enigmatic[1]

 桜木は混乱していた。
 彼のため息は今年の四月からこっち、一向に止んだためしがない。何でかなぁ、と呟いてはため息をつく。それが、ここのところ彼の癖になっていた。
 今日もまた、大きくため息をついて、ごろりと横になる。何とはなしに壁に目を向け、何でかなぁ、と独りごちた。
 隣の住人は、きっともう眠りの中だろう。時計の針は、すっかり十時を回っている。
 桜木はずっと壁に目を向けたまま、もう一度「何でかなぁ」と呟いた。
 解らなかった。全然、これっぽっちも解らなかった。何故隣にあいつが、あの流川が、わざわざ引っ越してきたのか。
 はじめは嫌がらせかと思った。高校三年間、一度たりとも友達らしい言葉を交わしたこともなければ、チームメイトらしい付き合いをしたこともなかった。
 したことといったら、バカらしいけれども本気の意地の張り合いと、それから発展する喧嘩ぐらいだ。
 まぁ、試合中はいくらかコンビプレーと呼ばれるようなこともしたけれども、だからと言って、仲がよかったわけでは決してなかった。
 だから、桜木には流川の行動が理解できなかった。


 二年の進路調査のとき、桜木は何の迷いもなく就職と明記し、提出した。
 大学なんて、行く金も入れる頭もからきしないのはわかっていたし、今だって正直、ぎりぎりの生活をしていたのだ。考える余地もなかったのである。


「桜木くん、大学行かないって、本当?」
 どこで聞いたのか、部活のとき晴子にそう言われて、桜木は真っ赤になりながらコクコクと頷いた。
「どうして? お兄ちゃんなんて、桜木くんが大学に来るの、楽しみにしてるのに」
「ゴリ……いや、お兄様がそのようなことを……」
「残念だなー」
「ハルコさん……」
「無駄よ、晴子ちゃん。この子が進学なんて出来るわけないでしょ」
「アヤコさん、それは……」
「そうそう、花道には無理だって。なんてったって、赤点大王だから、なぁ、花道」
「ふぬーっ、リョーちん!!」
 そういって、お決まりのかけっこが始まったのだが、そのとき、それを見つめる流川の目は、とても尋常ではなかった。


 何度となく行われる進路調査に、桜木の答えは変わることはなかった。その度に、晴子に進学する意思はないのかと問われ、桜木は申し訳ないながらも「ない」と答えた。三年の、五月の最終調査のときも、そう答えた。
 晴子は本当に寂しそうに「残念だなあ」と呟いた。
 そういえば、この頃だったかもしれない。一度だけ、流川と進路のことで話をしたことがあった。居残り練習をしていたときだ。
 突然あっちから声をかけてきて、桜木はひどく驚いたのを覚えている。


「おい」
「なな、何だ?」
「てめー、何で大学いかねーんだ?」
「……何だ、そのことかよ」
 知らず身構えていた桜木は、ふぅ、と肩の力を抜くと、いつものようにちょっと唇を尖らせて、俯き加減で呟いた。
「てめーに関係ねぇだろ?」
 その言い草に流川はムッとしながらも、ぼそぼそと、けれどもよく聞き取れる声で言葉を続けた。
「オレと一緒んとこなら、てめーも入れるんじゃねーの」
 大学でまでてめーとツラつき合わす気はねぇ、と思いながら、桜木は一度ボールを突く。
「そーゆーんじゃねぇんだよ」
「……」
「大学に行きたいとか、行きたくないとか、そういうのでもねぇ」
「んじゃ、何だ」
「うち、金ねぇんだよ」
 言いながらドリブルを始め、何で流川にこんなことを話しているのだろうと桜木は思う。
「高校上がる前に親父もおふくろも死んじまって。本当はバイトやって金貯めるつもりだったんだけど、バスケにはまっちまって、とてもじゃないけど、そんな暇ねぇしよ。親が貯めといてくれた金から、毎月少しずつ生活費下ろして何とかやってんだ。それでもやっぱ、洋平に時々借りたりしてよ。今でもこんななのに、大学になんか行けるわけねぇじゃねーか」
 しばらく、桜木のドリブルの音だけが体育館に響き渡る。一言も話さない流川を尻目に、こんなところで自分は何をしているのだろうと桜木は思う。
 こんなヤツは置いて、さっさと帰ろうとドリブルをやめたとき、ようやく流川がその重い口を開いた。
「バスケ、やんねーのか」
 思わず桜木は振り返った。何が自分をそうさせたのか、解らなかったけれど……たぶん、そう、流川の声だ。流川の声が、いつもと違って桜木の耳に届いたから。
「……バスケは、やめねぇよ。実業団てあるだろ、それに入ろうと思ってよ。まぁ、簡単にいけるとこでもねぇらしいんだけど、天才だから大丈夫だ」
「どあほう」
「またそれかよ」
「どあほうじゃねーか」
 ちくしょう、このやろう、バカギツネ、と心の中で罵りながら、桜木はあぁもう、と片手をひらひらさせた。何故だか解らないけれど、このときは流川のけんかを買う気にはなれなかった。
 ボールを小脇に身を翻す。
「オレはもう帰るからな。戸締りよろしく」
 言って背中で閉めた扉は「どあほう」と呟く流川の声を、桜木の耳に届く前に、その厚鉄で遮ってしまった。


