あの熱くて静かな夏の日から[7]
好きだと言った。それを後悔した。もう退院するまで会えないだろうと思っていたのに、翌日も流川は来た。嬉しくなるのは手に負えない、たちまち気分を塗り替える。
来ても流川は何も話さない。一度ぐるりを見渡して、下田に微かに会釈しただけで、忘れ物かと聞いても曖昧に首を横に振り、座りもせずにベッド脇に佇んでいる。桜木は困って頭を掻いた。
「座っか?」
立て掛けてあるパイプ椅子を取り出してやると、流川はしばらく間を置いてから、ぎこちなく頷いた。そして無言のまま腰を下ろす。
「あー……練習、終わったのか?」
いっかな口を開かない流川に困ってしまって、桜木は話題を振ってみた。
ん、と言葉にならない音とともに首を縦に振る。
「オレがいねぇと静かだろ」
ちらりと流川は目を上げた。桜木は目をそらす。
「暑ぃんだろうな、体育館」
窓からは今日もまた、風が迷い込んできている。流川の前髪を揺らす残像が、まぶたの裏に焼きついた。
ベッドの上で胡坐をかいて、肘をついて外を見ている。その桜木の姿を、流川はじっと見た。
何故自分はここに来たのだろう。いくらか伸びた、赤い、芝生のような桜木の髪。ふわりと風に踊る様は、こんなに近くにいるのにまるで手の届かない、侵しがたい遠くに思える。
相手を手に入れたいと、思っているのはどちらだろう。
桜木は好きだと言った。流川のことを好きだと言った。流川もまた、桜木のことが好きだと言いたかった。言わなければいけなかった。たとえ桜木が後悔していようが。
「みんな元気か?」
沈黙に耐えられなくなった桜木が口を開いた。それは流川の出鼻をくじいた。
流川は開きかけていた喉を一旦閉める。桜木は明らかに困っていた。それが悲しい。腹立たしい。
「……こないだ会っただろ」
バスケ部の面々が見舞いに来てくれたのは三日前の話。
流川に突き放されたような気がして、桜木はムッとしながら傷ついた。
「――おめー、何でここにいんだ」
変わった声音に目を向ける。今度は桜木は怒っていた。よくもまぁそんなにコロコロ表情を変えられるものだと、馬鹿みたいなことを思いながら、怒りの理由に流川は気付けない。そして投げられた言葉に、流川も目を据わらせた。
まるで早く帰れと言われているようだ。
お互い睨み合いながら、引っ込みがつかなくなっていた。こんなことがしたい訳ではないのに。もっと他に、ただ単に、側にいたいだけなのに。
リハビリの時間がそれに終止符を打つ。少し時間が過ぎていたようだ。かかった院内放送に、桜木は無言で視線をそらす。そして何も言わずに、流川の脇を過ぎて行った。
うまくいかない。
去った気配に、流川はため息をつく。半ばホッとしたのは正直な所だ。
会いたいと思う。側にいたいとも思う。でも同時に、相反する欲望も持つのだ。一体どちらが本心なのか、どちらも真実なら何故そのようなことが起こるのだろう。
病室を出るとき、ふと見た下田は優しく無視を決め込んでいた。それでも少しだけ頭を下げ、挨拶をすると、顔を上げて彼は微笑んだ。
翌日も、そのまた翌日も、流川は来た。桜木に会いにきた。そして何も言わずにそこにいる。話しかけてもろくな返事は返ってこない。最後はいつも喧嘩別れだ。
突っ立っている流川に椅子を出すのは桜木だ。勧めないといつまで経っても立ち続けている。放っておけばいいのだが、桜木もまた流川の顔を見ると前日までの、もしくはつい今し方まで抱いていた鬱憤など微塵もなく消え失せ、今日こそは穏やかに過ごせそうだと思ってしまうのだ。その思惑は見事に外れる。
そして帰るとき、流川はきちんとパイプ椅子を片付けていく。その余裕が腹立たしい。痕跡を消していく感じが悲しい。
流川は何故、ここに来るのだろう。
「いよっ、花道」
「調子はどうだ〜」
「いいもん持ってきてやったぜぇ」
八月二十四日、火曜日。朝、めずらしく桜木軍団が揃ってやってきた。
「いいもん?」
どうせロクな物ではないだろうと聞き返すと、野間が手にしていた紙袋をドンとサイドテーブルに置いた。
「おうよ。酒よ、酒」
「サケ?」
袋からのぞく頭はピールの缶。
「……持って帰れよ、てめー」
じとっと桜木は目を向ける。
同じ持ってくるのなら夏休みの宿題でも持ってきてくれと言うと、高宮が「オレたちがやるわけねーじゃん」とお約束の突っ込み。「そのとーり」と大楠は大きく頷いてから、
