あの熱くて静かな夏の日から[8]
第六章
「もう日常生活にはほとんど支障はないんだけどね、まだもうちっと入院してようか」
八月の終わり間際、のほほんと担当医はそう言った。何でと聞き返すと、君は一人暮らしだろう? と確認された。
「家事はかなりの重労働だ。甘く見ちゃいけないよ」
そんなことは、とっくの昔に知っている。
「でも、それが日常生活だろ?」
しつこく食い下がると、ほとんどと言ったじゃないか、独りごちて腰に手を当てた。
「吉井先生とね、相談して決めたんだ。激しい運動が可能になるまで、ここに閉じ込めておいた方がいいだろうという結論に落ち着いた」
「何でっ」
あまりの言い様に桜木は吠えたが、ひと月近く付き合ってきた担当医は少しもひるむことはなく、その質問に答えた。
「君は無茶しそうだから」
「確かにね」
思わず吹いた下田にも、恐れられていた睨みは効かない。これでは中学時代に培った『和光の桜木』の名折れだ。
「安西先生にも頼まれたからね、君のこと、くれぐれもよろしくって。鬼になってでも完治させるからね」
にっこり笑って去っていった。ここでは笑顔は武器だ。殴り付ける石鎚だったり、縛り付ける縄だったり。
嬉しさ半分、不平半分、といったところか。
授業はどうだっていいが、部活は気になる。家のことも。入院前に一応冷蔵庫の整理等、長期空けることを予想してきたが、一ヶ月もほったらかしなのはさすがに少し心配だ。
「無茶しねぇから退院させてくれたっていいじゃねぇかー」
誰にともなく不満を吐くと、下田が「それは無理だろうね」と言った。
「いくら家事を軽減させても、学校には行くだろう? そうすると、当然体育があるだろう? 授業を休んだとしても、君みたいなタイプはそうそう我慢は出来ないよ。放課後には部活もある。覗かないで帰れるのも最初のうち。見学だけでもと覗いたら、身体を動かしたくなるのは避けて通れない衝動だ。何故なら、それが好きだから。好きなんだろ? バスケ」
「う……」
「無茶しない。それはスポーツ障害者なら誰でもつく嘘」
下田は笑う。桜木は不満だ。
行動をすべて言い当てられるのは、自分が単純だからなのか、下田が特殊能力者なのか。
「シロくんもついたのか? その嘘」
むぅ、と上目遣いに窺うと、ニッと下田は笑った。
「むかしね」
桜木はますますむぅ、とする。存外下田はタチの悪い人間なのかもしれない。
遠慮なんかしてやらねぇと、桜木は日頃疑問に思っていたことを口にした。
「シロくんは、一体どこをヤッてここにいるんだ?」
「足だよ」
顔をしかめられるかもと思ったけれど、事も無げに返事が返る。桜木はまだ納得できない。
「でも、時々フツーに歩いてる」
足のどこをどうやったのか、さっぱり分からないが、松葉杖をついているところは、たまにしか見たことがない。完治とまではいかないまでも、治っているように見える。
下田は肩をすくめた。
「むかしの汚名がまだついているのかもね。俺も閉じ込められてんだよ」
呆れた。眉を左右段違いにして、桜木は顔をしかめる。
「留置所か? ここ」
下田は笑う。
「前科者になっちゃったら、なかなか外に出してもらえないよ。桜木くん」
「言うこと聞くしかねぇのか?」
諦めで声は細るが、口は尖った。実際まだ不満だらけだ。それがはっきり分かるのか、下田は半ば諭すように大きく頷く。
「それが一番得策だね」
仕方がないので、後日水戸に部屋の様子を見てきてもらった。話を聞いた水戸は微笑んだだけだったけれど、実は仙道には思いっきり笑われた。
いつまで経っても笑い続けたので、桜木はいい加減恥ずかしくなった。それが恕口調を生む。
「いつまでも笑ってんじゃねぇよ」
「あはは。でも桜木らしいんだもん。あはははは」
「てめー、もう帰れ」
「帰れって、これ電話だぞ、桜木。あはっ。ひー、腹いて〜」
何のことはない。先日見舞いに来た時に、次の木曜はもう休み明けになるからこれが最後だと言い忘れた、というだけの電話だった。学校が始まったら、そうそう訪ねられなくなるから。それを伝えたかったらしい。
用件はもう聞いていた。耳元でこのまま笑われている理由もない。
