あの熱くて静かな夏の日から[5]
第四章
どうせ会うなら、二人っきりがいいと思ったのだ。
「元気なかったわよ、桜木花道」
大勢で見舞いに行ったって、ろくに話も出来ないのは目に見えていた。顔を見たくないなんてことは決してなかったが、その場に流川がいないというだけで何かが変わるということもないだろうと思っていた。それは少し寂しいことだけれど。
「あんたが来なかったからよ、流川」
彩子は語調を強めた。怒られる理由と言葉の意味を分かりかねて、流川は動きを止める。振り返ると、腕を組んでこちらを睨んでいる彩子と、その様子を心配そうに見ている赤木晴子がいた。
日頃から無表情だと言われている顔が、さらに冷たいものになる。
「行かないなら行かないで、何で昨日言わなかったのよ。ちゃんとリョータが聞いたでしょ? 都合の悪いヤツいないかって」
「……別に、都合は悪くなかったっす」
軽く視線を落としたのは、少しだけばつが悪かったからだ。
今日の練習は午後からで、早めに学校に着いた流川は、そのまま自主トレを始めていた。マネージャーの二人はとりたてて早出する理由はないはずなのだが、どうやら流川を問い詰めたかったらしい。
「じゃあ、何? 行く気がなかったってだけ?」
彩子の口調は流川を見透かすようなものだったが、言葉通りに受け取ってしまった晴子は、非難するでもなく心配そうに流川に視線を向けた。流川はそれにむっとする。
桜木が読んでいたあの手紙。それがこの女からの物だと知ったとき、流川は複雑な気持ちになった。あまりよくは知らない相手に、しかもバスケをしているわけでもない女に、一瞬のうちに敵意を抱けるなんて思いもしなかったからだ。
ここで本心を明らかにする気は少しも起こらなかった。流川は彩子の問いには答えず、手の中のボールをもてあそぶ。
両手に挟んでくるくる回す様を見て、痺れを切らしたのは彩子ではなかった。
「流川くん……」
そのか細い声を掻き消すように、流川はドリブルを始める。
彩子はため息をついた。
「行こ、晴子ちゃん」
「でも」
「いーから」
二人が出ていくのを見届けて、流川はリングを見上げる。ドリブルを続けながら、元気がなかったという彩子の言葉を思い出していた。
たしかに、先日海で会ったときも桜木は少し様子が変だった。背中の怪我で急な動きは無理だろうけれど、開口一番声を張り上げることもなかったし、むしろどこか流川と目が合ってホッとしていたような気がする。
でもそれで、いつもの調子を取り戻したと思っていた。流川と同じように。
違ったということか?
『あんたが来なかったからよ』
流川はミドルシュートを放つ。全身のバランスも、タイミングも感触も、申し分ない。放物線はまっすぐに狙ったところへ向かう。
オレのせい……?
ボールは掠りもせずに、きれいにリングをくぐった。
滞ることなく部活が終わり、後片付けを済ませると、待ってましたとばかりに宮城が声をかけてきた。
「おめー、昨日来なかっただろ」
自主練習をするにしろ、流川は一旦部室へ戻る。いつもより足早に廊下を歩いていると、肘で脇腹をつつかれた。
「てっきりいるもんだと思ってたから、びびったじゃねーか」
また小言だろうかと思っていたが、どうやら違うらしい。そこで途切れた話に、ふぅと肩の力を抜く。流川と桜木は犬猿の仲だ。来るか来ないか、半々の見通しをしていたのだろう。
待ち伏せてしていたわりには続けない宮城に、流川は聞きたかったことを聞く。
「……んで、どーだったんすか、どあほう」
宮城は眉を上げた。
「まぁ、経過はよさそうだったぞ。ちっと疲れてはいるようだったけど」
部室に着きロッカーを開け、流川はそのまま着替え始める。残らないこともさることながら、いつもはジャージなのに普段着を着込みだした流川に、皆ざわめいた。
「何だ? これから用事か?」
それに軽く頷きながら「お先っす」とめずらしく一番に上がる。「気をつけて行けよ」と宮城は言った。思わず振り返る。ただの社交辞令だと、手で追い払われた。
通学用のママチャリではなくマウンテンバイクに跨って、流川は病院を目指した。昨日、見舞いに行くという話を聞いて、欲望が抑え切れなくなったのだ。素直にならないと損をするぞと牧は言った。確かにそうかもしれない。でも、会わなくても大丈夫だと思っていたのだ。桜木は流川を追ってくる。そう信じているから。