「花道は宿題どうなるんだ?」
と素朴な疑問をはいた。その言葉に皆ハッとする。
「……ホントだ」
「どうなるんだ?」
「やっぱ提出せにゃならんのか」
「ただでさえしねーのに」
ひとしきり悩んだあと、
「まぁ、出さねぇことには変わりねぇか」
桜木は答えを出した。皆は大きく頷く。
「そりゃそーだ」
馬鹿笑いをして、桜木は久し振りに頬を上げる。この所不可解なことを悩みすぎて、あまり笑っていなかった。何故ルカワごときにこのオレが振り回されなきゃなんねぇんだ、とは腹の中。
「酒持って、今からどっか行くのか?」
大口を開けたついでに聞くと、野間が鼻の下のひげを一度指で撫でた。
「海よ、海」
「ナンパしに行くのよ」
「洋平はバイトだけどよ」
続いた大楠と高宮に、相変わらずひでぇヤツらだなぁと笑って、桜木は水戸に聞く。
「浜茶屋も一息ついただろ」
「まぁ、盛りは過ぎたけどな」
肩をすくめて答えると、あ、そうだと水戸は声を上げた。何かを思い出したらしい。
「流川に会ったぞ、昨日。見舞いの帰りに、病院の玄関で」
桜木は一瞬ぎくりと身体を強張らせる。他の三人は驚きの声を上げた。
「ここでか?」
「何でだ?」
「どっか怪我したのか」
心配しているのか、ただの好奇心なのか。投げられた質問に水戸はのほほんと答える。
「かもな。二度目だし」
「二度目?」
聞けば三、四日前にも一度、廊下ですれ違ったという。あの日だ、と桜木は思った。中庭に行ったあの帰りだ。
「通院してんのか」
「まさか花道の見舞いじゃねーよな」
「まさかな」
にやりと笑って一斉に桜木を見る。からかいなのは見て取れた。顔を引きつらせながら桜木は笑った。
「ジョーダンだろ」
自然な仕草がうまくいって、桜木は内心ほっと息をつく。
「何であいつが来るんだよ。来たって黙っているだけで、どあほうとしか言わねぇし、ガン付けるだけだし、ケンカにしかなんねぇよ」
ぶすくれた顔に水戸は苦笑する。
「だろーな」
大楠は大きく伸びをした。
「大体、あの流川がわざわざチームメイトの見舞いになんか行かねーよなー」
「そんな暇あるんならバスケしてるわな」
「うんうん」
他愛もないその言葉に、桜木は視線を落とす。何かがちくりと胸を刺した。それが何なのか分からない。
お構いなしに話は続いた。
「じゃあ、どっか怪我したのか」
「どこだ?」
「そんなへまするようなヤツにも見えんがな」
うーんと悩んだ後、ふと大楠が口を開く。
「あいつんち、この近くなのか」
皆が一瞬きょとんとした。
「違うだろ、確か学校の近くじゃ……」
「じゃ、何でこんな遠い所に」
「別にそんな遠かねぇだろ」
「いーや。流川にしたら遠い」
断言に、言われてみればそうかもなぁと皆は納得した。何しろバスケと睡眠と食欲以外には、とことん不精が働く男だ。
「ただの怪我なら近場に行くよな」
うんうんと頷く。
「怪我じゃねーのか」
「やっぱ見舞いか」
一体誰の。
「……なぁ、おい」
話を聞いていて段々顔をしかめるしかなくなった桜木は、うかがうように会話を止めた。
「バイトの時間、大丈夫なのか」
ちらりと向けた視線の先で、腕時計をのぞく水戸。
「……そろそろ行くか」
間延びした答えはさして時間は迫っていないことを告げていたが、皆はいそいそと支度をし始めた。
「もうそんな時間か」
「花道、ビールいるか」
野間は酒を置いていこうとする。
「いらねぇよ」
「昼飯に一杯」
「怒られるって」
「天使のおね〜さんにか」
苦笑しながら断っていると、大楠が揶揄してきた。
「看護婦っていいよな」
「あの制服、脱がしてみてーよなー」
AVな妄想に浸りはじめた三人を、桜木は真っ赤になりながら怒鳴り散らす。
「早く行けよっ」
期待どおりに水を差されて、三人はご満悦らしい。
「相変わらずガキだな、花道は」
「ムラムラッとこね〜か?」
「右手と友達んなってねーのか」
「うるせぇ。ぶっとばすぞ、てめーら」
続く嘲笑に睨みをきかすと、傍観していた水戸まで肩をすくめる。
「背中に障るぜ」
「くわばら、くわばら」
さっさと退散しなくちゃなーと、おどけてみせて手を上げた。四人一斉に去っていく。
「じゃーな、花道」
桜木は苦笑した。
「おう。じゃあな」
見送って、ため息をつく。まったくもって騒々しい奴らだ。
……ここまでとは言わないが、流川もしゃべってくれればいいのに。
