あの熱くて静かな夏の日から[3]

     第三章

 影を見ようと思った。掌に形を成さないままの影。それが一体何なのか、桜木はどうしても知りたかった。
 下田が指摘したとおり、確かに気が付けばよく右手を見ていた。必ず左手ではなく右手をだ。思い出せそうで思い出せず、なのに心落ち着く影。
 不意に熱を持つこともあるそれ。
「桜木くん。手紙がきてるわよ」
 8月14日、土曜日。主にスポーツ選手が入院しているこの病棟の約半数が、一時帰宅に入った今日。世間はお盆に突入し、今年は墓参りに行けないことが、少し桜木の気に掛かった。
 両親の墓を参ってくれる親戚は、いないだろうと予測がつく。月命日もしばらく行っていないので、墓は荒れ放題だろう。寺に連絡した方がいいかもしれない。
 そういう思案から、桜木は意識をそらした。呼び掛けられて身を乗り出す。
「彼女からよ〜」
 きししと意地の悪い笑みをわざと浮かべながら、看護婦は近付いてきて目の前でひらひらと封筒を振る。「そんな人、いねぇっすよ」と言いかけて、目に入った差出人に思わずそれを奪い取った。
 赤木晴子からだった。
 薄ピンクの無地の小さな封筒が、いかにも晴子らしい。一体どんな内容だろう。ドキドキしながらハサミで封筒の端を切る。
 今すぐ見たい気持ちでいっぱいだったが、にやにや笑って去る気配のない看護婦に、ふと手紙を後ろ手に隠した。
「あら、なーにー? 読まないわけ?」
 冷たい子ねとよこす視線をじとっと恨めしそうに上目で返し、桜木はベッドをおりる。
「海まで散歩に行ってくるっす」
 誰が覗き込まれながら読むか。邪魔の入らないところで一人、心置きなく堪能してやる。頬を赤く染めながらズンズン歩くその姿に、看護婦はくすくすと笑った。
「リハビリの時間までには戻ってくるのよ〜」
 桜木の背中を見送ったあと、彼女はにこっと下田を見る。
「可愛いわねー、桜木くんて。あんな弟ほしいわ〜」
 素直で無邪気で女に弱くて。身近に是非一人いてもらいたいものである。
「だからってあんまりからかうと、そのうち嫌われると思うけど」
 ほどほどが一番、と下田はにっこり絶品に笑う。そういう自分だってよく桜木をいじめているのに。あんたが一番タチが悪い、と看護婦は思うのだった。


