あの熱くて静かな夏の日から[2]
第二章
八月五日――広島、夜。
昨日、愛和学院に大敗した湘北高校だったが、インターハイが終わるまでは、こちらに残る手筈になっている。
見るのも勉強という安西監督の考えもあってのこと。トレーニングも怠ることはなかったが、それだけでは物足りない連中ももちろんいる。
この辺でバスケットリングはないかと流川楓は聞いた。仲居さんは「ありますよ」と言って、親切に場所を教えてくれた後、呆れたように笑った。
「みなさん本当にバスケットがお好きなんですね。先にお帰りになった、あの髪の赤いお方も、朝早くからそこで練習なさってたみたいですよ」
流川は驚く。まさかと疑った。あのどあほうが――そして、過去の記憶を思い出して、事実なのだろうと納得する。
以前公園でレイアップシュートの練習をしている姿を見た。
試合に遅れてきた時も、確か早朝から練習していて、ちょっと休憩のつもりが寝入ってしまったとか言っていた。
負けたくないという思いと同時に、何故か笑いが込み上げてくる。
――あれでいて、自分と同じくらいバスケ馬鹿なのかもしれない。
ロビーに佇みながら微かに苦笑を刷いていると、安西の姿が目の端に映った。流川は顔を向ける。
「流川くん、ちょっといいですか」
何だろうと思いながら、流川は頷いた。
日本一の高校生になれ、約一ヶ月前、安西はそう流川に言った。アメリカに行くのはそれからでも遅くはないと。
あの時、アメリカに行かなくて良かったと思う。反対されなければきっと、さっさと飛行機に飛び乗っていた。この右手も、こんなに脈打つことがあるなどと知らないままに。
高ぶってはいけない。日本にもまだ知らないことがたくさんある。まだ何も極めていないのに、今アメリカに行けば潰されるだけだ。
そうされない自信はあったが、流川はやってみようかと思った。安西の言う、日本一の高校生とやらになってやろうと。誰にも負けたくはなかったからだ。誰にも。
けれど……今はまた別の願いも覚えてしまった。
「全日本ジュニア……すか」
安西の口から出たその言葉を、流川は反芻する。世界への足掛かりが目の前にきた喜びよりも、安西がその話を持ち出した驚きの方が大きい。
しかし、なるほど、これで流川が今どれだけの実力を持っているか、わかろうというものか。
「九日から丸五日間、選考を兼ねた合宿です。参加しますか」
当然とばかりに流川は頷く。安西はにっこりと笑った。
「場所は福島です。急な話なので、ご家族に連絡をしておいた方がいいでしょう。神奈川に帰ってまたすぐ出なければいけませんから」
「うす」
ひとつ先へいく不安はなかった。上があるなら目指すだけだ。あいつも――追い付いてこれるだろう。何故かそれは確信があった。
こんな気持ちは初めてだ。
今まで何人ものプレイヤーを見てきた。素直に尊敬する選手もいたし、追い抜いてやると思った選手もいた。けれど、一緒にプレイをしたいと思った選手は一人もいなかった。追い付かれるかもしれないと、自分を脅かす者に会うなんて考えもしなかった。
あのどあほうを信じる自分がいるなどとは、本当に思いもしなかった。
不思議と戸惑いはなかった――あいつをコートに引き戻したことに後悔はない。あれは流川の欲望であると同時に、桜木の欲望でもあったはずだ。そのことに疑いはない。
桜木――流川は呼び掛ける、心の中で。すると桜木は、あの流川には真似の出来ない眩しい笑顔を返すのだ。大丈夫だから、と言って。そうして、気付いていない漠然とした不安を払拭する。暗く開いた胸の穴など、あることも知らずに。
