enigmatic[3]

 桜木の口癖である「何でかなぁ」は、あらゆることに使用される。
 流川と同じ大学に通っていること、隣に流川が住んでいること、流川とほとんどの時間を共有していること。そして時々、流川といると心臓がドキドキすること。
 高校のときも、確か似たようなことで悩んでいたときがあった。今はもう就職してしまった三馬鹿に、いつも流川のこと見てるんだな、と言われたときだ。
 桜木は、そんなことねぇと反論したが、今思えば、確かにいつも流川を目で追っていたし、イメージトレーニングで参考にするのもヤツだった。
 部活の帰り道。居残り練習をやっていくという流川より一足先に体育館を後にした桜木は、何でかなぁと頭の中でくり返す。
 ひとしきり考えた後、
「わかんねぇや」
 と呟いたときだった。
「さくらぎーっ!!」
 いきなり背後からがばりと抱きしめられて、桜木はひどくうろたえた。が、それも一瞬で、その声が誰のものか思い当たった桜木は振り返った。
「センドーじゃねぇか」
「元気だった? 桜木」
 これ以上ないというくらい幸せそうな笑みを浮かべて、仙道はもう一度桜木を抱きしめた。桜木は苦笑する。
 仙道のいつもの挨拶には慣れていたはずだが、久し振り過ぎていささか照れる。しかも、ここは大学からそう離れたところではないのだ。知り合いに見られでもしたら、またからかいのネタにされかねない。
 とにかく、感動まで覚えてしまっているらしい仙道を引き離し、桜木も再会の嬉しさを笑むことで表した。
「どこ見て言ってんだ、センドー。この天才桜木様が、元気でないわけがないだろう」
「あはは。わかってるんだけどね」
 ニコニコ笑う目尻が、思いっきり垂れ下がっている。桜木は、こいつも変わってねぇなぁと思いながら、そんな仙道を眺めた。
「でもおめー、こんなところで何してんだ? 同窓会でもやるのか」
「違うよ。オレね、桜木に会いたくなっちゃったんだよね。だから会いにきた」
「おめーな……」
 桜木は呆れ返ってしまった。会いたくなったから会いにきた。聞けば当たり前の理由だ。けれどもそれを行動に移してしまう仙道に、二の句が告げられなくなる。と同時に、羨ましくもなるのだ。
 単純なその行為が、出来ない時だってある。それなのに、この仙道は。
「まぁまぁ。それより、どこかでゆっくり話そうよ。時間あるんだろ?」
「あー、オレ、夕食の支度……」
「おごるよ、夕食ぐらい」
「いや、あの、そうじゃなくて……」
 口ごもる桜木に、仙道は首を傾げる。
「どうしたの。なんか都合悪いの」
「うー……」
 今更なのだ。いまさらなんだけれども、流川と一緒に飯を食うのが習慣になっているなんて、以前の自分たちを知る彼には、とてもじゃないけど言えないのだ。でも、嘘はつけない性格である。
「ルカワ……の、メシ、作らなきゃ、なんねぇし……」
 耳が熱くなるのが分かる。きっと今、めちゃくちゃ真っ赤になっているだろうその顔を、俯き加減に声を絞り出す。
 仙道は一瞬目を見開いた後、「なーんだ」と呟いて苦笑した。
 桜木から目をそらし、襟足を指で軽く掻きながら、仙道は諦めの息をはく。
「じゃあ、仕様がないか」
 また別の日に、という仙道を、桜木は顔を上げて引き止めた。
「待てよ、センドー。今留守電いれてくっから」
「桜木」
「せっかく来たんだから、メシぐらいおごられてやる。……聞いてもらいてぇこともあるし」
「OK。でも、流川はどうする?」
「その気になりゃ、作れるように教えてある。最悪抜いたとしても、一食ぐらい死にゃしねぇよ」
 そう言って桜木は、近くの電話ボックスまで駆けていった。
 店に入ってからでもいいのに、と思いながら見送る仙道は、でも桜木らしいその律儀さに、嫉妬とも歯がゆさともつかないため息をついた。


 何が食べたいかと尋ねる仙道に、桜木は中華を所望した。
「ラーメンと炒飯と餃子」
「OK。それだったらオススメの店があるよ。ちょっと遠くなるけど、大丈夫?」
「どこだ?」
