あの熱くて静かな夏の日から[1]
第一章
いつ死んでも悔いが残らないように。そう思って生きてきた。
幼い頃の母親の時も、中学二年の父親の時も、いつもそれは唐突にやってきた。
あっけないほどに、自分から彼らを連れ去っていった「死」は、桜木に生きることの大切さを教えていった。「今」を精一杯、誠実に生きることを。
『選手生命にかかわるわよ』
彩子に言われた一言がなくても、桜木は同じ事をしたに違いない。
『出るなら出ろ』
言われなくても、腹の中ではとうに決まっていた。あのままだったら、きっと後悔していたに違いない。
背中の痛みよりも、会場の熱気よりも、自分の内から突き出る熱が狂おしかった。まるでコートに立っていないと、それこそ死んでしまいそうな、押さえられない衝動は一体何を求めていたのか。勝つことだろうか。それとも、もっと別のものだろうか。
ちょうど一週間前。チームメイトの思いと願いを込められた右手。それと。
あの時、コートに戻らなかったら、この掌の熱を知る事など出来なかった。
昼間の静かな病室は、風と、遠くの喧騒に満ちている。公園に隣接するこの病棟は、窓を開けていれば八月とは思えない気持ちよさの風が通り抜ける。
四人部屋のうち、使われているベッドは二つ。一つは桜木花道で、もうひとつは下田という男が腰掛けていた。実業団バレーの選手で、膝を痛めて入院しているらしい。桜木の十ばかり年上で、メガネはかけていなかったが、雰囲気はどことなく小暮に似ていた。しかし柔らかいのは物腰だけで、物言いは結構はっきりしていたりする。
「その右手、何かあるのかい?」
昼食後の一休憩をしていると、下田がそう声をかけてきた。
八月三日――一週間前のあの日。
「花道、帰るのか」
医務室での診察の結果、入院をすすめられた桜木は、一足先にちどり荘へ戻っていた。
先程の山王戦、ルーズボールを追って負傷した背中は、少し動いただけでぴきっと痛みが走る。荷物を水戸に持ってもらって、野間や大楠、高宮達と宿を出ようとしていた時、玄関で戻ってきた皆と出くわした。
大丈夫だ、そう大したことはない。そう思っていたのは桜木だけではなかったようで、宮城の驚いた声に心配そうな顔が揃う。まさか先に一人、神奈川に帰るほどとは。その心配を弾き飛ばすように、桜木は無邪気に笑った。
「おうっ、ちょっくら入院してくらぁ!」
まるで子供のように、大きな口から歯列をのぞかせる。幾分場の緊張が解け、桜木を取り囲んでいた輪が小さくなった。
「おいおい、大丈夫かよ」
「あんま無理すんじゃねーぞ」
「医者の言うことはちゃんと聞くんだぞ」
口々に飛んでくる言葉に「わーってるよ」とまとめて返しながら、桜木は一人輪から外れ、横目でちらりとこちらを見ている流川に気付いた。
なんともなかった右の掌が、思い出したように熱を持つ。山王から勝利をもぎ取った時の、止められなかったハイタッチ。あの時、桜木の視界にはただ一人、流川しかいなかった。
今思い返してみれば、勝った喜びよりも不思議さの方が強く残る。試合終了のあの間際に、流川が自分にパスをよこすとは。
目が合って、桜木は自然ににっと笑う。口の両端を微かに引き上げて、人を安心させるように。
「じゃぁな」
放った言葉は皆に届いたが、伝えたかったのは一人だけだったのかもしれない。
その相手が、桜木の言葉を受け取って、微笑みながら頷いたように見えた。
右手に刻まれた面影。
「え?」
下田の言葉に、桜木ははじかれたように顔を上げた。今では見慣れた穏やかな顔がそこにある。
「気が付いていないんだね。いつも見てるよ、掌。何かあるのかな」
実際それは無意識の行動だった。何かあるのかと問われても、表層意識の桜木に分かる筈もなく、もう一度そこに視線を落とすだけだ。ぼんやりと浮かび上がる黒い影は形にならず、首をひねるばかりである。
「そんなに見てるか? オレ」
「気が付けばね」
にこりと笑って下田は言った。
「差し詰め、お守りってところかな。その右手は」
「お守り?」
横に細長い部屋の中、四つ一列に並んでいるベッドは珍しいと桜木は思った。両サイドに窓があり、仕切りのカーテンが風で揺れる。
初めて病室を訪れた時、戸口のほぼ正面、左から二つ目に下田はいた。
何だろう。第一印象は、何か白いものを感じた。たおやかなものを感じた。穏やかさも感じながら、一方で剛さも感じ取っていた。
ひとつ挟んで、一番端のベッドから、桜木は身を乗り出す。
「検査三昧の時から、焦りってものが君にはなかった。リハビリが開始されたといっても、まだ本格的に背中には入ってないんだろ? 普通は焦るよ。そうならないのは、その右手のお蔭なんじゃないかと思ってさ」
言われてみれば、焦りはなかった。不思議なほど落ち着いていた。それは以前怪我をした時の三井の話を聞いていたからなのか、定かではなかったが。
時計の針が、そろそろリハビリの時間だと告げている。
「逸る気持ちはないって言ったら嘘になっけど、焦りってのとはちょっと違うか」
腰掛けていたベッドをおりると、にわかに廊下が騒がしくなった。午後のリハビリ組が動きだしたのだ。
「それを我慢すんのもリハビリのうちだし、それが最短コースだってセンセイも言ってた。急がば回れってやつだな」
「それが出来れば苦労はしないよ」
「シロくんは、焦って悪化させたクチか?」