思考がすぐさま移行する。そのことには気付かないで、先程の何気ない一言を思い出していた。
『わざわざチームメートの見舞いになんか行かねーよなー』
チームメイトでも、そうじゃなくても、流川は見舞いになんか行きそうにない。人非人だとかそういう意味ではなくて、何よりもバスケを優先しそうな気がする。赤木や安西監督の見舞いなら話は別だろうが。
流川の目から見て桜木はきっと、うるさくて迷惑で邪魔でしかないただのド素人だ。そんなヤツの見舞いになんか来るのだろうか。
好きだと言ったのに、それには答えず毎日来るのは、何とも思っていない証拠なのか。
頭の中がグルグルする。
何故流川はここに来る? 桜木は、流川にとって何なのだ。本当に、何をしにここに来ているのだろう。
「……なぁ、シロくん」
「何だい?」
読んでいた本から顔を上げて、下田は桜木を見た。落とした視線をそのままに、桜木は疑問を口にする。
「何でルカワは、ホントに毎日ここに来んだろーな」
素朴な疑問だなぁと下田はこぼした。
「そりゃ、来たいからだろうね」
「何でだよ」
上目遣いに目を向けると、俺に怒るのは筋違いと軽く肩をすくめられた。
「会いたいからじゃないのかな。顔も見たくないのなら、わざわざ足は運ばないよ」
分かり切っている答えに桜木は口を尖らせる。下田はわかっていてこんな答え方しかしないのだ。知りたいのは、何故流川は会いたいと思っているのかということなのに。
「でもあいつ、何もしゃべんねーじゃねぇか。黙って、ムスッて、毎日ケンカで……まさか、ケンカしに来てんじゃねぇだろうな」
「そういうわけじゃないと思うけど」
微かに笑うと、下田は読んでいた本を閉じた。サイドテーブルに片付けて、桜木に向き直る。
「もうちょっとさ、待ってあげたらどうかな」
「待つ?」
返事なら、もう何日も待っている。まさか流川に聞き返さなかったのが災いしているのだろうか。聞かなかったじゃねーかと言われるのがオチとか。
ひらめいた仮定は次の言葉に否定される。
「うん。桜木くんはさ、速いよ、話すの」
「早口か?」
そんなこと言われたのは初めてだが、どうやらそういうことではないらしい。
「そうじゃなくてね。流川くんは遅いんだ、会話のタイミングが」
「タイミングが遅い」
「そう。たとえば、君が1、2、3とカウントする間に、ようやく1と言っているような感じかな。つまり1に対する答えを返そうとしても、話は3になっているから、返事のしようがなくなってしまうんだ」
桜木は呆気にとられる。
「とろいのか」
「要はそういうことだね」
関係あるのか分からないけれどと下田は言ったが、流川はそういうヤツかもしれない。
いつもぬぼーとしているし。聞いているのかいないのかイマイチよく分からない。口数が少ないのは、なるほど。反応が鈍いのか。
喧嘩の時はよどみなく達者な口は、普段回路が切断されているわけだ。バスケその他の欲望に、全神経を集中させるため。
不得意なのか、日常会話が。そうと分かれば打つ手もある。
桜木は、困ったヤツだとにんまり笑った。
「一度このオレ様の広い心で待ってみるか」
流川が何を話したいのか、桜木だって聞きたいのだ。
どうしても足がこちらに向いてしまう。それを止めることが出来ない。
殊更会いたいなどと思ってはいないのに、それはただ自覚がないというだけの事らしく、気が付けばいつも病院の目の前だ。
――いや、本当は知っている。桜木に会いたいという欲望。会っていないと不安な心。そんなものはまるきり自分ではないもので、いつも戸惑いがまとわりつく。
夕方は、まだ今ひとつらしくなく、太陽は遠い。
今日もうまくいかないだろうか。ため息をつくくらいならこのまま引き返せばいいのに、体はいうことをきかない。
流川は何となく知っていた。桜木の「好き」は、自分が抱いているそれとは少し違うだろうことを。ただ一緒にいるだけでは、流川は満足できないのだ。
今年過ごした夏と相反する心を、二人は持っていた。今熱いのは流川、静かなのは桜木だ。
冒せないその凪に、せめて傍にいることを希む。
考えないまでも覚えてしまった病室までの道程を、葛藤しながら流川は歩く。ためらいはいつも、その入口で頂点に達する。
ひとつ深呼吸をして室内を覗くと、めずらしく下田の姿はなかった。すぐさま移した視線の先に、赤い頭がひょっこりと揺れる。