「――切るぞ」
「ああ、ちょっと待って、桜木」
何も待つ義理はない。なのに手が止まるのは、ある意味お人好しだ。
「凄いことなんだからな、これって。必ずバスケが出来るようになるって、お墨付きをもらったようなものなんだから。ちゃんと完治してもらいな」
桜木は目を閉じる。仙道という男は、分かっているのかいないのか、時に凄く恥ずかしい言動をする。
「……わーってるよ」
「連絡くれよ。復帰したら、お祝いの練習試合しような」
練習試合か……たかだか四ヶ月前だ。陵南とそれをしたのは。
「今度は湘北が勝つ」
「県大会の借りは返させてもらうよ」
間髪入れずに返ってきた言葉に、桜木は笑う。
「オレの復帰祝いだろ?」
「だから全力でやるんだよ」
仙道の声も笑っていた。そんなところが憎らしいのだ。桜木は幸せな気分になる。
流川には言わないでおこうと決めた。何となく、そう決めた。あいつには退院が決まったら、それだけ伝えればいい。きっと知りたいのもそれだけだろう。言ったところで反応は分かっている。
「どあほう」
そう言われるのがオチだ。
これといって変わりのない流川との関係。二人だけの秘密のように毎日会ってはいるが、流川の返事はまだもらっていない。夏休みも終わるというのに。
最近、夜になってふと考える。流川に名前を呼ばれたことがあっただろうかと。一度気になりだすと止まらなくなって、やがてそれは不安に変わる。
「……ルカワ」
ヤツは知っているのだろうか、桜木花道という名前を。
8月31日。言わずもがな夏休み最終日である今日、いつもと何ら変わりなく流川は病室を訪れた。桜木は彼を屋上へ誘った。
屋上は、流川にとってあまり好ましくない場所である。かと言って断るにも理由を口にするのが嫌で、重い足をそこへ向けた。
もう秋といっても差し障りのない風が、強く辺りを吹き抜ける。陽射しはまだジリジリ痛いが、日陰に入れば肌寒いほどだ。
ベンチに腰掛けるのが嫌で、流川は屋上を縁取る手摺りへと進んだ。桜木もそれにならう。
「今日で夏休みも終わりだなー」
手摺りに背を向けながら、桜木は言った。
流川にしてみれば取るに足らないことだが、桜木にとってはそうではないらしい。明るく吐き出したわりには、余韻にためらいが含まれる。流川は続きを待った。
桜木はしばらく間を置いて、ふっとひとつため息をつく。
「何とも思わねぇ?」
「何がだ」
「明日っから学校始まんだぜ」
そんなことは分かり切っている。
「ここにもそうそう来られなくなるんだぜ?」
口調は笑っていた。そんなことかと流川は目を閉じる。
「関係ねー」
意味を測りかねた桜木の顔が一瞬曇る。補うために、流川は先を続けた。
「来たい時には来る」
これまでだってそうしてきたのだ。いても寝ているだけの授業など、いなくても同じだろう。
桜木は呆れた笑いを吐きながら、困ったように眉を動かす。
「嬉しいけどよ、学校はさぼんなよ」
てめーに言えた義理かと頭の中で思っていると、桜木は身を反転させた。顎を乗せた両腕ごと手摺りに寄り掛かる。連なる民家の屋根が、視線を遠くへと誘う。
どうもまだ何かあるらしい。流川はしばらく待ってみたが、たまらずに口を開いた。
「言いたいことがあんなら、さっさと言え」
桜木は右手でかしかしと頭を掻く。眉間に寄った皺がためらいを表している。厚い唇が横に引き結ばれ、その隙間から苦悩のうめきがもれた。流川は目を逸らす。
「だーっ、もう!」
桜木の声より手前にもうひとつ、何かが脈打つ音が聞こえる。体中で響く鼓動が、薄い鼓膜を刺激していた。
「ルカワっ」
こちらを向いた桜木の顔が、これ以上ないくらいに紅く染まる。
「オレのこと好きかっ」
「は?」
「オレの名前知ってっかっ?」
勢いにまかせた大声でそう聞いて、恐る恐るうかがう目。真っ赤になった耳がやけに熱そうで、流川は半ば感心する。
「……桜木花道」
無意識にぽつりとそう呟くと、ほっとしたように桜木は笑った。安堵の息は一瞬人を無防備にさせる。思わずその項に腕をのばしかけ、拗ねた眼差しに欲望をとめた。
「そうだよ。オレの名前はどあほうなんかじゃねぇ」