 何故流川が「どあほう」と言ったのか、桜木は後々知ることになる。実業団に入るためには、実業団からの勧誘がなければ駄目だったのである。桜木にはどこからもスカウトは来ていなかった。
「うぬ〜、何故この天才が……」
 バスケをやめる気はさらさらない。かと言って、大学に行けるはずもない。
 一体どうすればいいのか、桜木は思案に明け暮れた。


「おーい、桜木ー」
「……センドー!!」
 八月下旬。部活も引退の身となってから、桜木はほとんどの時間をこの公園で過ごしていた。一応、補習なるものもあったけれども、バスケの方を優先していた。
 この公園は、桜木の住むアパートから徒歩五分くらいの位置にあり、いわばテリトリー意識が桜木にはあるのだが、それなのに、それを全く無視して、毎日の如くやってくる輩がいる。自転車で片道15分もかけてだ。
 はじめの頃はそれに意見するような形でいつも喧嘩をしていたのだが、今ではもう無視するような感じになっている。
 そんな流川をちらりと見やりながら、一息ついたときだった、仙道が現れたのは。
 湘北バスケ部のよきライバル、陵南バスケ部の元主将でありエースであった仙道は、桜木達のひとつ上で、今はどこぞの大学で、早くもエースの端くれとなっている。
 桜木の真っ赤に染めた髪に劣らず、人目を惹くツンツン頭は、今でも健在であった。
「どうしたんだ、センドー。オレになんか用か?」
 心持ち小首を傾げながら、仙道に近付いていく桜木の後ろ姿を、流川はきつい眼光で睨み付けた。
 いつの間にかは知らないが、流川が気づいたときにはすでに、二人の仲は結構親しいものになっていた。
 初めてそれを知ったときの流川のショックの大きさは、計り知れないものがあったが、桜木はそんなこと、全然、全く、これっぽっちも、気づいてなんかいなかったし、考えてもいなかった。
 今も今とて、流川の変貌に少しも勘づいていない有様である。
 仙道は相変わらず、飄々と流川の視線をやってのけ、にこにこと桜木に笑いかけている。
 舌打ちをする流川を、一体誰が止められよう。
「桜木にね、いい話持ってきたんだけれど」
「おう、何だ」
「大学はもう、決めちゃった?」
「大学? オレ、大学なんていかねぇぞ」
「えーっ、何で?! 就職しちゃうの?!」
「う……まぁ、そのつもり」
「バスケは?! クラブバスケ?!」
 仙道、何故、実業団をあえて外す。
「そう、なるのか……なぁ」
「えー、社会人と学生じゃ、日本リーグでしか会えないじゃん」
 言われて桜木は困ってしまう。何故みんな、自分に進学を望むのか。
「そんなの決まってるじゃん。みんな桜木と試合したくて、うずうずしてるんだよ」
「でもオレ、行きたくても行けねぇから」
「大丈夫、任せてよ。オレ、監督に桜木をスポーツ特待生として呼んでもらえるように、頼んであるから。いい話っていうのは、これなんだよ。ね、うちおいで」
「何言ってんだ、センドー。おめーの大学って東京じゃねぇか。オレそんな金ねぇよ」
「そんなことなら問題ないって。うちおいで。マンション二人で借りれば、家賃折半。近いから交通費も浮くよ。何なら、奨学金っていう手もあるし、授業料免除の話もつけておこうか?」
 今まで黙って聞いていた流川だったが、仙道の話に思わず反応してしまった。
 これでは、桜木の進学の問題が片付くではないか。
 それは喜ばしいことだが、仙道のところに行かれては困る。どあほうは、自分と一緒でなければならない。
「無茶苦茶なヤツだな……。気持ちはありがたいけどよ」
 でもなぁ、と続く桜木に畳み掛けるように、仙道は駄目押しした。
「そんな、今すぐここで答え出さなくていいから、じっくり考えて、それからおいで」
 結局「おいで」じゃねぇか、とは、桜木と流川の心の中。敵もなかなかしぶとい。
 仙道は桜木に殊更絶品に笑いかけると「じゃーね」と言って去って行った。ひとつ大きなため息をついて、桜木はカシャンとフェンスに寄りかかる。
「大学かぁ」
 行きたくないわけではない。もし行けるのであれば、行ってみたい気もする。しかし。
「どうすっかなぁ……」
 上の空で桜木は呟く。それを聞き逃す流川ではなかった。


