あの熱くて静かな夏の日から[6]

     第五章

 緑が揺れる。風が揺らす。青い空に雲が流れる。白く跡を切り抜きながら。
 空と海は一対で、目に映るそれが持つ色も同じ物で、波飛沫は雲、海原は空。
 でも海は、その深海に様々なものを抱えている。それこそ色とりどりの。
 人は鳥に憧れる。空を飛ぶ鳥に憧れる。それは人が、空よりも海に近い生き物だから。
 桜木は中庭に向かった、流川を誘いながら。流川は黙って、桜木の後をついていく。
 すれ違いざまに向けられる目に、どこでも一緒だなと二人は思った。桜木は流川の外見を、流川は桜木の人柄を、それぞれに人を惹き付けるそれ。睨み付けたくなる流川をよそに、桜木はいちいち皆に挨拶を返している。
 ちょっと自慢がしたかったのだ。流川と一緒にいるところを。分かってもらえるはずもなかったが。
「どあほう」
 挨拶だけでは済まず、捕まった桜木を、面白くないと流川は呼ぶ。老若男女、問わずに好かれる桜木に、惹かれるのは何も自分一人ではない事は、嫌というほど分かっている。
「先行くぞ」
「あーもう、待てって」
 桜木は、苦笑する相手にすんませんと断って、流川を軽く睨んだ。
「ちっとぐれぇ我慢しろよ」
「うるせー」
「中庭の場所も知らねぇくせに」
「……うるせー」
 どこか決まり悪そうな流川に、桜木は可笑しくなる。あからさまに揶揄すると、また機嫌を損ねそうなので、ばれないように笑った。
 中庭の芝生の上。まるで無造作に置かれているようなベンチのひとつに、二人は腰掛ける。夕方の入口。でもまだ陽は高い。
「最近唐突だよな、おめー」
 桜木は笑って言った。流川はその横顔を眺める。
 桜木には夕焼けが似合うと思う。あの、陽の光を凝縮したような、透ける濃い橙色が。流川はそれが見たかったが、まだもう少し時間が必要だった。
 桜木は視線を、芝生の上へと走らせる。
「海で会った時も、今日も。前触れも何もなくて、オレが気付いたらそこにいる」
 何でだ? と聞きたかったが、その言葉は飲み込んだ。流川にも分からないだろうと思ったから。だってこれはきっと結果論で、流川は何も桜木を驚かそうとしているわけではないはずだから。答えなど期待していない。
 黙っている流川を振り返ったら目が合った。ドキリとしたのは流川の方で、それを取り繕うように睨みを利かしてしまう。こんなことがしたいわけではないのに。
 願望が事実だとは知らず、照れ隠しならいいのになと桜木は笑う。これまで穏やかな側面を目の当たりにしたことはなかった流川は、違う勝手に少し戸惑う。
「昨日も来てくれたんだってな。シロくんに聞いた」
「……シロくん?」
「同室の人」
 眉を顰め、流川は記憶をめくる。
「……下田……」
「おう。だからシロくん」
 流川は何故「だから」なのか分からなかったが、そこで納得してみせた。さして気になることでもないし、きっと聞いても理解出来ないだろう。はっきり言って、どうでもいいことだ。
 で? というように目を向ける流川に、桜木はもう一度笑う。不思議な気分だった。
 こうして流川と、一対一で横に並んで、穏やかに取り留めなく話をしている。皆が見たら驚くだろう。天変地異の前触れだとか騒ぐだろう。
 昨日から胸の中で、ひとつずつ溜まっている言葉がある。ずっと閉じ込められていた想いが、晴子に悪いと思って抑えているその隙間から、こぼれ落ちてくる。あふれそうだ。
 ぶちまけてしまえ。――言ってどうなる。拒絶されて終わりじゃないのか?
 でも、流川は会いに来てくれた。少しは期待してもいいんじゃないか。
 笑った後、正面に向けていた目を、桜木はおずおずと流川に戻す。


「足元をすくわれるよ」
 下田はそう言った。今朝のことだ。もしもの場合を考えていないと、受けるダメージは想像以上だと。
「もしもの場合?」
「世の中、思い通りにはいかないからね。大丈夫だって思っていても、思わぬ伏兵がいるものだよ」
「それは大丈夫」
 桜木は言った。
「端から期待はしてねぇから。あいつが一番に思っているものは何なのか知ってるし、オレがそれに勝てるとは思ってねぇ。ただいずれ、言いたくてたまらなくなる時がくると思うんだ。その時は、言うぞ、オレ」
「すでにもう言いたいんだろう?」
 少し冷たいからかいに、桜木は困ってしまう。はぐらかすように笑ってみせたが、下田に通じるはずもなかった。
「何をそんなに遠慮しているんだい? 個人の感情に他人を気にしていたら、素直にはなれないよ」
 桜木には下田の言っていることが分からなかった。
「むゆみに他人を傷つけることはないけれど、そうしなきゃいけないときもある。自分がその傷を負えばいいなんて、思い上がりもいいとこだ。それはね、逃げなんだよ。自分がこれ以上傷つかないための」
「オレが逃げてるって言うのかよ」
「言わないっていうのは、その『ハルコさん』からね」
 下田は一度居住まいを正すと、先を続けた。
「言ってしまうことで、ハルコさんを裏切り、傷つけて、嫌われるかもしれない。そのことからね」
 桜木は反論できなかった。それでも、むっと見返していると、下田は例の笑みを見せた。
「期待してるじゃないか」
「何を」
「想いに応えてもらえること」
「してねぇって」
「してるよ。鈍いなぁ」
「してねぇっ」
 むきになって言い返すと、くすくすと笑われた。
「それじゃあ、そういうことにしておいて。ひとつ教えてあげるよ」
 何だ? と桜木は目をぱちくりさせる。下田の真剣な眼差しを見て取って、こちらも居住まいを正した。
「生きている間は、自分の幸せを第一に考えること。他人の幸せなんて、死んでからでも遅くはないよ」
「……え?」
「死んでしまったらね、それこそ他人の幸せを願うくらいしか出来ないんだから。残してきた、大切な人たちの幸せを願うことしか、出来ないんだから」
 まるで知っている痛みででもあるかのように、下田は真摯にそう言った。
「だから、生きている人たちには幸せになる義務がある。それは大切なことだ。自分が幸せになるためにはどうしたらいいのか、よく考えることだね」
「シロくん……」
「傷ついても、傷つけても、傷つけられても、それは幸せになるための糧となる。プラスとマイナスは常にひとつだ。今はまだ分からなくても、覚えておいて」
「シロくん……もしかして……死んでるのか……?」
 ふとよぎった恐ろしい考えに、桜木はおずおずと聞いてみる。下田は眉を上げてにっこりと笑った。
「生きてるよ、ここではね」
 何とも奇妙な答えだった。