言葉を吐いた途端に、眼光が鋭くなる。このめまぐるしい変化に、流川は振り回される。目を奪われる。意識をとらわれる。
脈打っていた鼓動が落ち着く瞬間。かけまわっていた未知の熱が、静かに闘争心に移り変わる。
「てめーなんか、どあほうで十分」
しかしそれもまたこれまでとは違うものらしく、微かに流川は笑みを刷いた。そのことに流川自身は気付いていない。目を見開いた桜木を少し訝るぐらいだ。
桜木が優しく微笑む。違う勝手がまた続く。
噛み付いてくるはずだった桜木は、ポケットから何かを取り出した。握り締めたままの腕を二人のちょうど間で止め、流川に手を出すように催促する。
広げた右手を桜木は挟んだ。ただそれだけのことなのに、心臓が大きく跳ねた。同時に、手の平に何か預けられる。
離れていく桜木の手と同じリズムでそれは現れた。
2cmほどの、よれた兎のぬいぐるみ。元はピンクだったんだか白だったんだか、今では汚れで判別がつかない。その頭のてっぺんから延びた糸が、どこかの鍵に括りつけられていた。
「持っててくんねぇかな、それ」
流川は顔を上げる。緊張しているのか、桜木はぎこちなくはにかんだ。
「オレが退院するまで」
手の平の兎に流川は目を落とす。元ヤンキーという経歴からは想像もつかないキーホルダーだ。でも流川には分かった。これは桜木の物だということが。とても、らしい代物だ。
「……何で。何、これ」
「うちの鍵。一個しかねーんだから、なくすなよな」
流川は当惑した。そんな大事なものを預かるなど、何だか気骨が折れそうだ。
「……いらねー」
「いらねぇじゃなくて。持っててほしいんだよ」
「いやだ、なくす」
「なくすなよ」
「なくす」
困ったと顔に書いて、桜木は頭を掻いた。腕を組んでしばらく唸ったあと、天を仰いでため息をつく。
「わかった」
桜木はもう一度流川の手を包んだ。
「なくしてもいいから、預かっといてくれよ、な」
「……イヤだ」
「ルーカーワー」
「……何でオレに持っててほしいんだ」
「何でって……」
今度は桜木が当惑したようだったが、大事なものをむりやり流川に預けるのだ、それなりの理由があるのだろう。それを聞いた上でもう一度、流川は自分に預けるなんて馬鹿なマネはよせと言うつもりだった。
「も、持っててほしいからだよ」
なのに桜木は真っ赤になりながら、そんなことを言う。
「オレの持ち物、なんかひとつ、てめーに持っててほしいんだよ。あ、明日から、学校始まっちまうじゃねぇか。平日はこれねぇだろ? だから、その、他にこれといって持ってきてねぇし。――それ……」
「……どあほう」
また溺れたらしい。うまく息が出来ない。吐息混じりの掠れ声に気落ちしたように、桜木は手をのばす。
「わかったよ。やっぱ、変だしな」
反射的に流川は腕を引っ込めた。鍵をぎゅっと握り締めて。
「何すんだ」
「何って……持ってんの、嫌なんだろ?」
だから返せと言ってくる。後ろ手にそれを隠して、流川はふるふると頭を左右に振った。
「いい。持ってる」
「ルカワ?」
「持ってる」
桜木はしばらく流川をきょとんと見、呆れたように破顔した。
「天の邪鬼かよ、おまえ」
それがどういう意味かよく分からなくて、流川は眼で聞き返す。桜木はやわらかく目を細めただけで質問ははぐらかした。
「まぁ、でも。受け取ってもらえてよかった」
少し顔を赤らめて。小鼻をこすりながら言う横顔。渦を巻く、奥底の欲望。
触れたいと、思うことはおかしなことなのだろうか。人に対してこれまで、愛しいという感情を抱いたことのない流川は戸惑う。
桜木はいつもと変わらない。ただ皆に向けていた様々な表情を、流川にも向けるようになっただけだ。
やはり屋上になんか来なければよかった。病室にいればよかった。そしたら、こんなに苦しくなることはなかったろう。
吹く風と過ぎる時間を楽しむように、桜木は景色を眺めている。
――流川は手の中の兎を見た。
「退院が決まったら真っ先にてめーに教えっから、ちゃんと学校にいけよな」
呪文のような約束をして別れてから、もう三週間が過ぎようとしていた。
実際、学校が始まってしまえば忙しくて、とても病院に行くことはできなかった。
