あの熱くて静かな夏の日から[10]
第七章
病院を出ると自転車が一台。その脇に、幾分高めのブロックに腰掛けて、学ラン姿の流川が待っていた。自動ドアが開く音に合わせてこちらを向いた視線に、桜木は眉をひそめる。
「何してんだよ、んなとこで」
流川は腰を上げながら、ズボンの後ろを軽くはたいた。
「てめー待ってたに決まってる」
当たり前に返った答えに、桜木はますます口を尖らせる。
「くんなっつっただろ」
むすっと言い返すと、ちらりと流川は流し目をよこした。
「嬉しいくせに」
言い当てられた本心に、桜木はかぁっと顔を赤らめる。デリカシーのないヤツだと声にならない反論をし、ぎろりと流川をねめつける。
ここはひとつ、自分が大人にならなければ。
嬉しいことは確かだし、いちいち突っかかってもいられない。
てめーの方が会いたかったんじゃねぇの、と問い返したい気もしたが、桜木と同じような反応を返すか、「どあほう」の一言で片付けられるか、いずれにしても結果は見えていた。
「休む気かよ、学校」
「あとで行く」
さらりと口にした流川を、半ば驚いて桜木は見る。つまり流川は折り合いを付けたのだ。桜木の言葉と、自分の心に。
「荷物、そんだけ?」
「あ、おう」
当然のように差し出された手に、反射的に荷物を渡す。流川はそれをカゴにのせるとスタンドを倒した。
「後ろ乗るか」
桜木は破顔する。まさかこんなに優しくされると思わなかった。
葉陰から洩れる朝の光に目を細める。季節は残暑と秋の境目だ。この時間、とても気持ちがいいだろう。それを満喫しない手はない。
ひとつ深呼吸をして、香る空気の味をみる。
「……いや、歩いて行こうぜ」
そうして二人は海沿いの国道に出た。
手ぶらの桜木と、荷物をのせた自転車を引く流川。
流川は、桜木よりも幾分低い、落ち着いた声を発する。
「てめーはどうすんの、学校。明日からくんのか」
聞き様によっては不機嫌な、無愛想なそれだけれど、今ではもう慣れてしまった。
「んー、あした土曜日だろ? 一日行ってまた休みってのも面倒だしなぁ。家の掃除もしてぇし、来週からにする」
「部活も?」
いかにも一番聞きたかったのはそれだと言わんばかりで、桜木は照れたように苦笑した。流川には、自嘲したようにしか見えなかったけれど。
「日曜に、ちょろっと顔出すかも」
そう言う横顔をじっと見つめる。……何と言ったらいいのだろう。
桜木はきれいだ。きれいだと思う。流川もよくそう言われるけれど、きっと違う。別の美しさだ。
愛でるよりも、拝みたくなるような美しさ。
サル相手に何考えてんだ、と思うけれど。
流川は、桜木を見ているのが好きだ。声を聞いているのが好きだ。だから、ついつい無口になる。もっとも、普段より口数は多いけれども。
だって、知りたいことがいっぱいあるし、言いたいこともいっぱいある。それは口に出して問わなければ存在すらしないもので、必要な行為なのだ。
音を持つ、その一つ一つに意味がある。これまでぞんざいに扱ってきた言葉を、流川は初めて大切に思う。
流川の視線に気づいて、桜木はそちらを見た。目が合っても少しも動揺しない相手に、何となく微笑を返す。数日前、流川を初めて抱きしめたときのことを思い出した。
背中にがしっと腕を回され、桜木は驚いたけれども、肩口に沈められた黒髪がまるで縋り付いているように思えて、それを優しくなだめすかした。
抱きしめられる心地よさは、何とも言えないものだ。
相手の体温に包まれる。それがとても離れがたい。匂いにも包まれる。新たな発見だ。
好きだぞ、ルカワ、ともう一度言った。
もう二度と、流川が不安を抱かないように、何度だって言ってやる。疑わないように、何度でも。
抱きしめられて、抱きしめて、桜木はとても幸せだった。そして、また今も。
流川とこうして歩いていることが、夢でも見ているような気分だ。
「三井先輩が言ってた」
「何を」
「てめーの寝顔のこと」
アパートに着いて、二ヶ月振りの我が家にくつろぐ間もなく、窓をさらい開ける桜木に、その背中を見ながら流川は、ほんの少し不満げに言った。
奇妙に眉をひそめて、桜木は振り返る。
「オレの寝顔? ミッチーが? 何て」
流川は玄関の壁にもたれながら、腕を組んでいた。
「詐欺」
「あぁ!?」