「オレが前住んでた近く」
「んじゃ、ウチからも近いんだな。いいぞ、そこで」
「じゃあ、いこうか」
 おう、と言って駅へ向かいだす桜木を、仙道はやんわり止める。
「桜木、こっち」
 桜木はきょとんとして振り返る。
「何言ってんだ、駅はこっち」
 そういう桜木に仙道はポケットから何やら取り出し、はにかんで見せる。
「オレ、車で来たんだよね」
 一瞬にして桜木は顔を輝かせ、おおっと声を上げた。はしゃぎまくる桜木を車まで案内する。
 中古の軽四にほぼ2mの男がふたり乗り込むと、とても窮屈そうであるが、桜木は一向に気にしないようである。
「すげぇな、センドー。おめー車運転できんだな。いつ免許取ったんだ」
「高校の時だよ。言ってなかったっけ」
「聞いてねぇ。知らんかった」
 いったん海沿いの道まで出て、それから東へ走るコースが一番近いから、と仙道は湘南へ抜ける。まだ夕食には少し早いからドライブでもしようかという仙道に、桜木は海で時間をつぶせばいいと言った。
 人もまばらな海岸で、桜木は久し振りの海を眺める。そういえば、仙道とふたりでどこかへ行ったことなど、今まで一度もなかったことに気付き、桜木は少し意外な気がした。
 この片瀬海岸には、一つの思い出がある。
 高校一年のインハイで、桜木は背中を負傷した。この近くの病院でリハビリをすることになり、合間をぬっては、よくここまで散歩に来ていた。
 今でもよく覚えている。晴子からの初めての手紙を読んでいると、ランニング中の流川がやってきて、全日本のユニフォームをこれ見よがしに見せびらかしていった。
 空に描かれた飛行機雲を仰ぎ見る流川を目の当たりにして、桜木は彼がバスケで頂点を目指していることを思い出した。そのとき、胸の辺りを何だかぎゅっと鷲掴みされたような気分になったのを覚えている。そして、晴子からの手紙よりも、流川に会えたことが嬉しかった自分がいたことも、覚えている。
 何やら思い出しているらしい桜木の後ろ姿を、仙道はしばらく黙って見つめていたが、桜木が吐息をついたのを合図に、穏やかに呼びかけた。
「桜木」
 はじかれたように振り返る桜木に、仙道は近付いていく。砂地を踏む足元に目を落としながら、彼は聞いた。
「聞いてもらいたいことって、流川のこと?」
 上目遣いで窺えば、桜木は俯いたまま一旦口を引き結んで、困惑の色を浮かべた。
「……わかんねぇんだ」
 触れればやわらかい、ふわふわと風に揺れるきれいな赤を、仙道はただ見つめる。
「ルカワのヤツが何考えてんのか、さっぱわかんねぇ」
「……うん」
「まぁ、あのヤローが何考えてんのかなんて、はじめっからわかんねぇんだけどよ。でも最近、特にわかんねぇんだ。いきなり隣に引っ越してくるし、大学だって一緒だし。高校の時から、気が付きゃいっつもオレに引っ付いてやがる。そのくせ腹の立つことばっか言うんだ。
 嫌がらせかとはじめは思ってたけど、なんか違うみてぇで、さっぱ訳わかんねぇ」
「大学は、偶然なんじゃないのか?」
 多分違うだろうと確信がありながら、仙道はすっとぼけを装って言う。すると桜木は、怒ったように首を横に振った。
「違う、わざとだ。ルカワが自分に来た特待と、オレに来るはずだった推薦の話を交換したっつー噂がある。オレは頭わりぃから推薦で落ちるかもしんねぇ。どうしても二人ほしいなら、特待と推薦入れ替えろっつったらしい。おまけに、オレがいかねぇっつったら自分もいくつもりはねぇって脅したって、すげぇ噂。
 ルカワに直接聞いたことねぇけど、たぶん本当だ。あいつ、すげぇ一生懸命、受験勉強してたし」
 仙道は苦笑する。桜木はきっと、自分が今何を言ったのか気付いていない。これではまるで、のろけ話だ。
「……それで、桜木は迷惑してるの」
「メーワクとかそんなんじゃなくて、わかんねぇから……」
「何で分かりたいの」
 徒に砂浜を蹴り続けていた桜木の足が止まる。頭の中が真っ白になったような、仙道が今何を言ったのか、まるで理解できない。
 ナンデ?