この公園を突っ切れば病院はすぐだ。緑の影に囲まれながら、木漏れ陽が流川の肌を滑っていく。
受付で病室を尋ねたところ、院内の簡単な地図を渡された。渡り廊下を行った別館三階のナースセンターでもう一度問い合わせるようにとも言われた。
「桜木花道の病室、知りたいんすけど」
即座に返ってきた答えやナースの様子から、ここでもあのどあほうは人に好かれているのが分かる。よく子供と動物には敵わないと聞くが、桜木はそのどちらでもあるのだから、仕方のないことなのかもしれない。
プレートを確かめて、開け広げられた戸口から中を覗く。部屋には桜木の姿はなかった。がっかりする反面、ホッともした。でもやはり会いたかった。
ふと、ベッドの上で一人本を読んでいた男が顔を上げる。目が合って軽く会釈すると、彼はふっと笑った。
「桜木くんのお見舞いかい?」
「ウス」
「残念。さっき出て行ったよ。友達と二人で屋上にいるはずだけど……会いに行く?」
友達という言葉に水戸の姿を思い浮かべながら、流川はしばし考えてコクンと頷く。その答えに満足するかのように彼は微笑を湛えた。
「じゃあね、その廊下をまっすぐ行って、突き当たりの階段を上がれば屋上に出られるから」
「ッス」
頭を下げて礼を言い、去り際に流川はプレートを見る。彼は下田浩行という名前らしい。
流川は屋上へ向かった。
外と中を隔てる扉。ガラスから光があふれ、踊り場や階段、そのまわりの壁を明るく照らし出している。熱を持つそれに日差しの強さを感じながら、流川は扉を開けた。
まるで子供が駆け抜けるように、風が全身を通り越していく。それを見送りながら、数歩コンクリートを踏みしめる。空は一面、青でおおわれていた。
ざっと見渡してみたが人影はない。いないのかと思ったとき、風が声を連れてきた。
「桜木」
聞こえた微かな音に息をのむ。これは――水戸のではない。ヤツなら「花道」と呼ぶ。では、誰だ? 聞き覚えのあるような声に、流川は眉をひそめた。
どうやら、この裏側にいるらしい。慎重に足を向ける。
「オレにとって桜木は、大事な一人なんだよ。ずっとバスケを一緒にやっていきたいんだ」
瞬間的に仙道だと分かった。およそ聞いたことのないトーンであったが、流川は確信した。
「待ってる。ずっと待ってるから」
気に障る。仙道の言葉すべてが腹立たしい。何故それを、仙道が言うのだ。桜木にそれを言うのは、このオレだ。
たまらずに流川は立ち聞きした後ろめたさも持ち合わせず、死角を一歩踏み出そうとした。それを遮る意外な声。
「わかった。ありがとな、センドー」
か細いそれに、流川は身動きが取れなくなった。知らない声音。その言葉の意味。憤りが急に削ぎ取られ、体は後ろにずりさがる。
何も考えられなくなった。
信じたくなかった。だって――桜木は、オレを追ってくるんだろ?
そう思っていた。そうだったはずだ。そう信じていたのに。
何かの間違いだと思った。これは、きっと、オレの勘違いだと。
風が渦を巻く。掻き乱していく、この心を。冷えたこぶしを握り締め、渇いた喉を微量の唾が通り過ぎる。二人が動く気配にハッと意識が冴え、強気だったはずの流川は逃げるように屋上を後にした。
病院の玄関を抜けた所で、流川は歩みを止める。屋上ほどではなかったが、相変わらず風がまとわりついてきた。生い茂る緑が鬱蒼と影を落とす。揺れるそれに鼓動が乱れる。
息をついて流川は病院を振り返った。逃げてしまった自分に舌打ちした。言いたいことがあったはずだ。したいことも。そのどれもひとつとして、流川は行動に移していない。このまま帰れるはずもなかった。
だからと言って、もう一度そこに戻ることも出来なくて、流川は玄関を見据えながら立ち尽くす。
――持っていかれるのだけは、嫌だった。桜木は、誰にも渡したくはない。たとえ流川のものではないとしても。
風が変わった。唐突に知った思いだった。
突き動かす。胸の中を、狂おしいまでに駆け抜けて。
それに飲み込まれないようにひとつ深呼吸をした時、自動ドアの向こうから仙道が姿を現した。
「あれ、流川?」
息を吐きながら仙道を凝視する。それを受けて仙道は中途半端に笑ってみせた。ねめつけられる理由が分からないのだろう。しかし怖じ気付くような性格もしていない。歩調を乱すことなく近付いてきながら声をかけてきた。
「久し振りだなぁ、元気だったか? 合宿どうだった?」
「……ああ」