「宮城先輩……主将は、恐ろしく可愛いっつってたし、赤木先輩はまるでガキだっつってたらしいし、安田先輩はあどけないっつってた」
「何だそれ。いつの間に見たんだよ」
可愛いとかあどけないとか言われて、男が喜ぶわけがない。腰に手を当て仁王立ちをする。
「赤点の補習、赤木先輩んちでしたときらしい。あと、インハイんとき」
「……あぁ」
合点がいって、桜木は口を尖らせる。怒気はそがれても面白くはない。
桜木はそのまま隣の部屋の窓を開けに行った。面白くないのは流川も同じである。
「オレはねー」
そう言うと、「あ?」と声が飛んできた。よく聞こえなかったらしい。
「オレは見たことねー」
憤然と不満を吐く。しばらくしてから、思案顔の桜木が窺うように顔だけ出した。
「見てぇのか?」
少し考えて、流川はふいと視線を逸らす。
見たいというよりも、悔しかったのだ。
桜木は、照れたのか呆れたのか、苦笑する。
「おめー、そこにぼーっと突っ立ってるつもりなら、ちょっと手伝え」
「何を」
「布団干すんだよ」
そう言って渡されたのは、かたく絞った濡れ雑巾。これで、窓の外にある転落防止のためなのか何なのかよくわからない、ちょっとした柵を拭くのだそうだ。
めんどくせー、と言おうとしたが、桜木はさっさと隣の部屋に行ってしまった。いそいそと拭き始める姿を見て、観念したのかため息をつく。
終わりかけに「出来たか?」と言って、桜木が布団を持ってきた。そうしてそこに布団を干す。見れば、隣の部屋ではすでに敷布団が干されていた。
「おめーんちって、やっぱ庭とかあんのか」
干しながら桜木が言う。
「あぁ」
あるけど、それがどうかしたのかという感じで、流川は答えた。
「そっか。いいよな」
満足したのか、振り返った桜木は笑っていた。サンキュと言って流川の手から雑巾を受け取ると、流し場でそれを洗う。
手持ち無沙汰に部屋を見回すと、おもむろに桜木が話し始めた。
「オレさ、夢なんだよ。布団が干せる家」
流川は桜木の背中に視線を移す。
「ここだと一組しか干せないだろ。ベランダもねぇし、屋根もねぇし、庭なんてもちろんねぇ。いつか引っ越すなら、今度はぜってぇ布団が干せるとこにする」
背中がぎゅっと雑巾を絞る形を作る。まるで鳩尾をえぐられるように、流川はそれを感じる。
桜木が語る夢の話。まだ先の話。それに流川は嫉妬する。不安を覚える。
その時、自分はどこにいるのだろう。その未来の中に、流川の存在はあるのだろうか。
目が据わる。桜木の背中を見つめながら。それがくるりと翻った。
「何なら、庭にリングのある家にすっか? そしたら毎日てめーと勝負できるよな」
笑顔の桜木と目が合った。ちょっとはにかんでいたそれが、流川を見たとたん消えていく。
「んだよ」
桜木の目には流川が怒っているように見えたようだが、それは違う。流川は驚いていた、その台詞と、向けられた笑顔に。ただ反応がとても鈍い所為で、面に表れる時間がなかっただけだ。
流川がようやく驚きを理解したとき、桜木は怒ってそっぽを向いていた。流川には、何故桜木が怒っているのかわからない。しばらく二人はそのまま動きを止めていた。
じっと見ていると、ちらりと桜木が流川を見た。流川はほっと息をした。桜木は顔を伏せると、ぼりぼりと首の後ろを掻いた。
「負けねぇからな、バスケ」
その時の、流川の顔を見ていたら、きっと桜木は卒倒したに違いない。それくらい穏やかに、流川は微笑んでいた。
「どあほう」
ちいさくつぶやく。同時に、玄関へ向かった。顔を上げた桜木が、じっと流川の動向を追っている。
夏の間中、閉めきられていた部屋の中。窓は開けたが、噎せ返るような熱気はまだ残っているのだろうか。
アツイ。
今日は金曜日。明日は土曜日。日曜日に、桜木は部活をちょろっと覗くかもと言った。学校にくるのは来週から。
「道、わかんのか」
そんなもの、何とかなる。かけられた言葉を無視するような形で、流川は言葉をつむいだ。
「あとで……」
「あ?」
「また来る」
それだけ言って、流川は玄関を出た。
桜木は、呆然と立ち尽くす。
また来る。
……あとで?
かぁっと、耳まで桜木は朱に染まる。
「ルっ、ルカ……」
慌てて追いかけようとして、ドアノブに手をかける寸前にしゃがみこんだ。期待と羞恥がためらいとなって襲ってきた。
あとで……あとでまた来るって……今夜かよっ!!