 ナンデワカリタイノ?
 言葉だけがぐるぐる走り回るその中に、不意に仙道の声が耳を通ってやってくる。
「オレ、桜木のこと好きだよ」
 ぼんやりと桜木は顔を上げる。仙道はいつもの笑顔を向けていた。
「だからいつも一緒にいたいと思って、大学の話を持っていったんだ」
「……オレも、センドーのこと好きだけど、でも……オレ、ここを離れたくなかった」
「うん」
「ここで、バスケやりたかった」
 ここで。こことはどこだろう。
「あいつを倒すんはオレだから、ここを離れたくなかった」
 こことはどこなんだろう。
 桜木はぼんやりと自分の言葉を聞きながら、ずっと考えていた。
「桜木は、オレがアメリカ行くって言ったら、付いてくる?」
「たぶん、いかねぇ」
「じゃあ、そのあいつが行くって言ったら、付いていく?」
 『オレもアメリカだ』
 前に、確かにそう言った自分がいる。流川がアメリカに行くと聞いたとき、咄嗟に口をついていた。
 そうだ。すべての答えはすでに出ている。ただそれを、認めていなかっただけだ。
 認めるのが、怖かっただけだ。
 流川がどう思っているのか、分からなかったから。
「センドー。オレが行くっつったら、ルカワ、どう思うかな」
「桜木は、もっと自信持っていいと思うんだけどな」
「……そうか?」
「そうだよ。あーぁ、やんなっちゃうなぁ」
 いきなり砕けた仙道に、桜木は驚く。一体どうしたのだろうと窺っていると、上に大きく伸びをした仙道は、おどけた眼差しを桜木に向けた。
「そういえば、オレが桜木に大学の話持っていったとき、流川もいたんだよね。あれが失敗だったんだなぁ」
 見れば陽も大分傾き、夜の気配が漂い始めていた。
 仙道は、話は終わったとばかりに腰に手を当て、「さて」と息を吐き出した。
「そろそろいこうか」
「……わりぃな」
「全然」
「おめーって、いいヤツだな」
 桜木の言葉に、仙道は困ったように笑った。
「ホント。オレっていいヤツ」



 流川が帰ったとき、時間はすでに八時近かった。なのに、隣の明かりは消えている。買い物にしては遅すぎると思いながら、公園で練習をしていて今頃になったとも考えられるので、さほど気に留めずに鍵を開けた。
 暗闇の中に、赤いランプが点滅している。
 留守電のメッセージが入れられていることを示しているそれを、流川は惰性で押した。
 いつも誰だか分からない女の声がほとんどで聞くのも邪魔くさいのだが、桜木が、何か大事な用件が入っているときもあるだろうから、ちゃんと聞くように、ちゃんとセットするようにとうるさいので、その通りにしている。
 今日もまた、どこかの女の声から始まるそれを聞き流しながら着替えをしていると、いきなり聞き間違えようのない声がスピーカーから流れ出し、流川は思わず手を止め、振り返った。
 桜木からの伝言だった。
『オレ。今センドーに会ってよ、一緒にメシ食うことになったから、おめー自分で夕食作れ。ちゃんと作れよ。じゃぁな』
 テープは再生を続け、また別の女の声が何か言っている。しかし、流川の頭の中は、桜木の言葉でいっぱいになっていた。
 仙道と一緒。そのことにひどく腹が立つ。
「にゃろう……」
 八時を過ぎている時計を睨みつけ、流川は低く吐き捨てた。



 食事を終えたとき、仙道は桜木に言った。
「せっかくの失恋記念日なんだから、もうしばらく付き合ってよ」
 すると桜木は大きく目を見開き、
「センドー、おめーフラレたんか。おめーのことフルなんて、見る目のねぇやつだな」
などと言うものだから、仙道は突っ伏してしまった。