七日の夜、神奈川に着き、翌八日、流川は午後から新しく始まる部活には顔を出さずに福島へ発った。九日の朝から十三日の夜まで、合宿のスケジュールはびっちり詰まっている。
いや、詰めているのだ。何も考えなくていいように。
静かな体育館。流川は滴り落ちる汗を、リストバンドでしきりに拭う。顎を、腕を、伝う汗。煌々と、影さえも消すような勢いで点るライト。体温を奪うことを忘れた夜気。耳の奥でざわめく血が流れる音は、自分の息遣いと弾むボールの高い音にかき消されていた。合宿四日目の夜。
無意識に、必死で隠していた胸の穴に、途切れた緊張を狙いすまして、すとんと言葉が落ちてくる。追いやっていた意識の主が姿を現す。
流川はかぶりを振った。再びそれを追い払うように。姿はすぐに闇に消えたが、心の中に意識は残った。
「どあほう」
転がすように、ただつぶやいてみる。大丈夫だと笑っていた顔を思い出したいのに、その映像は行方不明だ。脳裏に見えるのは背中ばかり。
静かだと思うのは、桜木がいないからだろうか。
夜だけじゃない、昼間の喧騒の中でもそう思ってしまう。今までバスケをしていて、そんな感覚にとらわれたことはなかったのに。
――大丈夫なのか? 桜木は。
容赦なく落ちてくる言葉は、合宿に来てからかけられたものだ。流川は目を瞑った。
大丈夫だと返したのに、誰もそれでは納得しなかった。意識を失うほどの痛みだったんだ、大丈夫な訳ないだろう。怪我をしたのにあれだけ動き回って、さらに傷めているに違いない。選手生命までかけてたって言うじゃないか、本当にバスケに戻ってこられるのか――。
どこの誰だかわからないような奴まで、桜木の心配をしていた。それはいい。あいつの人柄を考えれば納得も出来ようというものだ。でもその不安を、こちらにまで押し付けるのはやめて欲しい。気持ちが、揺らいでしまう。
桜木は大丈夫――それを否定されただけで、こんなにも上手くいかない。バスケにちゃんと集中できない。一方ではそんな自分を認められない流川もいる。
でも、もう逃げられないのだ。意識の大半を占めている流川は、桜木を求めて止まないのだ。ずっと一緒にバスケをしていくんだと、かたく信じて疑わない。
そう、疑わないはずなのだ。なのに、不安が押し寄せてくる。
窓際に転がっていったボールを拾おうとして、流川はそのまま腰を下ろした。顔を伏せて指先でボールを撫でていると、重く扉の開く音がする。海南大付属高校の牧だった。
「そんな所で寝るなよ、流川」
顔を上げた反動のように、流川は軽く会釈する。
まだ牧でよかった。桜木は大丈夫かと、しつこく聞かれなくて済む。連絡は取らないのか、何故連絡先も知らないんだと、うるさい奴も中にはいる。
そういう時、オレに聞くなとか自分で連絡を取れというよりも、てめーには関係ねーと怒りが込み上げてくる。うっとうしい、その一言ですむ胸の内ではないことを、流川は薄々自覚している。
「明日で合宿も終わりだな」
牧は隣に腰を下ろした。桜木にジィと呼ばれているこの男は、浅黒く精悍な顔立ちの、頼りになる人物である。程よく気配りも出来る面倒見のいい性格は、けれども決して甘えを許さない厳しさも兼ね備えていて、どこか赤木に似ていた。
「桜木は大丈夫だと、さっき仙道から連絡があった」
不意に出た意中の名前に、流川はばっと牧を見る。複雑な心境だ。ほっと胸を撫で下ろしながら、眼光が鋭くなる。何故そこに、仙道が出てくるのだ。
「そう睨むな。見舞いに行くぐらい構わんだろう」
立てた膝に肘をついて、こめかみで頭を支えながら牧は苦笑した。目は口ほどにものを言うと聞くが、どうやら流川はそれが顕著らしい。
牧は見舞いに行くぐらいと言ったが、ぐらいでは済まされないのだ。
