春[3]
「わりぃけど、オレ、好きなのいるから」
いつの頃からだったか、このクソ生意気な同級生は、そんなことを口にするようになっていた。恋愛感情からは対極の位置に存在しているような顔をして、しっかり自分よりも前を歩いていた。
告白し終えた女の子が去っていくのを待って、清田は流川に声をかける。
「好きなのってなぁ、バスケじゃねーんだから、物扱いすんのはやめた方がいいんじゃないか」
全くそれらしい影や素振りが見られないのだから、そのうちそれは人ではないのだと勘違いする者が出てくるかもしれない。
好きな子、とか、好きな人、とか、言えばいいのに。
「勝手に見てんじゃねー」
「人聞きの悪いこと言うな。偶然、居合わせたんだ」
そうして二人は部活のため、体育館へと向かった。
清田は既に何回か、こんな風に流川への告白を目撃してきた。いずれも今年、つまり中学二年になってからで、そして流川はその最初から、同じセリフを言っていた。
流川の言う「好きなの」が一体誰のことなのか、実は清田も察しがつかない。何度か突いてみたのだが、口は異様に堅かった。いつから「好きなの」がいるのかすら分からないので、見当の付けようもない。でも、いることは確かだった。
「最近、流川くん、いい感じだよねー」
「もともときれいだし」
「ちょっと怖いけど、格好いいしさぁ」
「何かー、男って感じ、してきたよね」
女ってのは、目ざとい。ずっと一緒にバスケをしてきたこの清田が、何だか流川の様子が変わったなと思ったときには、既にそれに気付いていたようだ。それが今年の梅雨ぐらいの話。
そう、流川は変わった。またと言っていいくらい、清田はその変貌を見てきた。
いちばん最初は小5の春。それまで一人でバスケをすることを優先していた流川が、桜木とバスケをすることを優先するようになった。
そして、誰にも興味がなかったように、誰にも執着しなかった流川が、桜木にだけは例外を認めたのも同じ時期。
他人の言動に関心がなかったくせに、誰かが桜木に近付こうとするものならば牙を抜き、面白いくらいに感情を端々に見せるようになり。
ひたすらマイペースだったのが、少しばかり周りを気遣うようになり。
怖いもの知らずだったはずが、思慮深くなり。
やがて、内なるものを抑えるようになった。
個人差はあるが、思春期のこの時期。自分を持て余すような衝動が常に襲ってくることを、清田は兄達を見て知っている。流川は多分、そこに差し掛かっているのだろう。多くなったため息や、苛立ちを隠しきれない行動は、スポーツであらかた発散されるはずのそれが、他よりも少し多いことを物語っている。その原因は恋だと、清田は踏んでいた。
それにしても、流川を変える要因が桜木以外に現れるとは。
桜木というのは、清田たちよりも五歳上の、バスケ部の人だった。実は清田はそれくらいしか知らない。
出会ったのは小5の時で、流川の牽制をかわしながら時々バスケを楽しんだ。大抵は三人で、だったけれど。最上級生の特権で体育館を我が物顔で使えるようになった小6から、清田は桜木とは会っていない。
「なぁ、流川。お前の好きな相手ってさ、好きなコ、好きなヒト、好きなヤツ、の三つで表すとしたら、どれ」
更衣室で練習着に着替えながら、清田は探りを入れてみた。流川が怪訝に顔をゆがめる。
「……なんで」
「いいから答えろよ」
たったこれだけのことで目星が付けられるなど、流川は思いもしないだろう。
好きなコと言えば年下の可能性が高く、好きなヒトと言えば年上の可能性が高い。これまで様子を見てきて、同級生ではないことは確かだった。
「……好きなヤツ」
「えーっ」
「なんだ」
「いや、なんでも」
明らかにムッとした流川に、清田は慌てて手を横に振った。一瞥だけですんで、ほっと胸をなでおろす。
それにしても、好きなヤツだなんて、それは「親しい相手」の可能性大の項目ではないか。
流川にとって親しい相手なんて、桜木さんしかいないだろー?