 波がほんの少しだけ高くなったような気がする。ここまで散歩するようになってまだ三日程だが、桜木はその微妙な変化を読み取っていた。季節は確実に移っている。
 波打ち際の浜辺に腰を下ろした。人気が疎らなこの海岸で、晴子からの手紙を取り出す。
『桜木くんへ。背中の具合はどうですか』
 晴子らしい、読みやすい字で綴られた文面を、桜木はゆっくりとなぞっていく。そこには宮城が新主将になったこと、赤木と小暮が受験に入り、三井だけが残ったこと、晴子が彩子に誘われてマネージャーになったことが書かれていた。
「むぅ。リョーちんが新主将か。まぁオレも今は部活に顔出せねぇからな。しかたねぇか。……ゴリは推薦なくなって、ミッチーはまだいるのか。そういや前、選抜まで残るって言ってたな。――おおっ、ハルコさんがマネージャーに!」
 ぶつぶつとつぶやいて百面相を繰り広げる。頭の中ではそれぞれの場面が描かれていた。いじけながら二人を追い出す三井の様子や、目の上のたんこぶに不満げな宮城。
『これから毎週、バスケ部の状況とか手紙で送ります。それが私の最初の仕事です』
 桜木は、ほんわ〜と顔を緩める。
 憧れの晴子から、毎週手紙が送られてくる。もちろん、自分も返事を返すつもりだ。と、いうことは……。
「文通vv」
 実に締まりのないニヤけた顔だ。さもありなん。
 好きな人と文通すること。数多ある桜木の野望のひとつが、まさに叶えられようといているのだ。当然の原理である。
 このまま幸せに浸れるはずだったのだが、手紙はまだ続いていた。よせばいいのに、目はそれを追う。
『P.S.――流川くんが全日本ジュニアの合宿から、もうすぐ帰ってくるのvv』
 ご丁寧にハートで結ばれている一文だった。桜木は、掌が熱を持ったことに気付けない。
 ――ルカワ……。
 ムッとした気持ちと、どきりとした心臓と。
 ふと上げた視線の先。桜木は大きく目を見開く。その時、どういうわけか目の前に流川がいた。満潮を過ぎて距離が出来た波打ち際との間を、素知らぬ振りしてランニングしている。
 まるで桜木になど気づいていないように、ひたすら前を見ながら黒髪を弾ませている流川。このまま通り過ぎて行きそうな感じだ。蹴り上げる砂が、ざっざっと耳につく。
 流川になのか、その態度になのか、桜木は急に怒りがわいてきた。
「ぜ……全日本……!!」
 いつもなら怒鳴ったりわめいたりして呼び止めていたのだが、何故かそれは憚られた。一旦息を吸い込んで大きく開けた口からは、まるで独り言のような呟きが漏れただけだ。
 怒りという感情は、時に何かに誘発される。大体それは妬みとか哀しみといった、負の感情と。
 桜木は不安だったのだ。ここにこうして動けない自分と、ひとつ先へ進んだ流川と。距離は今、どれ程なのだろうか。ありったけの声ですら届かなかったらどうしよう、と。
 でも流川は反応してくれた。足を止めて、見せなくてもいいのにわざわざ全日本ジュニアの練習着まで見せびらかした。嫌味なほどに。挑発するように。
 そしてさっさとランニングを再開する。
 桜木は純粋に怒りのみとなる。緊張が解けて大声が出た。
「おのれルカワ!! オレの補欠で選ばれたクセに……!!」
 なのに心なしか、頬が上がっているように感じた。気持ちは必ずしも、本心とは限らない。
 無視を決め込んでいた流川だったが、ふいに足を止めた。おろ? と様子を窺っていると、空を仰いで何かを見ている。
 桜木は視線を追った。流川は飛行機を見ていた。遠く高く、黒い影にしか見えないそれは白い筋を描きながら、けれども確かに海の向こうを目指している。そのように桜木には見えた。
 急に怒りも冷めていく。流川は何を言おうとしているのだろう。
 去っていくその背中に、桜木は思いを置く。ちどり荘でじゃぁなと声をかけた時、流川は頷いたように見えたのだ。事実はどうか分からないが、それが桜木の願望だった。
 右手が熱い。目を落とし、手紙を持っていたことを思い出す。
『待ってるから』
 晴子の手紙は続いていた。
『頑張って、桜木くん。これを乗り越えたら、大好きなバスケットが待ってるから』
「……ハルコさん」
 一緒に行こうと、そう思っていいのだろうか。
 吉井女医が呼びに来るまで、桜木はリハビリの時間が過ぎていることに気づかなかった。腰を上げ病院まで戻り、今日はちょっとキツイわよと言われたリハビリをこなしていく。
 偶然流川に会えたことが影響していると桜木は思わなかったが、顔を出した水戸に「今日は調子がいいみたいだな」と何とはなしに言われて、それは間違いだと分かる。
「何かいいことあったのか?」
「えっ」
「手紙がきたのよねー、彼女から」
「え?」
 居合わせた看護婦の言葉に、桜木は疑問符を投げる。それから慌てて頷いてみせた。
「そ、そう。ハルコさんから手紙が」
 忘れていた。確かにいいことのはずなのに、真っ先に浮かんだことは――
 ふと見た右手に目を瞠る。どくんと心臓が音をたてた。
 朧な影が形を成す。掌の熱もよみがえる。
 見たいと思った、この影を。いつも何を思っていたのか。
 驚きと、否定的な感情と、嬉しさと。何だか分からないけれど、いろんな感情がごちゃ混ぜになって、まわりの音など聞こえなくなった。
 無意識の自覚と意識しての自覚は違う。願望がそのまま心に落ちてきた時、桜木は初めて流川に対しての自分の思いを知ったのだ。
 この右手に住んでいたお守りは――流川だった。



