも、何故こんなに、会いたいのだろう。
 7組の前まで来て、流川は足を止めた。
 いるだろうか、今度は。
 思い切りは諦めにも似た思いを断ち切るために、流川は伏していた目を上げる。
 後ろのドアから覗いた。巡らす視線の先、窓際の一番後ろの席に探していた赤を認めて、流川はそっと息をついた。安堵の息だった。吐いたその口は、とても慎重に見ていても分かるか分からないかの具合で微笑を作る。
 ――いた。
 一人でぼーっと外を眺めている。周りにはあまり人がいず、まるで孤独には慣れているかのように彼の姿は自然だった。そのことに流川は違和感を感じる。インプットされた桜木と、今ヒジをついて黙っている背中が、同じものだとは思えなかった。
 別人なのだろうかと一瞬思う。けれど、あんなに印象的な赤は、他にあるはずがない。せめてこちらを向いてくれないだろうかと思ったとき、一人の女生徒が桜木のもとへとやってきた。今朝方、彼と一緒にいた女だ。
 彼女に気付いて、桜木は窓の外から目をそらした。やわらかく微笑んで何か言う。流川には、始まった会話の内容などかけらも聞こえてこなかったが、ただじっとその横顔を、桜木の横顔を見ていた。
 驚くほどよく変わり、驚くほどその表情は豊かだ。相槌を打つように頷くその顔はまるで幼子のように無防備で、時折眉根を寄せ唇を尖らせたり、尊大に腕を組んで頷いたり、そうかと思えば困ったように、照れたように、はにかんで見せている。
 流川は見たいと思った。横顔ではなく、その表情を真正面から。
 こちらを向いてくれないだろうか。休み時間もあとわずかだ。先程みたいに、こちらを向いて笑ってくれないだろうか。
 すると、彼女の方が流川に気付いたらしく、こちらを見て驚いたように口に手を当て、頬を薄く染めた。桜木は、そんな彼女にきょとんとした眼差しを向け、小首を傾げながら呼びかけたようだ。そしてその視線を追うように、今もまたゆっくりとこちらに顔を向けた。
 その瞳が流川を捉える。瞬間、流川の身体が大きく脈打った。どくんと一つ、音を立てて。流川を認めた桜木は、ひどく嬉しそうに笑い、その口を開いた。
「ルカワ」
 心臓を鷲掴みにされた思いだった。
 桜木が自分に笑いかけ、名を呼んでくれた。たったそれだけのことなのに、チームメイトなら誰だってする行為なのに、それが桜木というだけで、流川はひどく苦しくなった。
 何でだろう。何故こんなに痛いんだろう。
 流川はそれに耐えるべく、ぎゅっと眉間にしわを寄せ、固くこぶしを握り締めた。それでも目だけは逸らさずにいると、桜木が不思議そうに小首を傾げた。その動作に流川ははっとする。
 咄嗟に、何か言わなくてはと思うが、流川はその術を知らなかった。今まで、バスケ以外ではあまり人と関わりを持ったことがない。友人と呼べるような人間は一人もいなかった。だから、自分の思いを言葉に変換することに全く慣れていなかった。
 流川がその口までもぎゅっと引き結んだとき、休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴り出した。傍らにいた彼女があわてたように手を振りながら去っていく。桜木がそれに気をとられた瞬間、流川は呪縛から解き放たれた。すばやく踵を返し、その場を後にする。
 嬉しいのに泣きたくなった。泣きたくなるなんてことは、今までに一度だってない。試合に負けた時でさえ、そんなことはなかった。
 一体自分はどうしたのだろう。
 こんな自分は知らない。こんな訳の分からない自分は嫌だった。そして、笑いかけられて名を呼ばれたあの時、それに答えられなかった自分はもっと嫌だった。
 笑顔を返したかった。彼に負けないくらいの笑顔を返したかったのに、自分は笑い方を知らない。それがひどくもどかしかった。
 桜木はどう思っただろう。自分のことを、どう思っただろう。そんな思いが脳裏をかすめ、流川はふと、足を止めた。