名前と第一印象をかけて「シロ」
下田は何度か訂正を試みたが、「シモくん」と呼ばれるのもどうかと思いなおし、好きなようにさせている。
「それ以前の問題、かな」
桜木はいまいち掴み損ねたが、あまり立ち入っても迷惑だろうと病室を後にした。いってきまっすに、ひらひらと見送りが返ってくる。
知り合って一週間になるが、下田という男は謎な人物だった。膝を痛めたというわりには松葉杖は見当たらないし、ベッドの上からほとんど動かない。リハビリもやっているらしいが、いつも知らないうちに行って帰ってきている。
幽霊じゃないかと疑ったこともあるが、食事がちゃんと出ているのでそれはないようだった。
ただやはりどうしても気になって、一度尋ねたことがある。
「見舞い、誰もこねぇのか?」
「君も来ないね」
三日前のことだ。にっこり笑って切り返された。
「今日でインターハイ終わっから、夜にならねぇとみんな帰ってこねぇんだよ」
「こっちもね。仕事と練習で忙しいんだよ。実家には連絡してないし」
「お付き合いしている女の人とか」
下田はにっこり笑った。
「こっちにおいで、桜木くん。デコピンしてあげよう」
「いらねぇよっ」
思わず額を手で隠したほどだ。冗談だといいながら、どこか本気がにじみ出ていた。下田の「にっこり」は要注意だ。
見舞い客については桜木も人のことが言えず、未だゼロだ。初日に水戸が付き添ってくれたが、必要なものは全部持ってきたし、洗濯も自分ですると言ってある。ただの見舞いに来るには、皆バイトで忙しかった。
バスケ部の皆はどうなのだろうか。インターハイはどうなったのだろう。
新聞を見ない桜木は記事が載っていることなど全く知らず、実際湘北がどこまで勝ち進んだのかわからなかった。
今頃はあの体育館で皆、練習をしているのだろうか。
うだるような暑さの中、何故か病院はひんやりしている。それは適度に調節された温度のせいだとわかっているが、ひんやりしていると感じるのは何故だろう。ずっとこの中にいて、少し動けば汗だって出るのに。
「はい、休憩終わり」
リハビリ担当の吉井女医の声に、桜木の意識は視神経に移った。にわかに焦点が絞られた先には。
「じゃ、今日からそろそろ背中の方もやっていきましょうか」
「背中っすか」
桜木は女医に視線を移す。嬉しさがそのまま顔に出た。
いつも温かく微笑んでいる女医の顔にも笑みが増す。
「そうよ。下半身や上腕前腕だけじゃそろそろ飽きてきたでしょう? 散歩も外に出ていいわよ。ただし、あまり遠出はしないこと」
「じゃあ、海に行ってもいいんすか」
「疲れない程度にね」
病院の隣に公園、その先、国道を挟んで広がっている太平洋。波の音やそれに合わせて繰り返される万物のリズムは、何故か見ていて飽きないもので、また穏やかにもなる。
中学の頃、桜木はよく海を見ていた。去年は特に、季節を問わずに。
リハビリを続けていると、水戸と大楠が見舞いに来てくれた。
「もういい加減、落ち着いている頃じゃないかと思ってな」
顔を見せなかったのは、どうやら遠慮していたからのようで、今もまたリハビリ中を気にしてか、バイトの時間が近いからと一言二言で去って行った。
嬉しいことは続くらしい。その日はまとめてやってきた。悪いことではないので別に構わないのだが、どうせなら分割で嬉しいことは続いて欲しい。そう思うのは贅沢だろうか。
赤木と小暮が顔を出してくれたのだ。
「背中の調子はどうだ? 桜木」
「医者の言うことはちゃんと聞いているんだろうな」
「おう、全然問題ねぇよ」
この時はめずらしく、三人胸中同じだった。相変わらずだな、と苦笑したり微笑んだり。そうしながら、ほっと緊張を解いていく。
話はとりとめなくはずみ、桜木はその中でインターハイがどうなったのか聞いた。
「残念ながら三回戦止まりだったよ。海南は決勝で負けた」
一度赤木を見やった後、小暮がそう言った。
「む? 三回戦? というと、ヤマオーの次の日か」
「悔しいが、愛和学院に惨敗だ」
愛和学院といえば確か、愛知の星・諸星大がいるところだ。
あんな怪我野郎に負けたのか? しかも、赤木の口から惨敗という言葉が出るほどに。
ショックじゃないと言ったら嘘になる。でもそれはもう、赤木や小暮にとっては終わったことなのだ。次はないのだ。彼らの方が、その悔しさは強いだろう。
「ダメだね、キミタチ。やはりこの天才がついていないと」
流川よろしくため息混じりに言ってやると、赤木はフンと鼻息を荒げた。
「たわけ」
「あはは。言うと思ったよ」
賑やかさに、離れたベッドの上で下田も破顔していたようだ。
また来ると言って二人が去っていった後、一瞬訪れた沈黙に桜木は沈みそうになる。その最中、ふと右手に視線が落ちて、意識は途中でぶらさがった。
「今の子達は先輩かい?」
下田が声をかけてくる。頭の上を掠めるように、それは通り過ぎていく。
視線を落としたまま、桜木は頷いた。
「おう。ゴリとメガネくん」
「あぁ、主将と副主将だ」
もう一度、無言で頷く。
「じゃあ、高校最後の公式試合だったんだ、彼らにとって」
夜には早い夕暮れ時に、少し冷たい風が吹く。八月の、まだ盆前だと言うのに。
「――そっか、終わったんだ、夏」
そうつぶやいて桜木は、握り締めるでもなくゆっくりと掌を結んでいった。
続く
⇒きまぐれにはなるはな