 もしかしたらという期待を込めて毎日海岸に通っているが、あれから流川に会うことはなかった。たとえあれが故意でも偶然でも、同じ気持ちであれば翌日から必然になるはずなのだが、どうやら一方通行だったらしい。三日も続けば確定だ。
 桜木はため息をついた。
「最近見なくなったね、右手」
 病室を通り抜ける風にふっと微笑みかけながら、下田が独り言のように声をかけてきた。つられてぼんやりと彼を見やる。
「お守りの効力がなくなった?」
「お守り……」
 天井を仰ぎながら、桜木はそのままベッドに横たわった。右手をかざして、じっと見てみる。熱も影も名残しかない。
 落胆は願望も映さなくなった。
「……シロくん」
「ん?」
「ライバルって、いるか」
 何となく聞いた言葉に、下田はふっと影を落とした。一瞬の出来事で桜木の意識を過ぎるほどだったけれど、落とした視線は聞いてはいけないことだったようだ。しまったと思ったとき、彼は返事をよこした。
「あ……」
「いたよ」
 半身を起こしたその先で、下田は微笑をたたえていた。こちらに向けられた視線を、出端をくじかれた桜木はただ見返す。
 ――いたよ?
 暗い脳裏に染み付いた。その意味を考える暇もなく、桜木に呼び出しがかかる。いっておいでと手を振る下田を、桜木はためらいがちに振り返った。
 電話は彩子からだった。
「頑張ってる? 桜木花道」
 赤木がバスケ部を去った今、実質彩子が主将みたいなものだろう。宮城は彼女に惚れている弱みで頭が上がらないし、何より出没自在のハリセンを彼女は持っている。桜木と流川の名物のケンカも、その一撃で治まるほどだ。
 人間の長所なのか桜木の単純さかは知らないが、彩子の次の一言に桜木の鬱とした気分はあっという間に塗り替えられてしまった。
「明日バスケ部の皆であんたのお見舞いに行こうと思ってるんだけど、何時頃なら都合がいいのかと思って」
 にわかに桜木は目を輝かせる。込み上げる嬉しさに緩む顔を戻せないほどだ。
 この時分なら大丈夫だと告げて、それじゃ明日と受話器を置いた。
「いい知らせだったみたいだね」
 戻った病室で下田は呆れたように笑っていた。すべてがそのまま顔に出る桜木に、言わば親心のようなものが触発されたかのように。
 自分の素直さなどどうでもいいと、桜木は笑った。鼻歌が出るのは久し振りだ。
「わりーな、シロくん! 明日ちょっとうるさくなるぜ。バスケ部の連中がオレさまの顔、見に来るらしい」
「それじゃ僕はどこかに雲隠れしなくちゃいけないな」
「何で」
「これで結構気が小さいんだ」
 肩をすくめてみせた下田と二人、どこがと言って笑い合った。
 バスケ部の皆、と彩子は言った。皆に会えるのは嬉しい。二週間振りになる。けれど、切実に会いたいのは一人だけだった。――流川に会いたかった。