大体、初めから気に食わなかった。倒すべき相手なのはわかっていたが、桜木にやたらちょっかいはかけるし、あのどあほうも「センドーはオレが倒す!」なんてほざきやがるし。
『君はまだ仙道くんに及ばない』
『おめーには負ける気がしねえ』
『流川くんの目から見て桜木くんはどう?』
あの日、安西に渡米を反対されたあの日から、流川の中で何かが変わった。一つ一つに答えが出たような気がする。その上で、何よりも「日本一の高校生」を目指そうと決めたのに。
静かだ。桜木がいないというだけで。
「赤木は引退したそうだな」
流川はこくりと頷く。
「仙道もおかしな奴だ。見舞いが一番乗りじゃなかったと悔しがっていた」
桜木が入院して一週間が経っている。何人かすでに訪ねていたとしても、おかしくはないだろう。水戸とか……主将の妹、とか。
今一瞬、流川は何だか仙道の気持ちがわかったような気がした。順番で思いの強さを決められるわけではないのに、何故かそれにこだわってしまう。自分が一番、相手のことを想っているのに、と。
ただの見舞いに悔しさが付いてくるのは、ただの見舞いではないからだ。
「三年の引退と、インターハイでの結果が少し応えているらしい。元気がなかったと心配していた。合宿が終わったら、発破かけに行ってやれ」
不調という言葉が、今の流川のプレイには当てはまらないことを、合宿参加者は全員わかっている。けれど、メンタルな部分ではどうかと言えば、まさに不調なのだろう。そのことに気付けるのは、ほんの極一部の人間だけだ。
「何でオレが……」
口をついて出る投げ遣りな言葉は癖に近い。まだ残る葛藤の片一方が、丸め込まれる直前に吐いた抵抗だ。
「あいつのことだからな、おまえの顔を見ればすぐさま対抗心を燃やすだろ」
仙道にも出来なかったことだ、言外は流川には届かなかったが、もとより会いたいのは自分のほうだった。桜木がそこにいるということを確かめたかった。あの騒々しい数ヶ月は幻なんかじゃないと。これで口実が出来たわけだ。
「素直にならないと損をするぞ、流川」
素知らぬ顔でたしなめる牧を、流川はむっと見返す。
「桜木の話、まだあるが、聞くか?」
からかうでもなく真顔の牧は、これでいて案外腹を括らないと付き合いにくい相手なのかもしれない。すべてが自分に返ってくる。
むっとしたまま、流川はしばらく思案に暮れたが、一度だけ首を縦に振った。
合宿最終日は丸一日、チーム分けをして試合をした。午前と午後で編成を変えての総当たり戦だった。もちろん、流川が目を瞠る様なプレイをしたのは言うまでもない。本領発揮といったところか。事情を知っている牧だけが、やれやれと苦笑をもらしていた。
海へ散歩に行き始めたと聞いた。昼食を終えて、リハビリの時間までの少しの間。見舞いと称して堂々と病院に行くにはまだ照れとためらいがあるので、偶然を装おうと思った。浜辺でランニングでもしていれば、怪しまれずに済むだろうと。
幸い湘北の明日の練習は午前中だと、彩子が電話で言っていた。朝にこちらを発つので参加できないと告げながら、それを思いついたのだ。
海で桜木は何をしているのだろう。夏とはいえ、禁泳区域では人影もそうないだろう。そんな寂しい海で、一体何をしているのだろう。プライベートビーチ気分でも味わっているのだろうか。
不安になる気持ちを寸でのところで紛らわす。
大丈夫だと、言い続けていたのは、何よりも自分自身にだった。流川が一番、心配だったのだ。桜木がいなくて、いなくなって、どうしていいのかわからなかった。あるのが当たり前になっていた桜木の気配。それが不意になくなったのだ。声も、熱も、視線も。