手がかりゼロの結果にそう嘆いて、清田はハッと手を止めた。
また桜木だ。
うかがい見た流川の顔は、いつの頃からか身についていたポーカーフェイスで、それがまたクールだと女子には騒がれているけれども。
流川の変化に必ず付きものの桜木さん。
楽しくって、格好よくって、よく笑っていた桜木さん。
そりゃあ確かに、桜木さんはいい人だし、俺も好きだったし、みんなあの人のこと好きだったけど……まさかなぁ。
すっかり着替えを終え、コートへ向かう流川の後を、清田は急いで追いかけた。ためらいはあったが、ここはひとつはっきりさせておかなければ。
「おまえさ。その好きな人に告白はしたのか」
「……した」
「じゃ、付き合ってんの」
「……ねー」
「え。そんじゃ振られたのか」
「……振られてもねー」
「それじゃあ、保留?」
一息ついて、流川は振り返る。どうでもいいだろうと言いたげだ。清田は方向を変えることにした。
「ところで、桜木さんとは今でも会ってんのか」
目に見えて、流川の動きが一瞬ぎこちないものになる。けれどもそれは本当に一瞬だった。至って普通に答えが返ってくる。
「……あっちの都合がいいときだけ」
「会ってんだ」
何が言いたいんだとばかりに、流川は清田を見た。久し振りの威嚇牽制だ。
負けるわけにはいかない。
「桜木さん、彼女いるのか」
「さぁ」
「聞かねーの、そういう話」
「関係ねーだろ」
うるさそうに、流川はため息をついた。相当いらついてきているらしい。
実際自分が気になっていて、しかし聞けないことを根掘り葉掘り聞かれるのが嫌なのか、ただ単に煩わしがられているだけなのか。
問い詰める暇もなく部活が始まってしまい、何もはっきりしないままこの話は終わってしまった。
けれども、清田には分かったのだ。流川が誰のことを好きなのか。
未だに桜木と会っているという、その一言で、わかってしまった。
何て不毛な恋なんだろうと、そう思った。
清田が桜木花道と再会を果たしたのは、高校二年の秋だった。
いわゆるオフィス街の程近く。メイン通りに面した人気店が居並んでいるその通り。ちょうど昼休みの時間帯で、OLやらサラリーマンが食事を取って社に戻っていく最中だった。
赤みがかった髪は健在で、それを考えればどうやらあれは地毛らしい。それが目印になったことは言うまでもない。
「桜木さん!?」
けれどもその呼び掛けに振り返ったのは、彼一人ではなかった。清田は一瞬気が引ける。
「……おー。おまえ、もしかして、サルか?」
「清田信長っすよ。サルは勘弁して下さい」
満面の笑みもむかしのままだ。傍らで同じように足を止めた女性を気にかけながら、清田は桜木に近付いた。
「こんな時間に何してんだよ」
「家に帰るところっす。今中間で、部活ないんすよ」
「高校、こっちなのか。私立かよ」
「海南っす」
「うっわ。バスケの強豪じゃねぇか。つーことは、まだやってんだ」
「バリバリ現役っすよ」
くすくすと、楽しそうに会話を聞いて笑っている女性。清田は彼女に見覚えがあるように気がした。一体、誰だっただろう。
「あ、ハルコさん。そしたらオレ、このまま外回りに出ますんで、そう言っておいてもらえますか」
「はい。わかりました」
多分、いつもはもっと砕けた感じで会話しているのだろう。かしこまった受け答えに、二人でふっと笑い合っていた。その光景が、清田の記憶を呼び起こす。
清田に軽く頭を下げ、その場を後にする彼女を見送り、清田は桜木に問いかけた。
「今の、マネージャーだった人ですか」
「よく覚えてるな」
「相変わらず、仲いいんすね」
それには桜木は微笑んだだけだった。
「それにしても久し振りだなぁ。オレが高1のときだったから……六年振りか? 元気だったかよ」
「元気っすよ。桜木さんも? 今何やってんですか」
「何って、社会人だよ」
苦笑する桜木に、さっきの会話を思い出す。
「あ、そっか。外回りがどうとか、言ってましたもんね。営業っすか」
「まぁな」
それから二人は何となく歩き始めた。どうやら方向は同じらしい。
「海南は、相変わらず強いのか」
「そりゃ、何てったって『常勝』ですからね。県の代表はやらせて頂いてますよ」
「得意げだなぁ。メンバーには選ばれてんのか」
「スタメンすよ、一年の時から」
「そりゃすげぇな! でも、まぁオレも一年の時からスタメンだったけど」
「格が違うっすよ、全然」
「コノヤロ」
「いってー」
軽く頭を小突かれて、清田は首をすくめる。桜木はそのまま頭をくしゃくしゃとした。
「背も伸びたな」
「まだいけますよ」
「むかしはこーんな小さかったのに」
「いつの話してんすか、もー」
「っはは。でも、本当、大きくなるもんだな」
「年寄りくさいっすよ、桜木さん」
「うる・さい」
「いてっ」
清田の耳を引っ張りながら、桜木は笑った。それを見て、清田も笑う。
それからしばらく二人で歩いて、桜木は足を止めた。