部活が終われば腹が減る。食事を済ませれば眠くなる。起きればもう登校時間だ。仮に夜更かしや早起きをしても、そんな時間に見舞いが可能なわけはなく、休日は選抜に向けて強化練習。やはり授業中しかないのだが、言われた手前破るわけにもいかなかった。一番に、知らせてもらいたかったから。
二、三日前から、季節は急に秋に変わった。日差しはまだきつく、窓の締め切られた所にいると暑いとは思うのだが、吹く風は確実に冷たかった。半袖で過ごすにはもう寒く、朝晩の冷え込みは極端になった。
北の方ではもう初雪が観測されたらしい。頂を白く染めながら、中腹は紅葉に彩られ、すばらしい景観だとテレビで言っていた。今までなら気にも留めなかった出来事も、桜木なら感心しそうだというだけで心に残る。
預かったあの鍵を、流川は常に持ち歩いていた。桜木に会いたくなったら、ポケットからよれよれの兎を取り出し、そっと手のひらに包み込んで額に当てていた。そうすると、不思議と落ち着いたのだ。
目敏い親衛隊によって流川の奇怪な行動は、一部で噂として囁かれるようになっていた。くしゅくしゅウサギは幸せのシンボル、と言い訳をしながらお揃いを気取って持ち始めた者は、間違いなく流川ファンである。
昼食後の屋上は、今が最適の仮眠場所だ。熱い光線と冷たい気流がちょうどよいブランケットをかけてくれる。
桜木を、日光浴よろしく陽にかざし眺めながら、そろそろ布団に潜り込もうかとしたとき、鈍い音が高い摩擦音を従えながら流川の意識をさらった。
水戸はすぐさま流川に気付き「おじゃま」と言って軽く手を上げた。そして、他にいくらでも場所は空いているのに、パーソナルスペースぎりぎりのところに腰を下ろす。
やっかいな距離に流川は居心地が悪くなった。自分から距離を取るのも逃げるようで嫌で、眠ってしまえばそれまでだろうと横になりながら背を向ける。その際、兎を尻ポケットに入れようとして、水戸の口火を切らせてしまった。
「それ、花道の?」
流川は水戸を振り返る。ぎくりともぎょっともびくっとも、いくらでも心の中は表現できるのに、そんな素振りは何一つあらわれない。水戸にはひどく怠慢に、昼寝の邪魔をするなとでも言いたげに見えたようで、少し肩をすくめてみせた。
「最近急に寒くなっただろ。何か羽織るもんでも持ってってやろうと思ってそう言ったら、様子が変でな。今鍵持ってねーとか言い出すんだよ。家の鍵だぜ。持ってねーってどういうことだよって思ったけど、あいつもそれ以上は口割らねーし。困ったもんだと思っていたら、あんたの話を耳にしてさ。もしかしたらって、確かめにきた」
話しながら風向きを確認し、流川は風上だと確信すると、水戸は煙草に火をつけた。言葉の区切りにふーっと細く煙を吐き出す。
「なーにがくしゅくしゅウサギだよ。どっから見たってよれよれのぼろぼろじゃねーか、なぁ。まぁ、花道にとっては、大事な、たったひとつの形見だけどよ」
「……形見?」
「母親のな」
風が吹く。吹き抜ける。時間の感覚なんておかしなもので、何かの拍子に長さが変わる。たとえば今はどちらだろう。
母親の、形見? たったひとつの、大切な。
流川はぎこちなく眼を落とす。仕舞い損ねた兎を見る。
それはもう大切にしてきたのだろう、見れば分かる。手垢やら何やらで汚れてしまって、頸と胴体の境目などはちぎれんばかりに伸びきっているが、付け替えた跡のある紐、ほつれを直そうと試みた跡。
――何が、なくしてもいいから、だ。どあほうっ。
「しっかし、いつの間に和解したんだよ。花道もあんたも何も言わねーから、正直びびったぜ」
あらかた吸い終えた煙草を携帯灰皿に押し入れて、そろそろ時間だと水戸は立ち上がる。
「これでようやく花道も、バスケットマンとして認められたってことかな。よろしく頼むぜ」
何か違和感を感じて、流川は訝った。返事を返さない流川に、水戸は同意を求めるような笑みを投げかける。
「花道から上着持ってきてくれとか連絡あったら、あいつん家教えっから。それとも、もう知ってるのか? アパート」
流川は短く首を横に振る。その答えに満足したように、水戸は片手を上げた。
続く
⇒きまぐれにはなるはな