 流川は分からなかった。どうして桜木はこんなに笑いかけてくるのだろう。
 嬉しいけれど、分からなかった。分からないから怖かった。
 目を上げると、ちらりとこちらを窺っている双眸。
 桜木は、葛藤も何も、とにかく伝えたい一心が自分を埋め尽くした。この言葉を、流川に向けて言いたい。ただそれだけの欲望に、目が合った瞬間にとらわれる。
 海は水、水は液体。あふれれば零れ落ちる。
 「好きだ」と言った。流川は、それがどういう意味なのか分からないまま、桜木を見返す。
「オレ、てめーが好きだ。ルカワ」
 想いの海に、その言葉の波に、溺れそうなのは自分だけじゃない。桜木はそれに気付けなかった。
 零れた水滴は小さく砕ける。バラバラに弾け飛ぶ。返ってこない反応に、困ったように小首を傾げて、桜木は苦笑する。
 居たたまれなかった。分かっていたはずなのに。
 それで? と言われているような気がした。だから? と言われているような気がした。
 やはり答えを期待していたのだ。この心のどこかで。
 逃げたかった。
「オレ、そろそろ病室に戻らねぇと」
 いそいそと、桜木は腰を上げる。波にのまれ、酸素不足に陥った流川は、半ば意識を失っていた。よろよろと、桜木につられるように立ち上がる。
 何も答えないのに、流川は後をついてくる。いつもと同じ、何も変わらない顔で。何も感じていないような顔で。
 聞こえなかったのかもしれない。もしかしたら、目を開けたまま眠っていたのかもしれない。
 出来ることなら、なかったことにしたかった。否も応もないのなら、それすらの返事ももらえないのなら。
 無言のまま、外来と病棟のわかれ道までたどり着く。ぎこちなく、桜木はじゃあなと言って、背中を向けた。
 夕日は見られなかった。淡い光に包まれる桜木を見たかったのに。
 流川は、その丸い背中をただ見送った。猫背だから、いつも見様によっては寂しそうにそれは見える。今もまたそうだった。
 好きだと言われた。それは嬉しかった。でも今は、言ってしまったことを後悔している様に見えた。流川は悲しかった。
 言われたことに、言葉を返そうと思う。でも、そのタイミングが分からない。考える暇もなくて、気が付けばその話題は終わっている。いつもそうだ。
 とくに桜木は展開が速い。流川は話を聞くことで精一杯だ。間があいて、はじめて意見を求められていると気付く。あわてて頭の中を引っ掻き回すけれど、その頃にはもう次の話に移っているのだ。
 憎まれ口なら、いくらでもたたけるのに。
 見えなくなった姿。いつまでもここに佇んでいても仕方がないと、流川は向かうべき方向に身体を向ける。
「お?」
 聞こえた声に目を上げると、まるでつい先程まで海の家でバイトをしていたというような格好の男がいた。実際そうなのかもしれない。
「珍しい所で会うな。何だ? 流川も誰かの見舞いか?」
 水戸洋平だ。流川は苦虫を噛み潰したように眉をひそめる。
「それとも花道か? あいつ今怪我人だから、あんま喧嘩吹っかけねーでな」
 流川はムッとした。まるで喧嘩を売られているような気分だ。
 水戸としては、ただ言っただけなのかもしれない。意味はないのかもしれない。
 現に水戸はそれだけ言うと、足も止めずに通り過ぎて行った。それもまた、流川を不快にさせた。
 当たり前のように、いつも桜木の傍にいる。守っているように見える。桜木にしても、きっと水戸は特別な存在なのだろう。心の中に、水戸専用のスペースというものがあって、それはずっと消えないのだ。
 桜木の心の中を「ルカワ」はどれ程占領しているのだろうか。
 流川は目を伏せる。早くここから出たかった。じわじわと侵食されていく心が悲鳴を上げる。沈められた海の中で、水面を目指してもがいている。
 運よく顔を出せても、そこは海原には変わりない。方向すらも分からない夜の海のようだ。どちらに向かえばいいのだろう。
 自分は今、どこにいるのだろう。

続く

きまぐれにはなるはな