春[4]
はじめは、ただの生意気な弟に過ぎなかった。
今年もまた、春の花の季節がやってきた。桃が終わり、けれども桜の蕾が芽吹くにはまだ少し早い頃。桜木花道は、鈴木建設工業に就職してちょうど五年目に突入した。父が生前勤めていた会社である。土木をやっていたのだが、懇意にしていた役員がいたらしく、桜木が就職を希望していると知って、うちに来ないかと誘ってくれた。
高校を卒業してすぐ、当然桜木は土木方面に配属されると思っていたが、何故か業種は営業だった。気が抜けるやら動転するはで入社当初はてんてこまいだったが、営業も満更不向きではなかったようで、その点は人事部の選考が正しかったと言えよう。人好きのする性格は、今でも健在である。
町の景色を愛でる暇もなく、桜木はそこそこ多忙な日々を送っていた。
社内では、桜木に関する噂がまことしやかにささやかれている。
二年くらい前からだろうか。はじめは端から否定していた桜木も、今ではもうその気力も失せ、話は野放し状態だ。直接耳にはしていないが、きっとあらゆる尾鰭がついているに違いない。ちゃんと分かってくれているのは、赤木晴子くらいなものだ。
何の偶然か、短大に進学した晴子が同じ職場に入社してきたのである。以前の桜木ならこれを運命と感じただろうが、彼はそれを「すごい偶然っすね」で片付けた。
バスケは高校三年間ですっぱりやめた。未練はないと言ったら嘘になるが、悔いはないので案外さばさばしたものだ。流川が中学の間は、日曜に公園で一緒によくやったものだが、今ではそれもほとんどない。
バスケはしないが、流川とは毎日と言っていいほど顔を合わせている。
噂の元凶だった。
アパートのドアは出かけたときと同様に鍵がかかっていたが、路上で見た窓からは煌々と明かりが漏れていた。桜木はことさら何も思わずに、家の中に入る。テレビを見るでもなくつけている流川に、ただいまと声をかけた。
「おかえり」
呟かれるように返ってくる低い声。今ではもう、これが日常だ。
桜木はカーテンを閉めた。電気をつけるならカーテンを閉めろと散々言って聞かせたが、流川はそれをしたことがない。どうやら念頭にないようで、桜木はもうあきらめた。すりガラスの向こうにぼんやり映る赤い影を、流川がじっと待っていることなど知る由もない。
高校生になってから、流川は家へ来るようになった。何をするでもなく、ただ桜木が帰ってくるのを待ち伏せていた。顔を見て、一言二言言葉を交わすと去っていく。奇妙に思いながらも好きにさせておいたのだが、さすがに冬場はそうもいかず、とうとう合鍵を渡してしまったのが今日まで続いていた。
隣の部屋で着替えながら、桜木は流川に視線を投げる。丸まっている黒い背中、あれはもともと桜木の学ランだ。
卒業式の朝、制服が欲しいと流川は言った。突然の申し出に、桜木は思わず短ランを点検したものだ。
「あ? これか?」
「高校は湘北行くから」
切羽詰まった流川の様子に、桜木は数ヶ月前のことを思い出した。そういえばあの時も唐突だった。どうしてこいつはいつもこう……その思考は、まるで賭けでもしているかのような流川の表情を見て止まった。
桜木は少し切なくなった。
「でもこれ、でけぇだろ」
「大丈夫。オレもそんくらいでかくなる」
「ホントにでかくなりやがって……」
桜木のつぶやきは流川にまで届かなかったらしい。トレーナーに身を包んだ桜木は、ついでに思い出した告白に思いをめぐらした。
たかがガキの告白だとみんなは言うかもしれないが、あの時の流川の真剣さは桜木が一番わかっている。真剣に受け止めざるを得ないものだった。それだけに、桜木は言葉に詰まったのだ。
茶化してしまうことは出来なかった。正直に、自分の気持ちを答えることしか出来なかった。たとえそれが、意味の違う好意だったとしても。桜木も精一杯だったのだ。
あの想いは、今も流川の中にあるのだろうか。
「テレビ、面白いか? 何見てんだ」
「別に」
奥の部屋から出て行くと、流川はやおら腰を上げた。
おふくろさんがメシ作って待っていてくれてんだから、遅くならないうちにちゃんと帰れ、と言ったのは流川がまだ中学のときである。以来、彼はそれを守っていた。犬みたいなヤツだと、桜木は思うのだ。
玄関まで見送りに出ると、靴を履き終えた流川が口を開いた。元々あまりしゃべるほうではなかったが、中学の中頃からめっきりその口数は減っている。夏の終わりに吹く風のような短い吐息にのせられる声は、秋の空に通るように意外とよく聞き取れる。
「明日、おふくろいねー」
「オヤジさんのとこに行くのか」
流川の父は二年前から単身赴任をしている。
頷く流川に、桜木は「じゃあ」と続けた。
「明日は久し振りにメシ食ってけ」
もう一度、流川は小さく頷いた。