何考えてんだ、あいつっ。わかってんのか、あいつっ!
それって……それって……。
そして、はっと思い至った。あれは、ただ単に、「オレの寝顔を拝みに来る」ということなのかもしれない、と。
「は……はは……」
乾いた笑いに顔が引きつる。何考えてんだ、オレ。
男だぞ、男。ルカワもオレも男!!
ごんごんごんと頭突きをかますと、壁にもたれて息をつく。
そうだよ。オレもルカワも男だってのに、どうするって言うんだよ。
『右手と友達になってねーのか』
入院中に言われた一言を思い出した。桜木は眉を顰める。
「なるわけねぇだろ……バカヤロウ」
風通しが悪いのか、窓から熱は、逃げない。
キスをしたいと、何度思ったか知れない。流川が毎日来てくれていたあの頃、必ず喧嘩別れしていたあの頃。夜の帳の中で、何度その残像を見たことか。
何も語らない唇が、桜木を逆撫でるように言葉を吐くとき、その存在を示すように動くそれに、何度触れたいと思ったか。
その先にあるものを、桜木は知っている。子供のようにウブなヤツだと皆に言われているけれど、知識が全くないわけではない。だから、考えないようにしてきた。でも、やっぱり駄目だった。
夜になると、必ず思い出す。まるで別の生き物にでもなったかのように、存在すら忘れている欲望が目を覚ます。流川を求めて止まなくなる。
いつか自分は、この欲望を止められなくなるだろう。漠然と、そう思ってきた。それはもう近いのかもしれない。あるいは、永遠に来ないのかもしれない。
夢を見る。何度も何度も、夢を見る。目を閉じている、白い、滑らかな流川の肌を、顔の輪郭を縁取るように、微かに触れながら、ゆっくりと辿っていく。その間流川は黙ったままで、おとなしく、されるがままになっていて、桜木はそっと、そのただ閉じられている唇に、親指をなぞらせることしか出来ない。
欲望はある。理性がそれにストップをかける。抵抗しない流川は嘘だと思う。反応を返さない流川は嫌だと思う。夢はいつもそこで終わる。
流川が来たのは、八時近くだった。
「本当に来たのかよ……」
こぼれた言葉に流川はむっとしてみせた。ねめつけてくる目に、桜木は諦めのため息をついた。
「メシは? 一応、作っといたけど」
一瞬、きょとんと流川の目の色が変わる。おもしろいなぁと桜木は思う。
顔は微塵も動かないのに、目だけは本当に雄弁だ。
「食う」
体を退けて玄関をあけて、桜木は流川を招き入れる。
たったの二度目、しかも腰を落ち着けるのはこれが初めてであるにもかかわらず、流川は当たり前のように卓袱台の席に着いた。
おかしなもので、一人のときはあれだけ意識していたはずなのに、本人を目の前にして、桜木は今、邪なことをすっかり忘れていた。
初めて二人で食事をする。流川は何も言わずに食べていた。うまいともまずいとも言わない。ちゃんと味わっているのか、そもそも、味覚があるのかどうかも謎だ。
寝顔を見に来たのだとばかり思っているので、風呂の用意もしたし、布団だって流川の分を敷く。
「おめー、オレが寝るまで起きていられんのかよ」
「なんで」
「でねぇと、オレの寝顔見れねぇだろ」
「……あぁ」
まるで初めて思い至ったような返答に、桜木は脱力した。確かに、他に手がないわけではない。夜中にふと目が覚めることもあるだろうし、桜木より早く起きればすむことだ。しかし、いずれも流川には無理なような気がする。
「とにかく、てめー先に風呂入れ」
その間、桜木は茶碗洗いだ。言われるままに流川は腰を上げた。
着替えは持ってきたと言う流川に、わざわざ家まで取りに帰ったのかと思う。そんなにまでして寝顔を見たいのだろうか。流川は時々わからない行動をする。
流川が上がるまでテレビを見て、入れ違いに風呂に入って。出てきたときには、すでに黒髪が布団の中で丸まっていた。
やっぱりな、と苦笑した。
まだ眠くはなかったので、一人でしばらくテレビを見る。
夜、というのは、不思議な時間帯だと思う。妙に頭の中が冴えてくる。今となってはそれほど嫌いな時間ではないけれども――静けさが、心の声を大きくする。
――ルカワ。
ルカワ、ルカワ、ルカワ。
頭の中を、黒い、巨大な渦が巻く。それは思考を全く無にし、時には心臓を鷲掴みにする。目は閉じないほうが懸命だ。欲望が暴走するから。