大丈夫なのかと問いたくても問えず、自らの希望を信じるしかなかった。信念というのは時に、自己暗示に等しいものだ。
桜木はきっと、流川の姿を見つけたら、また訳もなく食って掛かってくるだろう。あの大きな口を開きながら、ありったけの声でもって「ルカワ」と呼ぶのだ、きっと。
きっと――
8月14日土曜日。朝、逸る気持ちを抑えつつ、流川は福島を発った。家に着いたのは午後一時近かった。荷物を置くのも早々に海へ行くという息子に、母は呆れ返っていた。
この時間なら確実に海にいる。車輪を限界まで転がして三十分の道程を、流川はサドルに跨り行く。住宅街を抜け車道を縫い、駅前の街を突っ切って線路の向こうの閑静な、一本入ればうら寂しい住宅街を、海へ向かって駆け下りる。風圧が流川の額を露にして、まるで頭を冷やせとでも言っているかのようだ。
潮風が鼻をつく。知っている匂いに安心する。突き当たった国道を左に曲がり、海岸沿いをひた走る。道の向こうのデニーズをいくらか追い越したところで、流川は自転車のスピードをゆるめた。浜辺に見えるひとつの影に、ブレーキをかける。息を整えながら見ていると、やがてそれは腰を下ろした。微かに輝る赤い髪に、流川は自転車を降りる。息はなかなか整わなかった。
桜木がいる。
ほっとした。奇妙な気持ちだった。今すぐここを駆け下りて、駆け寄って、思い切り抱き締めたい衝動に襲われた。顔を見たかった。声を聞きたかった。その欲望を、ぐっと抑える。
流川はゆっくりとランニングを始めた。砂地に沈んでいく足を蹴り上げながら、目はずっと桜木に当てて――桜木は何かをじっと見ていた。
じっと見ている。どうやら手紙らしい。だらしなく顔をゆるめながら、一体誰からの手紙を読んでいるのだろう。流川はムッとする。
ようやく距離が縮まってきて、流川はふいと視線をそらした。桜木は気付くだろうか。その手紙から顔を上げて、こちらを見て、名前を呼べ。素知らぬ振りをして強く念じる。
食って掛かってくるのが当たり前だと思っていた。無謀にも流川に挑んでくるのが桜木だと思っていた。後を追ってくるのをやめるはずがないと思っていた。――オレだけを見ていると、思っていた。
桜木は顔を上げた。視線を感じた。さぁ、次は名前を呼べ。でないと、このまま通り過ぎてしまう。
「ぜ……全日本……!!」
流川はムッとする。やっと届くような声で、しかもそれは予想もしなかった言葉で。
『元気がなかった。発破かけてやれ。おまえの顔を見れば――』
立ち止まり、流川はバッとジャージの前を開いて見せた。全日本ジュニアの練習着を見て、桜木はようやくその口を望み通りに形作る。
「おのれルカワ!!」
背中でそれを受け取って、込み上げる微笑を見られまいと、そのまま立ち去ろうとしたが、空からひとつ音が降ってきて、つられるように顔を上げた。
飛行機が飛んでいる。
――でも今はそれだけだった。それが一体どこを目指しているのか、考えないでもわかる。だから、それには目もくれない。大切なのは「今」だから。
桜木。振り返りたい気持ちを見栄で抑えた。振り返って、意外だという顔をされるのが気恥ずかしかった。流川は空から目を戻す。
ついてくるんだろ……?
聞きたい言葉は口に出せず、流川は砂を蹴り続ける。弾むそれは後ろ髪を引かれる様になびく。
子供みたいに元気で無邪気で、素直で感情の起伏が激しくて。流川を倒すことだけを考えて、アメリカまで追っていくと桜木は言った。
まるで宝物のようだと、流川は目を閉じる。そうして耳を澄ます。自分の背後から、もうひとつ別の足音が追ってくると信じながら。
続く
⇒きまぐれにはなるはな