enigmatic[2]

 晴れて四月から大学生の身となった桜木は、隣に流川が越してきたことで、奇妙な生活が始まることになる。
 自分で招いたことなので、致し方ないのだが、出来ることなら取り消したい。はっきりとは分からないけれど、最近何だかこそばゆい感じがしないでもないのだ、流川と過ごすひとときが。


 隣に引っ越してきたのが流川だと知って、桜木はさんざんわめいていた。実際何をわめいていたのか、はっきり言って意味不明で、まぁそれほど驚いたのだということがうかがい知れる。
 流川は終始無言で、いささかムッとしながら桜木を睨んでいた。きっと心中「うるせー」の一言だったに違いない。
 扉の向こうから聞こえてくる桜木の声が、一向に止みそうにないので、水戸は重い腰を上げた。玄関のドアを押し開いて、吹きさらしの廊下に顔を出す。
「花道ー、いい加減うるせーぞ」
「洋平! だってルカワがここにいるんだぞっ、おかしいじゃねぇかっ」
「別におかしかねーだろ。引っ越してきたんだから」
「だから、それがおかしいんだってっ」
 尚も言い募る桜木は無視することにして、水戸は矛先を変えた。
「流川、こっちこねーか。ケーキあんぞ」
「あのケーキはっ」
「俺が買ってきたんだよな。こいよ、流川」
「そこはオレんちっ」
「花道も早くこいって」
 半ば水戸に引っ張られるようにして、桜木の家へと入っていく流川の後を、しぶしぶついていく。
 いったん家の中へ通してしまえば、流川とはいえ、桜木の中では客扱いとしての機能が、無意識のうちに働いてしまい、ついつい飲み物は三つ分。気付いたときには、もう手遅れだった。
 もらった自分の誕生日のショートケーキを各々手に取られながら、桜木は今更のようにはっと手を止める。
 そのまま顔はぐるりと水戸を向き、尖らした口から抗議を申し立てた。
「……知ってたな」
 水戸は困ったように苦笑しながら、肩をすくめて見せた。それは肯定を意味している。
 ますますぶすくれて、桜木はケーキに目を落とした。
「何で教えなかったんだよ」
「てっきり流川から聞いていると思ってた」
 桜木の向かいに陣取っている流川に視線を向ける。彼の人は、ただ黙々とケーキを頬張っていた。
 水戸が知っていて自分が知らなかったということに、何だか腹が立ってきて、桜木はケーキにかぶりつく。
「てめー、何で黙ってた」
「……別に。わざわざ言う必要もねーだろ」
 本心は、言えば必ず阻止されると思ったからだが、そんなこと暴露する気はない。
 そっけない流川の返答に、桜木は「じゃあ、何で洋平は知ってんだよ」と内心悪態をつく。
「大体、オレてめーんちなんて知らなかったし」
 嘘である。けれども桜木は流川に自分のアパートを教えたことがなかったので、その言葉を信じてしまった。
 改めて、水戸が悪い、ということになってしまう。
「でも、何でわざわざこんなとこに引っ越してきたんだよ。てめーんち、この近くじゃねぇか」
「近くねー」
「チャリで20分ほどだろ」
「こっちのほうが大学にちけー」
「大学ってどこだよ」
「てめーと一緒」
 桜木は思わず固まってしまった。何か言おうと口を動かすが、何をいえばいいのか分からなくて結局金魚状態だ。
 言いたい事は山ほどあるような気がするのに、何一つ口をついては出なかった。
 ……このことも、水戸は知っていたのだろうか。何となく面白くない桜木である。
「でも流川。おまえ、一人暮らしなんて出来るのか」
 ケーキを平らげた水戸は、桜木の用意してくれた牛乳を手に取りながら、おもむろに言い出した。その答えとして、流川はただ首を縦に振る。
「……メシ、作れんのかよ」
「インスタントラーメンくらいなら出来る」
「バカか、おめー。そんなもんばっか食ってたら、しまいにぶったおれっぞ」
「コンビニって手もある」
「一緒だ、バカ」
 きっとこの分では、洗濯も掃除も何一つ、ろくに出来ないだろう。
 大体、朝一人で起きれるのかということから、不可能なんじゃないだろうか。
 桜木は思わずため息をついてしまう。
「よく家の人、一人暮らしなんて許してくれたな」
「……すげー喜んでた。仕送り分で足りないようなら、自分でバイトしろっつってたけど」
 それはもしかしなくても、追い出されたのではないだろうか、と桜木は思う。
 確かに流川の面倒を見るとなると、かなりの問題が山積みになっているような気がする。しかし、だからといって隣で死体になられても困る。
 桜木は腹を括った。
「しょうがねぇ。ルカワ、てめーしばらくウチにいろ」
「……は?」
「炊事、洗濯、掃除。きっちり覚えさせてやる」