答えるつもりもなかったが、答えなければ負けのような気がした。ぶっきらぼうにやっとそれだけ吐くと、仙道は一度眉を上げた後、ふっと口の端だけで笑った。
「そっか。――今日は何。桜木の見舞い?」
流川は息を吸いながら視線を下にそらす。そのまま息を吐くと、仙道はすっとぼけながら指で項を掻いた。
「まぁ、関係ないけどねー。じゃあ、オレ行くわ」
ひらひらと手を振ってさっさと背中を向ける。それをしばらく射ながら、急かされるように流川は口を開く。
「てめーだけじゃねー」
仙道は足を止めた。
「……何の話?」
振り返ったその顔はきょとんとしている。流川は二三度呼吸をやり過ごし、その間仙道は次の言葉を待っていた。
風が吹く。
「桜木を待ってるのは、てめー一人じゃねー」
その言葉を聞いて両目を眇めると、仙道は不敵に笑う。
「そりゃそうだ。湘北の奴らなんて心待ちにしてるだろうし、牧さんだって心配してる――なんだ、聞いてたのか」
そしてまた、おちゃらけた顔に戻る。流川はもどかしかった。違う、言いたいのはそういうことではない。
「あいつは、やらねー」
「選ぶのは桜木だよ」
また項に手をやって、窺いながら仙道はきつい口調で言い切った。
「おまえがいくらオレに桜木はやらないって言っても、桜木がオレを選ぶのはおまえには止められない。そんな権利はおまえにはない。せいぜい出来ることといったら、おまえも立候補することなんじゃない? そしたら、もしかしたら桜木はおまえを選ぶかもしれない」
もしかしたらではない。桜木はオレを選ぶのだ。それが当たり前なのに、おまえがしゃしゃり出てきたのではないか。
流川にとっては正当な言い分も、他の誰かには通じない。根拠のない自信はただの思い込みだ。わがままだ。人を説得するだけの物にはならない。
それでも桜木はオレのものだと、流川は仙道を睨み続けた。
微かに笑みを刷きながら、仙道はひとつ肩をすくめ、ため息をつく。
「だから、相手を間違ってるって言ってるんだよ」
言われたことが分からなかった。体よくはぐらかそうとしているとしか、流川には感じられない。
じゃあなと言って、仙道は身を翻す。話はまだ終わっていないと、流川は声を張り上げた。
「仙道!」
「オレだって究極のお人好しじゃないからな。おまえが馬鹿のまんまなら、桜木は遠慮なくオレが引き受ける」
振り返った仙道の顔は至極真面目で、それは試合中でも見たことがないものだった。一瞬のまれたのは認めたくない事実。
一拍ほど仙道は流川に目を止めると、言い聞かせるように言葉を釘に変えた。
「あいつを泣かすなよ」
再び風が流川を取り巻く。仙道はそれだけ言うと去って行った。
帰路につくことも病院に戻ることも出来なくて、流川はしばらくそこに立ち尽くした。
翌日。気を紛らわすために流川は家を早く出た。人気のない体育館は流川にとって最適だ。
静まり返った空間で、ボールも持たずに立ち続ける。
何故仙道にあんなことを言われなければいけないのか、流川は腹が立って仕方がなかった。
相手が水戸なら分からなくはない、納得できなくても。でも仙道は、親友でもなければチームメイトでもないのだ。
まるで、桜木を泣かすのは流川だとでも言うような、仙道ならそんなことはしないとでも言いたそうな。
「くそっ」
固めたこぶしを横に打ち付ける。くぐもった音が辺りに響き渡った。痛みも無視できそうなほど、それは鼓膜を刺激する。震え続けるざわつきは、まるで胸の内のそれ。
「荒れてんなぁ、流川」
ふいにかけられた声に、流川は勢いよく振り返る。
まだ荷物を持ったままの宮城と、すっかり着替えた三井がそこにいた。流川はゆっくり息をはく。
「……チワス」
「よう」
「どうした。花道とケンカでもしたのか?」
自然に問われた宮城の言葉に、流川は一瞬ぎくりとする。
昨日病院に向かったことは、誰も知らないはずだった、湘北の人間は。それが証拠に、三井はきょとんと目を見開いて、驚きの声を上げる。
「何だ? 昨日そそくさと帰ったと思ったら、桜木んとこに行ってたのか」
流川は何故だかムッとした。からかわれているわけではないのだろうが、当たり前のように語られるその内容に腹が立つ。
「会ってねーし、ケンカもしてねー……ッス」
思わず強くなってしまった言葉に、宮城は目をしばたたいた。これは相当に機嫌が悪いと、火を見るよりも明らかだ。宥めようと試みるが、そんな浅いものではない。宮城はとりあえず、前言を撤回した。