この図体ばかりでかい男はバスケで注目を浴び、数多の女子から好きですと言われながらも嬉しい素振りは少しも見せず、却って迷惑そうに顔をしかめるいけ好かないヤツなのだが、桜木から見てみれば苦笑を漏らしたくなるほど可愛げのある存在だった。
金曜日。それは社会人にとって至福の週末。飲めや歌えの大騒ぎは、翌日翌々日と仕事がないから出来ること。
入社二年目までは未成年にもかかわらず、大いに参加していた桜木だが、三年目、公に飲酒を認められるようになってからは、ほとんど付き合わなくなってしまった。毎日そそくさと帰宅する姿から、噂されるようになったのは同棲説だ。
「桜木。今日もダメか」
酒をあおる仕草で声をかけられる。五時をまわった営業三課は、どうやら皆で居酒屋に向かうらしい。
「すんません。今日は一緒にメシ食う約束してるんす」
「今日は、じゃなくて、今日も、だろ」
からかう先輩たちに紛れて、真実を知っている晴子が微笑んでいた。
「ハルコさんも行くんすか」
「ううん。今日はわたしも約束があるから」
「デートっすか?」
「やだ、もう。桜木くんたら」
照れた晴子にバシッと背中を叩かれる。お疲れ様と去っていくその姿を見送りながら、桜木は背中をさすった。
晴子は最近プロポーズされたらしく、その幸せ振りはあてられるくらいである。同級生が、しかも好きだった人が結婚するというのは、何だか感慨深いものがあった。
「結婚かぁ……」
「お、何だ。彼女に迫られてんのか」
「そんなんじゃないっすよ」
桜木は苦笑する。やはりこの噂は、何とかしなければいけないだろうか。
流川を形容するのにきれいという言葉が使われることは、何も今に始まったことではない。
食事を終え舟を漕ぎ出す流川に、桜木はとにかく風呂に入れと声をかける。数回目をしばたたきながら、言われるままに流川は風呂場へと姿を消した。その間に、桜木は後片付けに取りかかる。
流川の風呂は、やけに長かった。一時間は優に経っている。まさか湯槽で居眠りした挙句溺れているなんてことはないと思うが、心配になった桜木はたまらずに浴室へ向かった。磨りガラス越しに声をかけてみる。
「ルカワ……?」
カタンッと大きな音の後、一拍おいて返事が返ってきた。うめくような声ではあったが、とりあえず起きていたことにほっとする。
「……んだよ」
「いや、いつまで経っても出てこねぇから、寝てんじゃねぇかと思ってな」
「寝てねーよ」
「ならいいんだけどよ。――な、今日泊まってくか? どうせ家帰っても誰もいねぇんだろ。着替え用意しとくからな」
桜木は返事を待たずにその場を離れた。流川の着替えを脱衣所に置き、布団を敷いて上がるのを待つ。適当にテレビを見ていると、背後に気配を感じたので振り返った。
制服姿の流川がそこにいた。
男にしては白い面に、上気した頬と唇が色を持って存在していた。今となっては慣れてしまったきつすぎる双眸で、じっと桜木を見下ろしている。
「あれ。洗濯機の上に着替えおいといたの、気付かなかったか」
「帰る」
「あ?」
唐突な言葉に、桜木は慌てた。感情をなかなか表に出さない流川が、今何を考えているのかは、そうわかるものではない。怒っているようにも見えるが、桜木には思い当たる節はなかった。
バッグを手に取り玄関に向かう流川。桜木はその後を追った。無理矢理引き止めるわけにもいかず、気をつけて帰れよと声をかける。名残惜しい素振りなどつゆとも見せず、流川はドアを開けていく。
桜木はため息をひとつついて部屋へ戻り、道路に面している窓から顔を出した。そこから見える流川の背中に、何とはなしに言葉を投げる。
「泊まっていったら楽だぞ。朝飯つくる手間はぶけっから」
ピタリと流川の足が止まった。外灯に照らされ振り返った顔は、明らかに怒っている。夜気をさらに冷たくするそれに、桜木はにやついていた顔を引っ込めた。
「なんだ?」
何か気に障ることを言っただろうか。思考をめぐらす前に、流川がすぐ目の前まで来てしまう。取り繕う暇もなく、ぐいっと胸倉をつかまれると、そのまま上体を引っ張られた。
「教えてやろうか。さっき風呂場で何やってたか。毎晩オレが何やってんのか。――その気もねーのに泊まってけなんて言うな」
焦点が合わないほど、流川の顔が間近にある。口を生暖かいもので数秒ふさがれて、それでも桜木は何をされているのか分からなかった。
ふ、と離れ、真っ直ぐな眼でねめつけられる。
「どあほう」
それだけ言うと、流川は踵を返した。
間を置いて、かぁっと顔が熱を持った。言葉を紡ぎ出せないまま、闇に紛れて流川の姿が見えなくなる。
何をした? 何をされた?
まるで腰が抜けたみたいに、桜木はそこから動けない。口を手で覆いながら、いつまでも感触が気になって仕方がなかった。
まさか、キスをされるとは思わなかった。
耳が熱い。体中も。まるきり初心な反応に、自分自身が情けなくなるほど。
「あのヤロー……」
つぶやきは怒りではない。羞恥の漏れだった。
続く
⇒きまぐれにはなるはな