「おまえ、駅に行くんだろ? オレはこっちだから」
「あ、はい」
「じゃぁな。頑張れよ」
「ありがとうございます!!」
手を上げる桜木をしばらく見送って、清田はほっと笑みを刷く。
桜木は全然変わっていなかった。清田の記憶通りの、とてもいい人だった。今でもやはり好きだ。
思い出に浸りながら電車に揺られていた清田は、そこでふと、流川のことを思い出した。
流川楓。
そういえば、あいつの好きな人ってのは、やっぱ桜木さんなんだろうか。
結局確たることは何も分からないまま、別々の高校に通うことになったのだけれど。
でも、だとしたら。たぶん流川は今でも、桜木のことを好きでいるだろう。
清田は、先程の桜木との、そう短くはない会話を思い返した。そして思う。やはり不毛だと思う。それに。
清田は深くため息をついた。顔は苦渋に歪んでしまった。
見込みなんてゼロに等しい。だって桜木は、一言も流川のことを聞かなかったのだ。
流川とは試合会場で何度か顔を合わせていたが、ゆっくり話をする機会は、この時までなかった。
高3になったばかりの春の初め。全日本jrの一日合宿場に向かうため、電車に乗り込んだ清田はそこで、流川に会った。
「……よう」
声をかけて荷物を下ろせば、目だけで流川は挨拶をよこした。清田は隣にどっかりと腰掛ける。
車内にはそれほど人影はなかった。
「ったく、一日合宿なんて、めんどくせーよなー。要は顔合わせだろ。簡単に試合で現状チェックして終わりじゃねぇか。それだけで貴重な土日潰される、こっちの身にもなってくれってんだ、なぁ」
投げ遣りな感じで同意を求めてみたが、流川は全然のってこなかった。清田はため息をつく。
「……どうよ、調子」
「……別に。かわんねー」
しばらく電車の揺れる音が続く。清田は窓の外を走る景色を眺めながら、どう切り出そうか考えていた。長年の疑問に終止符を打つために。
「おまえさ。今でも桜木さんのこと、好きなのか」
眠りそうで眠っていなかった流川の意識が、一気に覚醒したのが見て取れた。
「中学の時に言ってたおまえの好きなのって、桜木さんのことだろ?」
流川に移した視線は絡むことはなかった。もしかしたら、どう誤魔化そうか考えているのかもしれない。だとしたら、そうだと言っているも同然だ。
「こないださ、桜木さんに会ったぜ。ま、こないだっつっても、去年の秋頃だったけど。元気そうだったぜ」
一息おいて、清田は流川から視線を外す。車内のつり革に目を移した。
「あの人と一緒だった。マネージャーやってた人。やっぱ付き合ってるよ、あの二人」
流川が小さくため息を漏らすのが聞こえた。落胆でもしたのだろうかと思いながら、でも清田はそちらに顔を向けることは出来なかった。
「おまえさ、諦めた方がいい」
自分のことじゃないのに、何でこんなに苦しいのだろう。
「だって、五歳も年下の、しかも男だなんて、桜木さんが恋愛対象としてみてくれるはず、絶対無いじゃん。諦めろよ」
「……それが出来るなら、とっくにしてる」
呟く流川の声が聞こえた。清田は振り返る。眠ったように、流川は目を閉じていた。
「桜木さん、全然おまえのこと聞かなかったぜ。どうしてんだろうとか、何にも」
「……だろうな」
「何だよ、それ。悔しくないのかよ」
別にというその声が、強がっているように清田には聞こえた。
「あの女も、彼女って訳じゃねー」
「それはおまえの願望だろ」
「……会いに行っても拒絶されねーし」
「会ってんのかよ、今でも」
だから、桜木は流川のことを尋ねなかったのか。一言も。聞かなくても知っているから。
「でも、もう来んなっつわれるかも」
「何で」
「……別に」
清田はつり革に視線を戻した。窓の外に目を移した。
「てめーに会ったのも知ってる」
「桜木さんから聞いたのか」
「そー」
ふーんと、返すしかなかった。
そうか、会っているのか。桜木と流川は、今でも会っているのか。
だからって、何かが変わるわけじゃない。流川の想いが通じているわけでもなさそうだ。でも清田は、もう何も言わなかった。
思うようにやればいい。その恋が、たとえ実らなくても、流川はずっと変わらないのだろう。それが出来るならとっくにしていると言った流川は、きっと何度も諦めようとしたに違いない。
桜木は、こんな流川に気付いているのだろうか。
確か、告白したと言っていたけれど、いつしたのか、どんな風にしたのか、清田には分からない。だから、桜木を責めようもなかった。
中途半端に、中途半端な距離で、大事なことを隠しながら、それでも失くすことなど出来ないような。そんな流川の苦しみを、もうこれ以上否定できないし、桜木にわかってやれとも言える清田でなかった。自分に出来ることは、二人をそのままにしておくことだけだ。
走る景色を、肩越しに清田は眺める。
もどかしくて、切ない気持ちを、励ますように苦笑が漏れた。
続く
⇒きまぐれにはなるはな