 かくして、桜木は毎朝隣まで、蹴っても殴っても一向に目を覚まさないうえ、ひどく寝起きの悪い流川を起こしに行くこととなった。それはもう戦争である。
 一体これまでどのようにして家の人が起こしてきたのか、本気で聞きに行きたくなった。
 何とか流川を覚醒させたら、次は朝食の手伝いである。
 包丁の握り方から教えなければならなかった流川に、はじめのうちは根気よく指導を続けていた桜木ではあったが、はっきり言って流川という人間は、自分から興味を持たない限り、何をしても無駄である。
 そのことに気付いて、今ではもう無理強いをすることなく、炊事係と成り果ててしまった。もちろん、食費は納めさせることで話はついている。
 洗濯、掃除についても同様のことが言え、はたから見れば桜木は、立派に流川の家政夫であった。この状態に落ち着くまで、宣言から一週間もかからなかった。
 口ではいろいろ悪態をついていたが、実際桜木はとても楽しんでいた。
 食事などは特に、一人ではないということが嬉しかった。目の前にいるのが流川とはいえ、誰かいるのといないのとでは全然違ってくる。
 話をするのは一方的に桜木だが、ちゃんと相槌も打ってくれるし、時にはいらぬことまで言ってくれる。
 それに最近ではさすがに悪いと思うのか、食器の後片付けぐらいなら、手伝ってくれるようになった。
 暇なときは二人で公園に出かけ1on1をする。
 未だに簡単に勝たしてもらえないことが悔しかったし、嬉しかった。そう、どういうわけか、嬉しかった。流川のすごさを実感できることが。
 だからときどき、ふと思い出しては考えてしまう。何故自分が特待で、流川が推薦だったのか。
 やはりどうしても、納得がいかなかった。