 桜木は先程の仙道の告白を、少しも真剣にとらえてはいなかった。わりぃなと言ったのは愚痴を聞かせてしまったことに対してで、いいヤツに至っては愚痴を聞いてくれてありがとうという意味合いだったことに、仙道は初めて気付いた。
 はじめから友人にしかなりえなかったのかもしれないと、仙道は苦笑いする。それでもいいと思える自分に感謝したい。
 しばらくのドライブの後、桜木が家に帰り着いたのは九時を回った頃だった。今から東京に帰るという仙道を心配して、もう少しと渋るのを追い返したようなものだ。
「じゃーな。気ぃつけて帰れよ」
 アパートから程近い大通りで仙道の車を見送り、桜木は帰路につく。この時間なら流川はもう寝ているかもしれない。バスケしているか寝ているかのどちらかで、一日が終わってしまうようなヤツだから。
 外灯の少ない小路を、アパートへと歩いていく。鼻歌を歌いながら空を見上げ、明日も晴れるだろうとぼんやり思う。
 ……流川は、待っているだろうか。
 もし、自分の帰りを待っていたら、本当に自信を持っていいのかもしれない。
 何となく口の端が緩んでしまう。桜木は微笑を湛えながらたどり着いたアパートの階段に足をかけ、顔を上げた。
 202号室の玄関に、両腕を組んで寄りかかっている影がある。桜木はほんの一瞬足を止め、その顔にいっぱいの笑顔を作る。
「ルカワ」
「……おせー」
 明らかに機嫌の悪い声に、桜木は何となく嬉しくなる。それを隠しもしない表情に、流川はますます面白くなくなった。
「楽しそーじゃねーか。なんかあったんか」
「おう、まぁな。ウチ来るか」
「……いい」
「来いよ。いいてぇことあんだ」
 流川にしてみれば、仙道と楽しんできた上機嫌の桜木の話など聞きたくもなかったのだが、来いよと言われて自分の家に引っ込むことも出来なかった。
 待っていたのは一目瞭然なのだ、いまさら変な意地は通じない。仕方なく、言われた通りに桜木の家に入る。
「なんか飲むか。って言っても、牛乳とポカリしかねぇけど」
 毎朝ここで朝食をとる流川に、桜木はそんなことを言う。何かひどく緊張しているらしいと気付いた流川は、桜木に先を促した。
「話って何だ」
「ポカリでいいか」
 振り向きもしないで言う桜木に、流川は頷いてみせる。見えているはずがないのに桜木はポカリを入れたコップを二つ持ってきた。単に異議がなかったので、肯定として取っただけのことだ。
 桜木が腰を下ろすのを待って、もう一度流川は聞く。
「言いてぇことって、何だ」
「……そう急かすなよ。オレにだって、心の準備ってのがいるんだから」
「……なんだ」
 まっすぐに見つめてくる流川を上目遣いにちらりと見て、桜木は一つ深呼吸をする。そして意を決したように顔を上げると、きっちり流川と視線を合わせた。
「好きだ」
 一瞬何が起こったのか、流川には分からなかった。何の反応も示さないまま、ただ視線をそらさずにいると、桜木はにっと笑った。
「おめーもオレんこと好きだろう」
 だから、来るなと言っても毎日公園に来て、同じ大学に入って、隣に越してきた。いつも憎まれ口を叩くけれども、流川が自発的に話す相手は、ほとんどが桜木なのだ。
 どうして今まで気付かない振りをしてきたのだろう。どうして素直に、自分の気持ちを受け入れなかったのだろう。分からなかったのは、むしろ自分の気持ちの方だ。
「……おせーんだよ、てめーは。いっつも」
 ぼそりと流川はそう呟く。そして、右手をそっと桜木の頬にあてがった。
 桜木はその手に首をすくめると、イーッと顔をしかめてみせた。
「わりぃな」
 精一杯の照れ隠しだ。子供じみたその態度に、流川は「どあほう」と息をつく。
 流川の漏らすため息に笑いが含まれていることを、桜木はこのとき初めて知った。

1997/02


きまぐれにはなるはな