春[5]

 流川のことは好きだ。それはわかっている。キスをされても不快でないくらい好きだということも、実はわかっていた。
 社内でのあの噂。三井寿にした相談が、どこかから漏れたのが発端だろう。
 流川が毎日家にくるようになってから、止めようのないくらい、あらゆるものが変わっていった。
「顔を合わせる度に毎日きれいになっていくだぁ? 惚気かよ」
 半ば嫌そうに顔をしかめながら、三井はそうからかった。
 三井とはじめて会ったのは、桜木が中学二年のときだった。ふたつ年上の三井は高校に進学せず、土木をなりわいとしていた。父が生前目をかけていて、一二度家に連れてきたのだ。
 兄弟のない桜木は、それ以来三井を慕っていた。
「惚気なんかじゃねぇって……」
 がっくりと肩を落とす桜木を横目に、三井はタバコの灰を落とす。ははーんとしたり顔で、抜ける空を見上げた。
「本気なんだな、その子」
 情けない顔をして、桜木はちらりと三井に目を上げる。
「花は愛でられるために美しく咲くって言うだろ。それと一緒だな。お前のことが本当に好きなんだ。だから毎日きれいになっていく。お前に見て欲しいんだろ」
 うー、と桜木は視線を下げる。
 何て言えばいいのだろう。桜木は困っていたのだ。戸惑いを隠せないでいた。好きって気持ちが、こんなにも厄介になるなんて、今までそんなことなかったから。
 三井は笑った。タバコの煙を吐き出しながら、口の片端を引き上げて。
「ま、お前も腹括ってやんな」
「ミッチー……」
「いい加減、そのミッチーはやめろって」
 その後、噂を広めた張本人が三井だとはつゆとも知らず。桜木は腹を括るどころか、流川が未だに自分のことを好きなのかわからないまま、時が過ぎてしまったのだ。
 聞けなかったのだ、どうしても。今まで大勢の人に散々振られてきた所為もあったけれど、仮に両想いになった「先」が、全くわからなかったから。三井は相手は女だと思い込んでいたし、男相手にどう腹を括ればいいのか、相談することも出来なかった。
 ただ、今はもう、ちゃんと自分の気持ちが桜木にはわかっていた。だから逃げないで、真正面から流川と向き合おうと思っていたのに。
 翌日も翌々日も、流川は桜木の家には来なかった。

 電話もかけてみた。公園にも行ってみた。しかし、流川をつかまえることは出来なかった。
 どんよりと重い空。降水確率10%を疑いながら、気乗りしない足を会社に向ける。
 あの流川のことだ、どうせ寝くされていたに違いない。そう思うものの、自分を納得させることは出来ないでいた。
「なーんだぁ、桜木。いつもの元気はどうした?!」
「彼女と喧嘩でもしたか」
「出てっちゃったのか?」
 そんなに顔に書いてあるのだろうかとうんざりするくらい、行く先々でそう声をかけられる。心はどんどん沈んでいくばかりだ。
「何でこねぇんだよ、バカヤロー」
 土曜日は違っていた。気が付けばずっとニヤついていた。どんな顔して会えばいいのかと悩みながら、気恥ずかしく思い、それでも楽しかった。流川が来るのを早鐘を打ちながら待っていた。半日待って、結局流川は来なかったけれど、たいして気にはしなかったのだ。
 気分が一変したのは、昨日の午後からだ。
 まるで梅雨時の雨みたいに、鬱陶しいくらいのため息が幾度となく口からもれる。
 来ない、会えない、連絡も取れない。連続して一言も声を聞いていないなんて、一体何年振りだろう。
 窓を伝う雨の跡が見えるみたいだ。薄汚れたそれを通して目に映る空の色。泣き出しそうな鈍色に、天気予報のはずれを思う。廊下突き当たりの喫煙所。
 休憩を装うための缶コーヒーは滴だけを残し、桜木はいったん目を伏せるとそれをゴミ箱に軽く投げ入れた。カランという高くて妙な和音が一瞬、辺りいっぱいに響き渡り、全身を支配した。
『教えてやろうか、オレが何をしていたか。毎晩何をやってんのか』
 流川を追い詰めて、告白させてしまった自分。試すつもりは毛頭なかった。けれど、本当にその気はなかったか? どこかではっきりと聞けない答えを、その端々に読み取ろうとしていなかったか。
 お互いの気持ちが怖くて、二人とも逃げていた。核心には決して触れずに、時間だけを共有してきた。それだけではもう飽き足らないと知っていながら。
 押し殺してきた、奪いたいという欲望。まるで別人のように強く、相手のすべてを自分のものにしたいと思う。それは手に余るほどで、だから気付かない振りをしてきた。
 自分を偽ってきたのだ。
 もう疲れた。壊したかった。
 先に進むきっかけを、桜木は無意識に流川につくらせたのかもしれない。


