あの熱くて静かな夏の日から[4]

 翌19日は木曜日で、宣言通りだと見舞い客が一人来るはずだった。
「桜木ー、元気ー? 会いに来たよー」
 手土産片手に現れたのは、桜木より少し長身の上、つんつん髪を立てている陵南高校の新主将だ。
「本当に来た」
「なんだよ。先週来た時ちゃんと言っただろ? 夏休みの間は週一で、木曜に会いに来るって。信じてなかったのかよ、寂しいなー、オレ」
 仙道はしゅんとしょげる振りをする。と、くるりと身を反転して下田に挨拶をした。苦笑を返されていた。相変わらず、おちゃらけているというか、本心が全く見えない。
 椅子に腰を下ろしながら、仙道は聞いた。
「調子はどう?」
「変わりねぇな」
 ほとんど四六時中開け放たれている四角い窓。踊るカーテンは一度たりとも同じ動きはしていないはずだが、その光景は見飽きたものだ。風の匂いも変わらない。空の色も同じに見える。違いに気付けないのは、心に雲がかかっているからだ。
 幾らか他愛のない言葉を交わしていると、不意に仙道は眉をひそめ、真面目な顔をした。ほんの一瞬のことで、桜木も目にしたのは偶然と言っていいほどだ。
「……センドー?」
 怪訝に思って呼びかけると、すぐに両眉を引き上げた普段のとぼけた顔に戻ってしまう。あくまで声の調子はふざけたまま、窓の外に視線を投げた。
「桜木ぃ。二人っきりになれる場所、行こうか」
 あまりの突然なことに、桜木の目は点になる。どこか上っ面を撫でていた仙道の声を、初めて耳にした結果だろうか。
「は?」
「席外そうか、俺」
 かかってくる声を振り返って、仙道はヘナッと笑う。桜木は意図がつかめず、その姿をただ見るばかりだ。
「いーえー、下田さんはお気遣いなく。あぁ、どこかにないですかね。人目を忍べるところ」
「センドー? ……シロくん……」
 うーん、と言って下田は上を向く。助けを求めたい相手はすでに、仙道の味方となっていた。
「この時間だと……屋上かな。意外と人少ないよ」
「シロくんっ」
 にっこり笑う下田に、にっこり笑い返す仙道。悪の繋がりを見た気分だ。
「じゃ、決まり。すみません、ちょっと行ってきます」
「お、い。センドーっ!」
 強引に腕をとられて、背中にヒビくだろっとの脅しも忘れ、引き摺られるように桜木はベッドを下りた。下田はひらひらと手を振っている。これはもう、諦めるしかなかった。
 廊下に出て、桜木はため息をつく。腕を放した仙道は「で、屋上へはどこから?」と辺りを見回した。
「こっち」
 人目を忍んで二人っきりになって、一体仙道は何がしたいのか知らないが、見てしまった一瞬の真顔には、真面目に応えなければならない。
 陽の光が満ちている屋上は、透き通る青い空をバックに、ばたばたと風が鬼ごっこをしているようで、コントラストの美しさよろしく洗濯物がはためいている。
 じっとしていたら頭が焦げそうな暑さの中、上手い具合にベンチを見つけた。こっちは太陽とかくれんぼをしているらしい。
 とりあえず、視界に入る限り人影はなかった。入り口の裏、廂の下のオアシスに腰を下ろしながら、仙道は本題に入る。
「元気ないなー、桜木」
 虚を衝かれ、桜木は一瞬ぎくりと強張った。
「……何言ってんだ、元気だぞ」
「オレにはそうは見えないけどなぁ」
 押し入ってくるならまだ抵抗のしようもあるが、トントンとノックのあと、延々扉の前でたたずまれては、無視を通すことも出来ない。それでも桜木ははぐらかした。いや、気落ちしている理由が桜木には思い当たらなかったのだ。
 流川に会っていない。来ると思っていたのに来なかった。原因は分かっているが、どうしてそれで落ち込むのかが分からない。
 桜木が口を引き結んだことで、束の間の沈黙が訪れた。混乱か葛藤か、どちらかが顔に出たのだろう。仙道は話題を変えた。
「リハビリは順調?」
「お、おう。それは大丈夫だ」
 弾かれたように顔を上げる。ふっと仙道は笑った。
「無茶は禁物だからな」
 うるさいくらいに周りが口にする釘だ。うんざりはしなかった。言われるたびに嬉しかった。自分のことを気にかけてくれる人がいるというのは、桜木には有り難過ぎることなのだ。
「わーってる」
 けれど、笑みを解くとき素顔にふと影が差すのは何故だろう。
 桜木は何かに飢えていた。何かを渇望していた。それはまだ自分では分からない。飢えていることにすら気づいていない。
 風は、あらゆるものを揺らす。
「桜木。オレにはね、ひとつ夢があるんだ」
 仙道は一度大きく伸びをすると、その腕をそのまま頭の後ろに持っていった。
「夢?」
「うん。日本でプロのバスケットチームをつくること」
「……ねぇのか?」
「ないよー、まだね」
 バスケを始めてまだ四ヶ月。それ以前はヤンキーやってた。桜木が知らなくて当然だ。
 ここから富士山は見えないのかと、本気とも冗談ともつかない呟きをこぼしながら、仙道は先を続ける。
「JBLがもっと活性化すればいいんだろうけど、それが出来るのはオレたちの世代だと思うんだ。やるならオレたちなんだよ」
 昨今ようやく日本でも、バスケットボールという競技が社会的に注目されるようになったきた。JBLも徐々に認知されるようになってきたが、NBAに比べればまだまだだ。国内戦で今もっとも注目を浴びているのは、高校バスケットと言ってもいいだろう。仙道の今の言葉は、決して驕りなどではない。
「牧さんとも話してたんだけど、そのためには、いいプレーヤーがたくさん必要なんだ。更に桜木みたいにスター性があれば、言うことなし」