「へ……? 二校……?」
 進路指導室に呼ばれて、桜木は驚きの声を上げた。大学から特待の話が来ているというのだ。しかも二校。
 資料を見てみると、一つは東京、もう一つは神奈川だった。桜木のアパートから一番近い公立だ。
 東京のほうは、多分仙道の通う大学であろうと察しはつくが、こちらの方は理解できなかった。推薦ならいざ知らず、特待なのだ。
 桜木は思わず進路指導員を見た。
「どういうことだ?」
「お前がそれを言うか?」
 聞きたいのはこっちだと、指導員は呟く。
「でもまぁ、それだけお前のことを評価していると言うことなんじゃないのか? 天才なんだろ?」
「ま、そうだけどよ」
 いまいち、胸を張れない桜木であった。
「就職を希望しているのは分かってるんだけどな。せっかく誘いがかかったんだ、ちょっとは考えてみるか?」
「……おう」
 曖昧に桜木は頷く。
 嬉しくないわけではないのだが、自分の実力は正確にわかっているつもりだ。いくら口癖が「天才だから」だとは言え、それは本当に口癖でしかないのだから。
 首をひねりながら教室に戻ってみると、親友の水戸が待っていた。
「洋平」
「何だ? 何かあったのか」
 水戸の持つ雰囲気は優しい。そばにいると、安心してしまえる空気を身にまとっているかのように、いつもふんわりと包んでくれる。
 桜木は、水戸に何でも話してしまえる自分が、何だか不思議でならないのだが、それは当たり前のことで、何も悩む必要なんてないのだという風に、水戸は笑って見せる。
 水戸の笑顔を見ると、桜木はいつもほっとした。
 自分の席の椅子を引いて、桜木は腰を下ろす。
「……特待の話が二つ来た」
「二つ?」
「何か変だ」
 はたから見れば、ただの膨れっ面にしか見えない桜木の悩んでいる顔を見て、水戸は人知れず苦笑する。
 こんなところなんてまるっきり子供で、それを見せられるたび、水戸は友情よりも親愛じみたものを感じるのであった。いわば親心だ。
 勘弁してくれよ、と思いながらも、それを楽しんでいる節があるのを、彼は自覚していた。
 とにかく桜木は分かり易かった。
 多分、桜木自身が気付いていない心の内まで、水戸は分かっていると思う。すべてが顔に出てしまうのだから、桜木は。
「変て?」
「だって、おかしいじゃねぇか。東京のはセンドーの差し金だとしても、こっちのは納得いかねぇ。推薦ならまだしも、特待なんてよ。絶対変だ」
 言いながらじっと見ている紙を、水戸は覗き込む。どうやら大学の案内書らしい。
「……仙道サン、おまえにこっちこいって言ってきたのか」
「金ねぇから無理だっつったら、そんなん心配いらねぇっつって、なんかいろいろ言ってたけど……」
「ふーん」
 桜木は紙から目をそらそうとせず、穴が開くんじゃないかと思うくらい、じっと見ている。
「……東京のだけだったら、おまえ、この話受けようと思ってた?」
「わかんねぇ……大学でバスケすんのに興味がねぇわけじゃねーけど……東京まで行くのは、ちょっと違う気がする」
「そっか」
「わかんねぇけど」
「……そっか?」
 思わず水戸はニヤニヤと笑ってしまう。その気配に気付いて顔を上げた桜木は、訝しげに眉をひそめた。目が合って、水戸はにっと笑う。
「なんか、天変地異の前触れみたいだな」
 言われた桜木は、いささかむっとする。
「何がだよ」
「いや、おまえのことだけじゃなくて。――流川のヤツが、受験勉強しだしたんだぜ。これが驚かずにいられるか?」
「ジュケンベンキョウ? あのキツネが、んなもんするわけねぇだろ。洋平は化かされてんだ」
「クラスのヤツら全員を化かせてんだから、流川の力も相当なもんだな」
 しれっと言う水戸から、桜木はなんとなく視線をそらした。
 何故かひどく焦燥感に煽られる気がしたが、それが何故なのかは分からない。
「……今頃、勉強なんかしだして、一体何になるっていうんだ」
 独りごちる桜木を、水戸は苦笑しながら見ていた。
 この親友は、感情がストレートに顔に出る分、口をついて出る言葉は何故かいつも屈折していた。最近、特定の人物に対しては特に。まぁ、深読みすればわかる程度のものではあるが。
「んじゃオレは教室戻っけど、流川になんか伝言あるか」
「んなもん、あるわけねぇ」
「そっか?」
 笑いを含んだ声音を残して、水戸は席を立った。桜木はもう一度、紙に目を落とす。
 ……仙道には悪いけれど、桜木の心の中はもう、決まっていた。