 空はまだ持ちこたえていた。
「一緒に帰ろっか、桜木くん」
 五時になってもデスクでぼーっとしているのを不審に思ったのか、それとも今日一日の桜木の様子があまりにもおかしかったためか、晴子はそう声をかけてきた。
「……ハルコさん」
 向けた視線の先で、晴子はにっこりと微笑む。桜木はふっと口をほころばせた。
「今日は予定、ないんすか?」
「一緒に帰るくらい出来るわよぅ」
 困った顔をして笑うと、晴子はストップと手で制す。
「そんな顔されると何も言えなくなるじゃない。私のお節介な好奇心の邪魔はしないでくれるかな」
 桜木は思わず吹き出してしまう。どちらかというと引っ込み思案だった晴子が、こんなことを言うとは。
「オレは今から尋問されるんすか」
「君には黙秘権が与えられるけれども、それを行使することは認められません――ふふ。違うのよ。ただ一緒に帰りたいなって思っただけだから」
 晴子の心遣いはよくわかったが、桜木はやっぱり眉を下げて笑った。
「すんません、ハルコさん。今日は一人で帰りたい気分なんです」

 キツネくんによろしくね、と晴子は言った。それは流川のことで、桜木がまだ高校生の頃、どあほう呼ばわりされている腹いせに影でそう呼んでいたのだ。
 あの頃から、流川はまっすぐ前を見ていた。真摯な眼差しは、今ようやく受け止めることが出来るようになったばかりだ。たとえるなら、獣のような純粋さ。孤高な存在を、無理に繋ぎとめることなど、桜木は望まなかった。
『好きだから。てめーのこと』
 大切な、流川の声を思い出す。まだ声変わりが始まったばかりの、今より少し高い声。
 暗くなった空にぼんやり、小さな光が瞬きはじめる。結局雨は降らなかった。天気予報の勝利になりそうだ。
 電車に揺られて、家路を歩く。目を瞑ってでも通える道を、無意識のうちに辿っていく。途中スーパーによって、買い物も済ませた。
 吹く風が少しばかり、冬を名残惜しんでいる。
 たった三段の階段に足をかけ、照らされる灯りの下、部屋の前に桜木は流川の姿を見つける。
 一瞬、心臓が大きく音をたてた。
「……何やってんだよ。中入って待ってりゃいいじゃねぇか」
 ポケットから鍵を出しながらそう声をかける。すんなり鍵穴に通る鍵。無意識に、肩から少し力が抜ける。
 しばらく間を置いて、流川は答えた。
「忘れた」
「忘れたって……」
 勝手知ったるなんとやら。流川は先に上がり込むと、そのまま脱衣所へ直行した。訝しく思いながら、桜木も後に続く。
 洗濯機とカゴの間に存在する、ちょっとした隙間。流川はそこから、見慣れた銀色の物体を拾い上げた。
「ここに」
 一度桜木に見せると、流川はそれを制服のポケットにしまいこんだ。いつもの場所だ。一体いつ落としたのか、そんなことは考えないでもわかった。この間の夜。
 すれ違いざま、スーパーの袋がガサガサともがき、桜木の手から拉致される。流川が人質を解放したのは台所。
「そういうのは普通、落としたって言わねぇか?」
 鞄をベッドに放り投げ、疲れた態でネクタイを緩める。煌々と辺りを照らす蛍光灯に少し顔をしかめながら、桜木はため息をついた。