 講義が始まり、学生生活がスタートしていた。
 慣れない上に、一体何を選択すればいいのかも分からず、適当に時間が取れるように選び抜き、ただ部活のことだけを考えていた。それは流川も同じだったらしく、桜木は何となく苦笑した。
 構内で顔を合わせることはほとんどなかったが、相変わらず女子の口から、流川の名前は容易に聞くことが出来た。
 キャンパス内の芝生の上で、流川を見つけることが出来る。春のうららかな陽気と、適度に吹き渡る春風とで、そこは格別の昼寝場所であった。
 桜木は小脇に抱えた包みを芝生の上に置き、何の前触れもなくそこに寝そべるキツネの足を蹴り飛ばした。が、ぴくりとも反応を示さない。
 今日は天気もいいことだし、朝時間もあったせいで、昼食は弁当にした。裏庭を指定したのは流川だったが、こうも見事に寝ていられるとは、まぁ、思わないではなかったが。
 裏庭は、桜木のお気に入りだ。正門からまっすぐ伸びる桜並木を右にそれると、次は銀杏並木がある。そちらの方は人通りは頻繁であったが、左にそれるものは稀にしかいない。
 道なき道を奥に進むと、左校舎の裏に出る。そこから更に奥に進むと、ちょっとした雑木林があり、それを抜けると芝生があるのだ。
 きれいに手入れされているので、多分、知る人ぞ知る場所なのだろう。それが証拠に、近くに温室もあるらしい。
「ルカワ」
 起きやがれ、ともう一度桜木は流川を蹴り上げる。
 うっすらと目を開けた流川は、瞳に飛び込む見慣れた赤い髪を認めて、ゆっくりと体を起こした。
「おせー……」
「……悪かったな」
 流川は、ムッと口を尖らせながらも素直に謝る桜木を不思議に思う。
 桜木は持ち前の明るさと、裏表のない素直さと、人好きのする笑顔とで、あっという間に周りの人間と親しくなった。
 人より頭一つ分大きいそれが、鮮やかな赤色であれば、弥が上にも目立ってしまう。しかも小脇に重箱らしきものを抱えていればなおさらだ。
 呼び止められて、それは何だと尋ねられ、言葉を濁すとやんやと囃し立てられた。そこまではまだいいのだが、ずばり「流川と食べるのか」と聞かれたときは、もう真っ赤になるどころではなかったのだ。
 そんなんじゃねぇっ、とわめきながらダッシュしてしまえば、はいそうですと言っているようなものだ。
 桜木と流川は仲がいい。まわりがそう思っていることに、桜木はひどく不慣れだ。
 流川はどう思っているのかは知らないが、桜木は必要以上に反応してしまう。
 仲が悪いと言われ続けてきた仲だ。そう簡単には慣れない。
「なんかあったんか」
 見れば少し顔が赤いことに、流川は気付く。桜木はむすっとしながら「別に」と答えた。流川の横に腰を下ろし、弁当を広げる。
 見た目はともかく、量は絶対的に誇れるそれは、ほとんど桜木の手作りであるが、ほんのちょっとだけ、流川の手製のものもある。
 そのひとつ、玉子焼きを箸でつまんだ桜木は、じっと見ている流川に気付く。
「……んだよ。てめーも早く食え」
「言ってねー」
「何を」
「いただきます」
「……ああ」
 日頃さんざん流川に対して言っていることを、桜木はすっかり忘れていた。罰の悪そうな顔をした後、箸を置いて手を合わせる。
「いただきます」
「……ス」
 そして箸を手に取った流川は、弁当を見て眉をひそめた。
「てめー、走ってきたんか」
 見栄えよくとは言わないが、それなりに詰めたはずの弁当が、見るも無残になっている。せっかく邪魔くさいのを我慢して入れたのに、流川は面白くない。
「しょうがなかったんだよ。味に変わりはねぇ」
 玉子焼きを口に放り込んで、桜木はちらりと流川を見る。
 今朝の流川の一生懸命振りを思い出して、今の言い方にちょっとだけ罪悪感を覚えた。
「悪かったな」
「……別に。いいけど」
 でも、もうやんねー、と流川は思う。
 桜木は再び玉子焼きに手を伸ばし、
「てめーにしちゃ上出来じゃねぇか、これ」
 と、褒めるでもなくぶつぶつ言っている。それを尻目に、黙々と箸を動かす流川。見る見るうちに昼食は減っていく。
「それにしても、やっぱ納得いかねぇよなぁ」
 独りごちる桜木に、流川は目だけで先を促す。双方、手だけは休みなし。
「おめー、相変わらず女の人に人気あんだな」
 こんな無愛想なヤツなのに、何故だろう。
「バスケ以外に取り柄がなくて、言うことといったらマイナスばっかだしよ。ちょっと暇がありゃ、すぐ寝るし。おまけに寝起きは最悪だし。見てくれだけじゃねぇかよ、いいとこなんて。やっぱ男っつーのはオレ様みたいにすべてにおいて優れていなければ、相手を幸せにはできねぇっつーのによ」
 どうしてそこのところが分からないのだろう。
「やいキツネ。てめー、術かなんか使ってんだろ」
 黙って聞いていた流川は、大仰にため息をついてみせる。
「そうでなきゃ、おめーがもててオレがもてねぇわけがねぇ」
 ふん、と鼻息も荒げて胸を張る。一体何をそんなに自信を持っているのか知らないが、そんな桜木の態度に、流川はあからさまに不機嫌になった。
「……別に、もててねーことねーじゃねーか」
「あん?」
「てめーのこと好きだっつー女、結構いる」
 思わず手を止めて流川を見る。頭で言葉の意味を理解するのに、しばしの時間を要した。桜木は奇妙に引きつった笑いを顔に貼り付ける。
「だ、だまそうったって、そうはいかねぇぞっ」
「嘘じゃねーよ」
 ちらとも桜木を見ないで、流川は続ける。
「高校のときから部活んときや休み時間なんか、わざわざてめーのこと見にふらふらしてるヤツらいたし。今だって、てめーのこと聞きに、よく来る」
「よく来るって、おめーんとこに?」
 こくりと頷く流川。納得いかないという顔で、桜木は昼食を再開する。
「何でオレのこと聞きに、てめーのとこなんか行くんだ? オレに直接聞いたほうがよっぽど楽じゃねぇか」
 オレもそう思うとばかりに首を振る流川。
「手紙とかも、渡してくれって頼まれるときもある」
「……もらったことねぇぞ」
「ことわってっから」
「何でだよ」
「自分でわたしゃーいー」
 むっとして言う流川に、桜木は分かってねぇな、と前置きした。
「自分で渡すのが恥ずかしいから、人に頼むんだろうが。まぁ、てめーに頼むっていうのは、わかんねぇことだけど」
「何で恥ずかしいんだ」
「そりゃおめー、好きな人が目の前にいりゃドキドキすんだろが。あ、てめーにゃわかんねぇか」
「好きなヤツに渡す手紙なら、なおさら自分でやればいい」
「女の人は……」
「男も女もかんけーねー」
 流川は顔を上げて桜木を見る。視線をしっかりと合わせ、そらすことを許さなかった。真剣なその顔に、知らず桜木も身構える。
「本気で好きなら、自分が動きゃいー。人の手なんか借りられっか」
「……ル」
「オレはぜってー、てめー宛の手紙なんかあずからねー。だからてめーも、オレ宛の手紙なんか受け取るな」
「ルカ……」
「絶対」

続く

きまぐれにはなるはな