 流川が本当に受験勉強を始めたのであれば、きっとこの公園にはしばらく来ないだろうと、桜木は考えた。
 いくらバスケ中心の人間とはいえ、わざわざ片道15分もかけて、ここまで来るはずがない。が、流川はやってきた。
 全くいつもと変わった様子などなく、勝手に反対側のコートで仮想オフェンスをやり始める。
 やっぱり嘘だったんじゃねぇかと、しばらくその様子を見ていた桜木は、ちぇっ、と小さく呟いて、自分の練習に取り掛かった。
 ところが、まだ陽もすっかり沈んだわけでもないのに、流川は早々に引き上げの準備をし始めたのである。見ればまだ六時過ぎだ。流川が来てから二時間しか経っていない。
 桜木は、あわてて流川を振り返った。
「帰るのか」
 問いかけられた流川は、ふと手を止めた。
 顔を上げて、桜木の方を見る。
 流川の目が、何だ? と言っているような気がして、桜木はもう一度同じ問いを繰り返した。
「もう帰るのか」
「……みりゃわかんだろ」
 その言い草に桜木はムッと顔を歪め、そりゃそうだけどよ……と、俯き加減に呟いた。
 見れば分かるけれども、そうじゃなくて。
 本当に聞きたいのは、そんなことじゃなくて。
 何か言い返してくるだろうと思っていた流川は、俯いたきり顔を上げない桜木をいぶかしんで、言い訳するような口調で言葉をつなぐ。
「べんきょー……しなきゃなんねーし……」
「何でだよ」
 急に強くそう言われて、流川の眉間にしわがよった。桜木は俯いたまま、怒ったように言い募る。
「オレにだって特待の話が二つも来たって言うのに、何でてめーが受験すんだよ。おかしいじゃねぇか。特待の話がなかったわけじゃねぇんだろ?!」
「……蹴った」
「蹴ったって……」
 ようやく顔を上げた桜木に、決して表情を読ませようとしない流川が静かに言う。
「どうしてもいきてーとこがある。推薦だけど一応試験があるらしいし、邪魔くせーけど、べんきょーしてる」
「いきてぇとこ……」
 すごく意外な気がした。流川なんて、選択理由は、バスケが出来て一番近いところだと思っていた。まず高校の選択基準がそうだったらしいから、大学もそうなんだと桜木は勝手に思い込んでいた。
 勉強してまで行きたい大学があるなんて、思ってもみなかった。
 何かひどくショックを受けたような気がして、桜木はまた俯いてしまう。
 お互いしばらく言葉はなく、さっさと行ってしまうかと思っていた流川も帰ろうとはしなかった。
 やはりバスケがしたいのだろうか。だったらやっていけばいい。好きなだけ、ここでやっていけばいい。無意識に、桜木がそう思っていたときだった。
「てめー、仙道のとこ、いくんか」
 桜木は顔を上げて流川を見た。すぐさま首を左右に振って見せる。
 それを見て、流川はそっと息をついた。
「ならいー」
 そう言って、流川は公園を後にする。
 何となく寂しくなった公園で、桜木は再びボールを突き始めたが、それから十分もしないうちに引き上げてしまった。