 何故こんなことを思わなければならない。
 何故こんなことを悩まなければならない。
 らしくない自分に、流川は怒りを感じた。力任せに教室のドアを閉め、自分の席に腰を下ろす。狂ったように頭をかきむしり、髪を指に絡ませながらずっと机を睨みつけた。ただ一心に、頭の中から桜木を追い出すために。それは次の休み時間まで続いた。
「すげーな、あの赤い髪」
 不意に耳に入ってきた言葉に、流川の意識は矛先を変える。斜め前の席から聞こえてくるその雑談に、流川は耳を澄ました。
「思い切ったことしたよなぁ。誰だ、あいつ」
「あんなヤツいたか?」
「あー、なんかさ、今日が初登校らしいぜ」
「え、何。入学早々、何かやらかしてたの?」
「詳しいことは知らないけど、別にそんなやばそうな感じじゃないみたいだぜ」
「センコーも何も言わねぇもんな」
「じゃあ、何。あれ、地毛?」
「まさか」
「わかんねぇ」
「センコーも、ただコエーだけだったりして?」
「ありうるな」
 そう言って馬鹿笑いする数人の男子生徒は、さっさと次の話題に移行した。流川はぼんやりと今の会話を反芻する。
 今日が初登校。どうりで記憶にないわけだ。
 でもどうして今まで学校に来なかったのだろう。それに。
 ……そうだ。今まで気付かなかったが、彼は流川に笑いかけた。
 クラスで一人、外を眺めていた桜木。彼があの笑顔を皆に向けていれば、彼は一人ではなかったはずだ。まるで人を拒むかのようにも見えた背中。体をわざと小さくして、自分の存在をあまり周囲に悟らせないようにしているような、そんな感じすら受けた。なのに自分には、はじめから笑って見せたのだ。
 何故?
 知り合いだっただろうか。いや、そんなことはありえない。現に桜木は自分のことを知らなかった。初対面のはずだ。では何故。
 何の悪意も感じられなかった。一点の曇りもない笑顔だった。それが自分に向けられる理由が分からない。
 流川はため息をついた。分からないことが多すぎた。
 その日の放課後。部活に勤しんでいた流川は、目の端にちらつくそれに珍しく気付いていた。いつもはその最中に、外野に目がいくことなどないのだが、まるで待ち構えていたかのように、開け放たれた扉の向こうから桜木が姿を現したとたん、流川はそれに気付くことが出来た。
 彼女に連れられるようにやってきた彼は、そっとコートに目を向けた。そして流川と目が合うと、まるで癖になったかのように笑って見せた。
 流川はふいと顔を逸らす。今は部活中だ。桜木に気を取られるわけにはいかなかった。
 休憩の間に、何度か桜木と目が合った。その度に桜木は笑顔をよこした。そして流川は目を逸らす。桜木がこちらから顔を逸らすのを待って、流川はそちらを盗み見る。
 桜木は、傍らの女のことを「ハルコさん」と呼んでいた。


 彼女の名は赤木晴子というらしい。
 桜木と晴子は、ほとんどと言っていいほど一緒にいる。そして毎日、二人そろってバスケ部の見学に来ていた。
 そんなことが当たり前になったある日。桜木が一人で体育館を訪れた。ちょうど休憩のときで、流川はその対面の壁で一息ついていた。
 まっすぐ目の先で、桜木は顔をほころばせる。流川は腰を上げ、最短距離で彼に近付いていった。
「よう」
「……ひとり?」
「おう。……てめー、ようやっとしゃべったな」
 首に掛けたタオルで汗を拭きながら、流川は桜木を見た。そんな流川に、桜木はいつもと違う、にやりとした、まるでいたずらっこが悪戯を仕掛けたときのような笑いをよこした。
「初めて聞いたぜ、おめーの声」
 ふっと流川の目がやわらかく細められる。桜木と言葉を交わしたのはこれが初めてだ。
 ただ目が合っていた時とは違い、流川はとても穏やかな気持ちになれた。こうなることが分かっていたら、もっと早くからこうしていたのにと思う。思いながら無理だったことを知っている。晴子がいない今だから、彼に話しかけることが出来たのだ。
「……赤木は」