「そうなのか? オレはまたてっきり、花道に会いに行ったんだとばかり思ってたぜ」
罰悪そうに項をかいて、着替えてこようと部室へ向かう。三井はそれを見送りながら、やおら言葉を紡ぎだした。
「まぁ、犬猿の仲っつーくらい、寄ると触るとケンカしてるからな、おまえら。見舞いに行く気もないのはわかっけど……」
その言葉に、流川は目を移す。
行く気がないわけではないのだと口にしかけたとき、三井が振り返った。
「会いに行ってやれねーか?」
照れて苦笑している三井に、流川はすべての動きを止めた。何も言えなかったのだ。三井にそう頼まれる理由が分からなかった。
何故だか胸が苦しくなる。悔しい気持ちと寂しい気持ちが、悲しみを生むように。流川は目を伏せた。
「入院してるときっつーのは、なんか不安になるんだよ。オレはこのまま置いていかれるんじゃないか、抜かれるんじゃないかってよ。オレでさえそうだったんだから、桜木は相当堪えてんじゃねーかな。現にあいつ、何かえれー暗かったし。そのうち焦って、無茶してでもバスケがしたくてたまんなくなる。そうなってからじゃおせーんだ。そうなったらもう止められなくなる。……あいつには、オレみたいに時間を無駄にしてほしくない」
胸のうちが複雑になる。痛いわけではない。締め付けられる感じでもないのに、流川は苦しくなる。眉間が寄る。――どうして。
どうしてこうも桜木は、皆に愛されているのだろう。またそうして、心配しているのだと言ってしまえることにも腹が立つ。まわりすべての者に苛立ちを感じ、それに気付いた瞬間、自分にも嫌気がさす。短いため息を三井はどう取ったのか、言葉を続けた。
「流川。あいつの不安を取り除けるのは、おまえだけなんだぜ」
顔を上げる。意味深に笑う三井は、伊達にふたつ年上なわけじゃないのかもしれない。半ば反発するように視線を返すと、三井は笑いながら息をはく。
「会いに行けよ」
その言葉の不自然さに気付けるほど、流川は敏感ではなかった。
宮城が戻ってきて三井との話はそこで終わったが、頭の中にはずっと残っていた。
――会いに行け。確か牧にも、そんなようなことを言われた気がする。何故だろう。……何故みんな、桜木に会いに行けと言うのだろう。
桜木が会いたがっているとは思えない。だって、あいつはいつも人の顔を見るたびに突っ掛かってきたじゃないか。難癖つけて、敵愾心むき出しで、睨みつけるような視線しか、感じたことがなかった。
いつもいつも、流川に気付いたら、その直前まで惜しみなく振りまいていた笑顔をふいと引っ込めて、不機嫌を絵に描いたような顔を作る。
腹立たしいと思いながら、心臓が鈍い痛みを帯びる。じん……と広がるその原因に、思いをめぐらせたことはないけれど。
部活が終わって、流川はその足で病院に向かった。三井に言われたからというわけではない。腹立たしいが、仙道の言う通り、とにかくまず桜木に会わないと何も変わらないし、始まらないと思ったからだ。――背中を押してくれたのが三井だとは、流川は気付かなかった。
突き詰めれば「会いたい」という想い。風に揺られながら、いつもそれが根底にある。見失いながら、飛ばされることなく。
昨日たどった道順で、微かに肌寒い院内を行く。汗が冷えているのか、冷や汗がにじみ出ているのか、強くなる鼓動に流川の喉が渇く。
戸口にたたずむ前から、桜木の声は聞こえてきた。病室の扉は今日も開け放たれたままだった。
こちらに背を向けながら、下田のベッドに腰掛けて、談笑している姿が見える。
流川は無言のまま、その背中を見やった。呼びかけて、その顔をこちらに向ける事にためらいがあった。
下田がすぐ流川に気付いた様子で、ふっと優しく笑う。そして桜木の肩をぽんぽんとたたいた。
「どうした? シロくん」
小首を傾げる。下田が目配せをする。――桜木が振り返る。
まるで審判を待つように、流川は息をのんだ。表面上は無表情なのを、今ばかりは感謝せずにはいられない。
桜木が目を見開く。流川の眉間にしわが寄る。
桜木は笑った。
これまで、一度だって向けられたことのないあの満面の笑みを、極上の笑顔を、桜木は流川によこしたのだ。何が起こったのか、にわかには信じられなかった。
「ルカワ」
明るい声で呼ばれ、流川の頭はショートする。思うように反応も返せずに、流川はただ立ち尽くした。
続く
⇒きまぐれにはなるはな