 学費の問題が解決したわけでもなかったが、バイトをすれば何とかやっていけるだろうと、桜木は腹を括り、神奈川の特待を受けた。不本意ながらも、苦しい時はいくらでも力になってやるとの水戸の言葉に、半分甘えたようなものだ。
 あれから、受験が終わるまで、流川は毎日決まって六時になると引き上げていった。そして桜木は、それから必ず十分後にはアパートへと帰ったのだ。
 流川がいないというか、バスケをしていないと思うだけで、こんなにもやる気を失せる自分が理解できなかったのだが、彼がそもそもバスケを始めたわけを考えれば、頷けるものがある。
 きっかけが流川だっただけに、彼に動かされることは、図らずも仕方のないことなのかもしれない。
 けれど桜木は、そんな自分に気付こうとはしなかった。いつかバスケで倒す相手だ。そんなこと、考えたくもなかったのである。
 流川はどうやら希望の大学に無事進学することが出来たらしい。受験の結果が出たその日、いつものように公園でバスケをしていたら、話しかけるでもなく流川が徐に声を出した。
「……受かった」
 桜木は手を止め、流川を振り返った。にこりともしないで流川はベンチに腰掛けて、タオルで汗を拭いている。
 ちったぁ嬉しそうな顔すりゃぁいいのに、と桜木は思う。
「よかったじゃねぇか」
 照れを隠すためなのか、幾分ぶっきらぼうにそう言って、にやりと笑って見せる。
「でもよく受かったよな、キツネのくせによ」
「うるせー」
「これで心置きなくバスケができるじゃねぇか。嬉しくねぇの?」
 流川はちらりと横目で桜木を見て、ため息をタオルで隠した。
 目を大きく見開いてこちらを見ている桜木は、流川の神経を逆撫でる。その反面、妙に穏やかにもさせるのだ。
 一体いつ頃からなのか。多分、初めて屋上で逢ったあの時からに違いないけれど、今はもうそんなことどうでもよかった。
「……うれしーけど」
「だったらもっと、嬉しそうにしやがれ」
 言って満面に笑みを浮かべた桜木を、一体流川がどんな想いで見ていたのかなんて、きっと気付きもしないだろう。


 二月の下旬に桜木の隣の部屋に住んでいた学生がそこを引き払って、ちょうど一ヶ月が経つ。
 築二十数年、二階建て木造アパートの片隅、201号室が桜木の住まいだ。十畳一間と、台所、水洗、風呂付き。家賃月三万三千円は、立地条件などを考えると、かなりの安値だと思う。
 駅三つ隣に桜木が通うことになった大学があり、そのせいか学生が入れ替わり立ち代わりやってくる。居付いているのは、下に住むおばちゃんと桜木くらいなものだ。
 そのおばちゃんの話だと、隣はまた学生らしい。どうやら桜木と同じ年だという。
 いつものように近くの公園でボールを突いていると、水戸がやってきた。右手に持った小さな箱を、軽く上げて桜木に笑いかける。
「ケーキ、買って来たぞ」
 折りしも、今日は四月一日。桜木の十八歳の誕生日である。


「ショートケーキ三つか。いつもわりぃな」
 三つという数を、桜木はちっとも気にしていない。自分が二つ、水戸が一つ。彼の頭の中では、きれいに計算されていた。
 そんな桜木に苦笑しつつ、水戸は時計に目を向ける。
「俺もそんなに長居出来るわけじゃないんだけど」
「おぉ、すまねぇ。んじゃ、アパート行くか」
 道すがら、就職してしまった皆の近況報告を聞き、アルバイト先の検討などしてもらっていた桜木は、近付いたアパートの様子に気付き、ふとそちらに顔を向けた。
 どうやら、お隣さんが引越してきたらしい。粗方片付いているようで、容易に荷物の少なさを感じさせた。
「来たな」
 水戸の言い様にクェスチョンマークを浮かべながら、桜木は階段を上がる。開け放たれた202号室の扉を見ながら、桜木は、
「ちょっくら、あいさつしてくらぁ」
と水戸に顔を向けた。言われた水戸はひどく驚いたように目を見開き、「花道」と呼びかける。
「おまえ、何も聞いてねぇの」
「何を?」
「何をって……」
「行ってくるぞ?」
 そう言って、自分の部屋の前を通り過ぎる。
 近所付き合いを大切にする桜木は、とりあえず、新しくやってきた人には一度挨拶をしに行っている。
 普通は新入りがすることだが、自分から動かないと、永遠に顔も知らないことがあったのだ。
 そんな気持ちの悪い体験はもう結構とばかりに、学習した結果である。
 隣の部屋の玄関に消えて行く桜木を見送りながら、次の瞬間何が起こるのか、水戸には分かっていた。分かっていたので、さっさと桜木の部屋にもぐりこむ。現場に立ち会うのだけはごめんだった。
 案の定、次の瞬間、まるで町中に響き渡るかのような絶叫が、隣の部屋から発せられる。
「ル、ルカワー?!」
 これが、ショートケーキ三個の理由。

続く

きまぐれにはなるはな