「今日は委員会があるから、ここで待ち合わせだ。……て、ルカワ。ハルコさんを知ってんのか……?」
 ひどく驚いたように桜木が目を見開く。子供のようなその顔に、流川は薄く笑ったが、それはすぐに引っ込められた。そしていつもの抑揚のない声で、「しらねー」と答えた。
「てめーといつも一緒にいる。それしかしらねー」
「ああ……そっか」
 どことなく残念そうに、吐息混じりにそう呟く。何をそんなに落胆したのかは知らないが、流川はお構いなしに、ずっと気になっていたことを口にした。ごくさり気なく。
「……彼女なんか」
「何が?」
「赤木。……付き合ってんの?」
 とたんに桜木は顔を真っ赤に染め、慌しく右手を左右に振り始めた。
「とっ、とんでもねぇっ! ハルコさんは、そりゃオレは好きだし、憧れてはいるけど、そんなんじゃなくて。ハッ、ハルコさんが好きなのはおめーだし、ただの、そう、ただの幼馴染みっつーやつで。だから、あの」
「もういい」
「……は?」
 きょとんとして問い返す。必死に言い訳する桜木も、今のまるで無防備な桜木も、流川はひどくいとおしく思えた。
「もうわかった」
「……おう」
 桜木は、困ったようにぎこちなくそう頷く。そして、そのまま流川から目を逸らさずに、まるで惚けているような感じで言った。
「ルカワ……おめー、きれーだな……」
 何のことを言っているのかわからずに、流川は桜木を見返す。
「おめー、笑うとすごくきれいだ」
 その時流川は初めて、自分が桜木に笑いかけたのだということを知った。


 用事の済んだらしい晴子が桜木の隣に立つのを、流川はコートの上からちらりと見ていた。それからしばらく練習風景を見ていたようだが、次に顔を上げたときには、二人の姿はもうなかった。
 二人はいつも一緒にいる。桜木の隣には、いつも当たり前のように晴子がいた。晴子がいないときは、桜木はいつも一人だった。
 きっと特別なのだろうと思っていたのに、桜木は違うと言った。好きで、憧れてはいるけど、彼女ではないと。ただの幼馴染みだと。
 流川は人一倍周りに無関心で、バスケ以外のことはあまりよく知らないから、男女がいつも一緒にいるのは単純に付き合っているからだと思っていた。なのに、違うと言う。
 そのことに、何故かほっとしていた。何故ほっとしたのかは分からない。
 ただ漠然と、自分はあそこにいてもいいのだと思った。桜木の隣に立っていてもいいのだと。そして、ずっと以前からそうしたかったことに気付く。
 でも、したくても出来なかった。晴子がいたからだ。彼女の存在は、たとえ流川の目に留まることがほとんどないにしても、とても大きいものだった。
 桜木は、自らの周りに張り巡らせている目には見えない壁を、晴子にだけは開放する。晴子はそれが当たり前だと思っているのか、それともまるでそれに気付いていないのか、ごく自然に桜木のそばへと寄っていく。
 壁を取り除く基準は何なのだろうか。流川は今まで、壁を作られたことがないことに気付く。初めて出会ったあの時から、流川に対してそれはなかった。
 何故だろう。
 考えて、そして気付く。
 晴子が好きなのは流川だと、桜木は言った。だから自分たちはなんでもないのだという理由として。でも、桜木は晴子のことを好きなのだ。だからだろうか。
 自分の好きな人が恋する相手だから、桜木は流川を受け入れたのだろうか、晴子のために。いつも一緒にいる晴子のために。
 そこまで考えて、流川は自分がイラついていることに気付いた。何にイラついているのか分からないままに、ぎゅっと眉間にしわを寄せる。何やら胸の奥に詰まっているものを吐き出すように、一つ大きく息を吐いて、流川はゆっくりと目を閉じた。
 自然、目蓋の裏に桜木の笑顔が映し出される。それを見て、流川は薄く笑った。
 別にいい。今はそれだけでいい。自分は、桜木の隣に立つことを許されているのだ。それだけで充分だ。

続く

きまぐれにはなるはな