「ルカワ」
その笑顔がもつのは、はじめだけだ。いやというほど分かっているのに、嬉しいのは止められない。消える原因も知っているのに、どうしようも出来ないのだ。
せめて桜木の半分でも、表情豊かになればいいのに。
いつものように椅子を用意する桜木。流川は黙ってそれを見ている。顔を上げて「来いよ」と言われるまで、壁際を動かない。
「おめーはどうして、いっつもそうかな」
笑う桜木の機嫌の良さに流川は気付く。おかしなもので、良くても悪くても面白くない時がある。結局は桜木に何があったのか、知らないことに腹が立つのだ。全部を知っていたいというのは究極のわがままで、またそれは不可能なことなのに、その欲望は止まらない。
「座れって」
言われるままに腰を下ろす。その過程で桜木は言った。
「たまにはてめーで椅子出せよ」
上がった語尾に流川は目を上げる。桜木は目を細めた。
好きだという言葉は、いつも胸の中であふれている。それは口では形作らない音で、流川は伝える術を持たない。
突き上げるような欲望を、何も知らない桜木に向けることも出来ず、ただここにこうしているだけだ。見ているだけで葛藤が生まれる。そこにあるものを守りたい自分と、壊したい自分と。
桜木は、流川を好きだと言った。好きだと言って笑った。きっと、桜木の心の中には、流川のような葛藤はないのだろう。
もしかしたら、側にいないほうが桜木のためなのかもしれない。ちらりとそんなことまで考えてしまう。
「ルカワ」
いつものように無言のまま過ぎていく時を桜木は破った。お互いに微妙に逸らしていた目が合う。
「逃げらんなくなっただろ」
桜木は考えた。どんなに嫌われていても、流川を好きなことに変わりはない。
これまでのように、ごめんなさいと言われたからといって、はいそうですかと簡単に諦めることが出来ないのだ。だったら――
「逃がしゃしねぇよ」
追い詰めて、とことん追い詰めてやる。どんな答えが返ってきても、放しはしない。
ここまで待ったのだ、いまさらゼロになど出来るか。
「誰が逃げんだよ」
ムッとして、流川は言い返した。それから桜木の言葉の意味を考える。
桜木は笑っていた。微苦笑の奥で、目だけが異様に真剣だった。思わずゾクリと、身体に熱が走るほど。煽られているような感じだ。
逃げられない――確かに。でもそれは何から? 言われないまでも、桜木からだ。桜木の言葉がそれをさしているのか、流川には分からないが。
逃がさないとも言った。それは明らかに流川に向けられた言葉だ。桜木は流川を逃がさないと、そう言ったのだ。
上等だ。流川は嬉しさと腹立たしさの間で思う。流川のこの狂おしいまでの欲情を知っても、まだ桜木はそう言うだろうか。
それでも流川はひとつ息をついた。ぶつけそうになる激情を抑えるために。
上げた目で、桜木を睨み付ける。
「……てめーこそ、必死でついてこい、どあほう」
その言葉を聞いた瞬間、桜木は耳を疑った。降って湧いたような幸せは、俄かには信じられないものだということを知った。目を瞠ったその先で、流川のきつい双眸がじっとこちらを見ている。
夢じゃねぇだろうな。そう思った。時間が逆戻りしたような、熱く高揚したコートの上。あの山王戦でのワンシーンが、あの時の興奮が、一気に胸によみがえる。
ルカワ……。
声に出したわけじゃない呼び掛けが、聞こえたように流川は目の色を変えた。
まるで泣き出しそうな気配に、流川は戸惑う。確かに桜木は簡単に泣くヤツだ。試合に負けるたびに泣いていたような気がする。別にめずらしいものではないのだが、流川は嫌いだった。苦手だった。どうすればいいのか分からなくなるからだ。
ずっと無表情だと思っていた流川にも、表情があるのだと桜木は知る。ただそれは筋肉をほとんど使わないもので、ちょっと見には気付けない。
目は口ほどに物を言うとは、先人にも流川みたいなヤツがいたのだろう。
桜木は笑った。嬉しくて笑った。
「おぅ。一生ついてってやる」
あの時、流川はやはりちどり荘で、桜木に向かって笑っていたのだ。桜木は、今それを確信した。
ただそれはほんの一瞬のことで、ゆっくり伏せられていった目に流川が本心を隠していることには気付けない。
流川は深く息をつく。
この、身体の中で吹き荒れる嵐を、自分は一体いつまで抑えることが出来るのだろうかと。
続く
⇒きまぐれにはなるはな