 きっと一番最後に入ってきて、むすっといつもの無表情で壁際辺りにたたずむだろうと、桜木は思っていた。
 彩子と晴子と宮城が先陣を切って入ってきて、そのすぐ後を三井が、安田と塩崎と角田、石井と桑田と佐々岡がやってきて、人の波はそこで切れた。
 それぞれに挨拶を返しながら、ふと桜木は顔を曇らす。
 いないという、水面に落ちた一粒の落胆は、少しずつ輪を大きくしていく。余韻は微かに波をつくり、人の話もうわの空だ。
 なぜ流川はいないのだろう。全日本の合宿だろうか。――合宿は終わったはずだ。
 来なかった、ということか?
 彩子に聞こうかと思った。でも聞けなかった。流川のことを尋ねる気恥ずかしさもあったし、憶測を肯定されることも怖かった。
 流川は桜木を顧みない。どんどん一人で先を行く。流川にとって桜木は、いてもいなくても同じなのだ。
 元気を装う合間にひとつ漏れた息。それを機にみな彩子に押されるように帰っていった。突然のことに呆気にとられながら、桜木はもう一度ため息をつく。
 相手にされない悔しさはわかっていたはずだ。相手にされていないことも、わかっていたはずだ。なのに今感じるこの寂しさは何だろう。
 海辺で流川に会ったとき、思ったのだ。流川は桜木を見てくれる。桜木を待っていてくれる。それは、ただの思い込みだったのだろうか。
 くず折れそうになる心を、左手で右手首をつかみながら、桜木は必死で耐えた。
 何を落ち込むことがある? 流川はそういうヤツじゃないか。
「あれ。皆もう帰ったの?」
 顔を上げると下田がいた。後ろめたいことがあるわけではないのだけれど、何故か両手を後ろ手に隠しながら、桜木はこくりと頷く。
「何か知らねぇけど、アヤコさんが急に帰るって言い出して」
 普通に歩く姿を訝ることなく見ていると、ベッドに腰を下ろしながら下田がふっと笑う。
「元気ないね」
「え」
「一番会いたい人に会えなかったんだ。お守りのライバルに」
 微かに笑っているその顔を、むっとしながら見返した。悪気はないのはわかっているが、面白くないのも確かだ。
「……シロくんの嫌いなところは、人を見透かすところだ。知られたくないことを言い当てられたら、怒るしかねぇじゃねぇか」
「そして更に認めまいと、頑なになるんだよね」
 先手を取られて呆気にとられる。二の句が告げられなくなるとはこのことだ。
 思考も動作も止まった矢先、下田の両目が細められる。慈しみを隠すように。
「君によく似ていたよ」
 自嘲によく似た感覚で、下田はぽつりとそう言った。桜木は慎重にならざるを得なかった。渇く喉は秘密に触れようとしているかのようだ。
「……誰が?」
「俺の親友」
 下田は天井に向かってひとつ息をはき出した。覚悟を決めるように。そうしてニッと桜木に向き直る。
「昔話でもしようか。俺の昔話」
 聞きたいというよりも、言いたいのだろうとわかって頷く。ありがとうとでも言いたげに、下田はもう一度笑った。
「中学の頃の話だけどね、俺には大切な人がいたんだ。親兄弟とは別に。あの頃って恋愛も友情も似たような感覚で、自分じゃ違いがよくわからなかったけれど、でも当時付き合っていた彼女より、そいつの方が大事だった。
 ずっと一緒にいるもんだとばかり思っていたよ。あいつもそのつもりだと思っていた。でも、俺だけだったんだな、同じ高校にいってバレーを続けようと思っていたのは。あいつは、俺から離れたがってた。俺を追い抜くことだけを考えていた。
 俺にとってあいつは仲間だったけど、あいつにとって俺はライバルだったんだ。それに気付いたとき、ショックじゃなかったと言ったら嘘になる。でも俺は、親友の立場を通したよ。
 色々あって、あいつとはもう会えないくらい俺は遠くに来ちゃったけど、あいつもよく怒っていたな。俺がからかうたび」
 桜木は眉をひそめる。
「何が言いたいんだ?」
「何が言いたいんだろう?」
 下田は笑った。
「ああ、思い出した。君はどうやらお守りをライバルだと思っているようだけど、俺は違うんじゃないかなって気がするんだ」
「あ?」
「ライバルは、離れていても大丈夫だ」
「親友だって、離れていても大丈夫だろ?」
「一緒にいたいという感情は、特別だってことだよ」
「よくわからん」
「うん。でもそういうことなんだ」
 桜木は小首を傾げて考えてみた。右にも傾げてみた。しまいには上まで見ながら考えたけど、流川に対してそんなことを感じた記憶は見当たらなかった。
「一緒にいたいなんて思ったことねぇぞ」
 結論は下田の引き結んだ笑みに却下されたかのようで、やはりむっとするのだった。

続く

きまぐれにはなるはな