全く意識に入ってこなくなったテレビを消して、桜木は妄想を見ないようにと、かぶりを振った。襖を一枚隔てた、布団のところまで歩いていく。流川が寝息を立てている。
敷居を跨いだところで、ふと、部屋の空気が変わった。
いとおしさというのは、どこからやってくるのだろう。
流川の足元に立ち尽くして、桜木は布団にもぐっているその形を見る。
外灯がカーテンから微かに漏れている。
昼間の熱は夜に溶けて、代わりに優しい冷たさが充満していた。薄い群青が世界を彩っている。
流川が背を向けているもう一つの布団に、音を立てないように桜木はもぐりこんだ。上体を起こした体勢で、ふと覗き込めば、目を閉じた白い面。規則正しく上下する肩に、桜木はそっと腕を伸ばす。黒髪を優しく撫でる。滑るように流れていく、まだ乾き切っていないそれ。
微笑むしかなかった。
『一緒だぞ。てめーの好きとオレの好きは、一緒だぞ』
きっと違うだろうと今なら思う。流川はきっと、思いもしないだろう。肉欲というものが、存在するということすら。だってこいつは、バスケ馬鹿だから。
一頻り頭を撫でて、桜木は今度こそ本当に布団に潜り込んだ。いとおしむ心が存在していてよかったと思う。夜気が冷静でよかったと思う。でなければ、このまま眠りにおちることなど、きっと出来なかっただろうから。
真夏のように荒れ狂う熱を、持て余しただろうから。
かちゃかちゃと微かに聞こえてくる音に、流川はうっすら目を開けた。光の入って来方がいつもと違う。
ぼんやりする頭でそれだけ認識して、違和感にめずらしく覚醒した。ベッドの上でもなく、洋間でもない。身体を起こしてポリポリと、はっきりしない頭を掻く。
もう一組の布団の存在に気付くのと、桜木の鼻歌が耳に届いたのは、ほとんど同時だった。
そうか、あいつんちに泊まったんだっけ、と納得して立ち上がる。襖を開けたら、朝食の匂いが充満していた。
「……オス」
「あ、おはよーさん」
自然に絶品の笑顔で返される朝のあいさつ。もしかしたら、これが初めてかもしれない。桜木とこんなふうに「おはよう」を言い合うのは。
「よく眠れたか」
「おー……」
「だろうな。何のために泊まったんだか」
嫌味なのか、からかいなのか、呆れなのか。流川にはよく分からない。
そもそも泊まった理由は単純に、泊まりたかったからだ。目的は果たされている。……一応。
けれども、どうやら「寝顔を見るために」泊まったと思っているらしい桜木に、流川はあえて反論しなかった。おかげでまた口実ができる。
「顔洗ってこいよ。メシ、もうすぐ出来っから」
「おー」
珍しいこともあるもんだ、と流川は思った。この自分が、誰に起こされることもなく、ちゃんと目を覚ますなんて。
朝の水は冷たくて、弥が上にも意識が冴えた。濡れた顔をそのままに、流川はじっと鏡を見つめる。
「ルカワー、メシー」
桜木の声に、シンクに両手をついた状態で、ため息をついた。おぅ、と小さく返しながら、滴る水を拭き取った。
部屋の中、朝日が斜めに差している。
桜木はすでに腰を下ろし、流川を待っていた。
「おめー、何その頭。すげぇボサボサ」
「るせー」
「昨日、髪乾かさねぇで寝ちまうからだぞ、それ」
髪を乾かさないのは、いつものことだ。全く気にもせず、流川は「いただきます」と箸を取った。
昨夜も思ったが、桜木の作る料理は、結構いける。想像もしなかった器用さとその行動。どうやら一人暮らしらしいこの家の、意外な程のおとなしさ。初めてここを訪れたとき、思わず水戸に確かめたくらいだ。
知らなかった桜木が、次々と顔を見せる。出会ってようやく半年だ。
自分はどこまで、この男に引き摺られるのだろう。ぼんやりと、そんなことを思った。
「てめー、今日、何すんだ」
「今日? 予定か?」
「そー」
「まぁ、色々だな。学校に連絡したり、墓の様子見に行ったり」
「……ふーん」
「急げよ、ルカワ。こっからだとそろそろ出ねぇと、遅刻すっぞ」
そうだった。家にいるときと同じ感覚でいたことに気付いて、少し箸のスピードを上げる。別に遅刻したって構わないのだが、桜木のことだ、自分のことは棚に上げて口うるさく言うのだろう。
母親みてーだと思って、昨日返したあのウサギを思い出した。桜木が風呂に入っている間に見つけた、タンスの上のふたつの位牌。
あの時、自分にも後ろめたさというものがあったのかと思うくらい、布団に潜り込むしかなかった。
続く
⇒きまぐれにはなるはな