「そ、そうか?」
 あんまり本当のことを言われると照れるなと、桜木は頭を掻く。
「流川がいればもっといいんだろうけど、あいつは単純にただ上を目指しているようなところがあるからなぁ、アメリカにでも行くんじゃないかな」
 担ぎ上げられて緩んだ顔が、その一言で強張り曇る。じとっと全身から嫌な汗が吹き出したみたいだ。
 仙道は桜木を見る。桜木の様子に気付かない振りは気付いている証拠だ。用心のためにかけておいたチェーンは、何の役にも立たず、仙道はその隙間を入ってきた。
「桜木」
 不躾な侵入者は、けれども桜木の敵ではなく、監禁されているもう一人の桜木の目隠しを取ってやろうとしているのだ。
「オレにとって、桜木は大事な一人なんだよ。ずっとバスケを一緒にやっていきたいんだ」
 その上で手を取った。目隠ししたままさらっていけばずっと楽だっただろうに、仙道は桜木の本心を聞きたがっていた。桜木の本心を、桜木に聞かそうとしていた。
「待ってる。ずっと待ってる。背中の怪我が治るまで。だから、元気出してよ」
 その言葉に、桜木の手が強張る。落とした視線は、その手を凝視した。
『待ってるから。大好きなバスケットが、待ってるから』
 晴子からの手紙を思い出した。見舞いに来たバスケ部の連中も、皆そう言ってくれた。自分が何を望んでいるのか、今わかった。
 聞きたかったのだ、その言葉を。ただ一人――流川の口から。
 立ち止まってくれなくてもいい、どれだけ先へ行ってもいい。ただ、待っていてほしいのだ。いつか自分が追い付くことを。そのことを、知っていてほしいのだ。
 気付かない振りは楽だ。でも、それはとても苦しい。耳を塞いでいるだけで、叫びはずっと続いているのだから。
 桜木は、左手を掴んでいる仙道の手の甲に、あいているもうひとつの手をあてがい、そっと腕を引き抜いた。無理をしていると悟られないように、懸命に笑みをつくる。きっと泣きそうな顔になっているだろう。
「わかった。……ありがとな、センドー」
 鬼ごっこも、かくれんぼも、もう終わりだ。目隠しを取られた桜木は、そう言ってもう一人の自分を見た。
 二人は席を立って屋上を後にした。別れ際、来週もまた来ると仙道は言い残した。
 解けてしまった謎の答えは、暗がりの中に転がったまま、桜木は持て余す。
 答えが出たというだけで、それが正解かどうかはまだ分からない。桜木はまだ決めかねていた。真実を見つめることが出来るもう一人の桜木が、じっと自分を見ている。
 この、どうにもならない苦しい思いは、片想いに似ている。行き場のない思いの出口はひとつしかないのに、その扉はためらいに阻まれて、なかなか開くことが出来ない。いざとなったらいつもこうだ。
 失うことを知っている分、求めることにも臆病になる。
「ただいま……」
「おかえり。友達には会ったかい?」
 病室に戻ると、読んでいた本から顔を上げて、下田がそう聞いてきた。
「友達?」
 話が見えなくて、桜木は怪訝な顔を返す。
「仙道くんと出て行ってしばらくしてからかな、友達が一人、君のお見舞いに来たんだよ。いま屋上にいるよって教えたんだけど、会えなかったんだ」
 話を聞きながら、桜木はベッドに横たわった。屋上にいる時もその後も、自分を訪ねてきた人物とは会わなかった。
「名前、言ってたか?」
「いや、聞かなかったけど、やたら綺麗な子だったよ。君と同じくらいの背丈で、ちょっと色白の」
 その形容に桜木は目を見開く。――流川だ。
 流川が来てくれたんだ。
 桜木は掌で顔を隠した。下田からは見えない位置だと分かっていたけれど、この泣きたいような笑いたいような複雑な表情は、誰にも見られたくなかった。
 わかるか? 分かっているのか? 今のこの気持ちの意味を。仙道では駄目だと言ったのだ。流川でないと駄目だと言ったのだ、自分は、さっき。
「屋上への行き方が分からなくて、迷子にでもなっているのかな」
 桜木は体を起こした。下田を見ると、にっこりと笑っている。見透かされている腹立たしさは、この際無視だ。
「ちょっと見てくる」
 一緒にいたいと思うのは、特別な感情だと下田は言った。自分がいるということを知ってほしいと思うのも、特別な感情なのだろう。この思いが、友情からなるものなのか、もっと別のものなのかは分からない。でもひとつ言えるのは、流川は友達なんかではないということだ。
 もう一人の桜木の目に映っているものが、自分にも見える。望まない結果ばかりを想像して、一番大切な本心を無視していた。もしかしたら、答えはもう出ているのかもしれない。
 院内に探し求める姿はなく、ナースセンターで尋ねたところ「その子ならもう出ていった」と返された。「すっごいかっこいい子ね」と言われたのは言うまでもない。
「それにしても桜木くん。まだそんなに走ったらいけないって、吉井先生に言われてたでしょ」
 現金だと思う。臆病者だと思う。流川が来てくれなかったら、きっと走りはしなかっただろう。ずっとあのまま、あの空間で、もう一人の自分と苦行のように向き合っていただけのはずだ。仙道の荒っぽい思いやりも無駄にして。
 思いはひとつ。流川に見ていてほしいこと。ならばこちらから、流川の視界に入っていけばいい。これまでのように。
 すんませんと謝って、桜木は笑った。きっと――きっとまた明日から、毎日の微妙な変化に気づくことが出来るだろう。

続く

きまぐれにはなるはな