 誘拐犯は、人質をそこに放置すると、あとのことは知らないと桜木に目を向ける。
「あったんだからどうだっていい」
 背広をハンガーにかけ、シャツの袖をまくる。袋の中身を冷蔵庫に片付けながら、桜木は聞きたかったことを口にした。
「昨日と一昨日、何してたんだ?」
 カーテンを閉めようとしていた流川の手がふと止まる。むっと何かを言いかけて、あ、とその言葉を飲み込んだ。
「……忘れてた」
「今度は何だよ」
「全日ジュニアの顔合わせ。一日合宿があるっつーの、言うの忘れてた」
 不意に力が抜けた。冷蔵庫のドアを閉めて、ずるずるしゃがみこむと、気が抜けたように桜木は笑う。一気に胸のつかえが取れたような、大袈裟なため息が「何だよ」と言葉をつむいだ。
「もう来ないのかと思ったぞ、オレ」
「誰が」
 軽快に響くカーテンの音。流川の口元がそこはかとなく笑んでいるように見えて、桜木は急に気恥ずかしくなった。
 いつもより部屋が明るいような気がする。
 そういえば昨日のニュースで、桜前線がすぐそこまで来ていると言っていた。
「なかったことにすんじゃねーの」
 腰を下ろしながら意地悪く聞く流川。からかわれていると、その表情からわかる。上目遣いの冷めた雰囲気はカモフラージュだ。様になるのが気に食わない。
「できねぇだろ、そんなこと」
 現金なオレを笑ってくれ。桜木は心の中で苦笑をもらす。卑怯だろうが臆病だろうが、もうそんなことはどうだっていい。
 覚悟は出来た。流川もそれをわかってくれたみたいだ。
 ――今もまた、春という名の季節。
 二度目の始まりは、居間と台所の距離から。
 穏やかな気持ちは、これまでと変わりないけれど。
「おふくろさん、今日はもう帰ってきてんのか」
 こっくりと流川は頷く。
「んじゃ、一緒にメシは食えねぇな」
「ねーの、その気」
「あのなぁ」
 恥ずかしいのと呆れるのと照れるのと。ショートしそうになる頭と感情を、桜木は何とか持ちこたえる。
「まぁ、何だ。一度、その、親御さんにご挨拶を」
「めんどくせー」
「何言ってんだよ、大事なことだろ。これから一生、お付き合いしていくんだから」
「一生?」
「違うのかよ」
 聞き返されて、桜木は強気に出る。反論しないところを見ると、考えてなかったのか、試されたのか。
「オレはそのつもりだぞ」
 流川の目の前で膝を正して、桜木は言った。
「……簡単にはいかねーんじゃねー?」
「もとより。でも大丈夫。わかってもらえるまで辛抱強くやる」
 はじめは、ただの生意気な弟に過ぎなかった。いつから特別な存在になったのか、それに答えることは不可能だけれども、出会った頃のままではないということははっきりしている。弟なんかじゃない。友人でもない。
「それまで節制だな」
 笑って言った桜木に、その後流川が不満を口にしたのは言うまでもない。
 東風はやがて春色を連れてくる。花嵐が辺りの景色を変えるのも目の前だ。
 桜前線がこの地に到達したのは、これより十日ばかり後。営業三課のお花見に桜木が参加したかどうかは、皆様のご想像にお任せする。

2000/12 & 2003/07


きまぐれにはなるはな