春[2]
団体行動は苦手。清田は流川のことをそう思っていた。いつも極力一人でいたがるからだ。バスケは団体競技であるにもかかわらず。
幾人もの生徒が訝しげに通り過ぎていくなか、清田は固まってしまった足を引き摺るようにズッと動かす。
流川が変わった。変えたのは、あの男だ。
気が落ち着いた清田は、遠く離れた背中を見つめる。
今朝の映像は衝撃だった。誰かと一緒に練習している流川など、何かの間違いじゃないかと思った。
足早に公園へ入っていく流川。浮かれた感じに清田は、バスケをするんだと直感したが、こっそりついていった先にもう一人いたことに、正直度肝を抜かれた。すすんで対峙する流川。あれは、別の誰かなのではないか。でもそれは、確かに流川だったのだ。
あんなに楽しそうに人とバスケをしている姿は、クラブでも見たことがなかった。
あれは一体誰なんだろう。流川と一緒にバスケをしていた、あの高校生は何者なのだろう。
公園を、清田は振り返る。
運動場をはさんだ向こう。木立に阻まれて見えるはずもなかったが。
彼は、桜木に興味を持った。
このところ、天候は晴れ続きだった。あと数週間で、例年なら梅雨の時期に入る。それを感じさせない晴天だ。春らしい春はもう盛りを過ぎ、初夏と言った方がいいだろう。
清田は、流川が当番の日を狙った。
男女一日交代で毎日一人ずつ、名簿順に当番は回る。今日は流川の日だった。
当番はその日の朝、決められた時間までに日誌を取りに行かなければならない。必然的に、いつもより早く練習を切り上げるはずだ。
バスケットゴールの下、着いたときにはもう流川はランドセルを手にしていた。思ったとおり、五分早くその場を後にする。博物館の陰からうかがっていた清田は、流川の姿が見えなくなるのを見届けて、そろりと姿を現した。
近付いて声をかけるより早く、桜木がその気配に気付いた。くるりと清田を振り返る。
人間、無表情は誰でも怖いものがあるが、桜木のそれは比ではなかった。
鋭い双眸に、きつくて濃い一直線につりあがった眉。太い鼻筋にムッと引き結ばれた口。浅黒い肌。赤い髪。しっかりと筋肉のついた大きな身体。一言で言えば、まさにヤンキーな外見だ。
一瞬たじろいだ清田に、桜木は「あぁ」と不意に言葉をもらした。
「使うのか、ここ」
返事を待たずして切り上げようとする桜木に、清田はあわてて声をかける。ここで帰られたら元も子もない。
「あのっ」
「ん?」
表情を持つと、桜木は一変して人懐こい印象を与えた。清田はそれにほっとする。
「一緒に練習してもいいっすか。あの、相手してほしいんすけど」
それでもまだガチコチに固まっている清田に、桜木の顔がほころんだ。
「おう。かまわねぇよ」
まるで運動場のような慣れない足場に、はじめ清田は苦戦した。踏ん張るたびに足元に砂埃が舞い上がる。ボールの大きさも違った。バウンドの感覚も違う。でもそれに慣れてくると、ゲームを楽しむことが出来た。
桜木に相手をしてもらったのは精々五分ほどだったが、短い時間にもかかわらず清田はとてもエキサイトした。桜木のバックに付けられている腕時計が、小さくピピッと音を立てる。それまで全く、時間の経過に気付かなかった。
「はい、終わり」
ボールを片手に抱えて桜木がタイムアップを告げる。その頃には硬さも取れ、すっかり打ち解けてしまっていた。
実際に相対してわかったことは、桜木はとても人好きのする人間だということ。流川が懐くのも、無理はないのかもしれない。あっという間に過ぎていく時間が惜しかった。もっと一緒にいたかった。
「えーっ、もう終わりかよ。もっとやりてー」
「ダメだ。これ以上やってたら遅刻すっぞ」
清田はブーッと膨れっ面をする。駄々をこねてやりたかったが、恥ずかしいのでそれは我慢した。
桜木は楽しそうだった。清田は嬉しかった。
「しっかし、ルカワも無茶すっけどおめーはそれ以上だな。まるでサルじゃねぇか」
運動量が流川と違う。むこうが無駄な動きがないとすれば、清田はとにかくやたらと動く。
桜木は、先頃部活に復帰した宮城リョータの言葉を思い出した。ちょっとしたトラブルに巻き込まれて、入院を余儀なくされていたらしい。その一つ年上の先輩が言うことには、自分は無駄な動きが多いらしい。
ボールの動きにことごとく反応する。試合では、そこをつかれると言うのだ。清田を見ていて、リョーちんの言わんとしていることがようやくわかった桜木だった。
清田は顔を真っ赤にする。
「サルじゃねぇっすよっ」
ウキーッと騒ぐその姿に、桜木は遠慮なく笑った。
「サルだって」
うむむと清田は黙る。嫌味がないぶん反論のしようがない。
何故いつもサルと言われるのだろう。むすぅとしていると、宥めるつもりか「まぁいいじゃないか」と桜木が苦笑した。
「オレなんかルカワにどあほうって呼ばれてんだぜ。ずいぶんマシじゃねぇか」
愚痴だった。清田は心の中で肩透かしをくらう。
しかし、どあほうとはあんまりだ。下手くそよりひどいだろう。
先日の流川を思い出して、清田はますますムッとした。
「怒ればいいじゃないっすか」
清田とは対照的に、桜木は笑った。まるで気にしていないようだ。かしかしと頭を掻きながら、照れたように困ったように視線を下にさまよわせる。
「いやー。そういうわけにもいかねぇんだな。あいつには借りがあるからよ」
「借りって?」
「ヒミツ」
まさか流川にシュートフォームを教えてもらっているとは、桜木も言えなかった。それはプライドが許さないだろう。けれども、そんなことは知らない清田は、はっきり言って面白くない。
そういえば、腕時計だってどうしてあの時間にアラームが鳴ったのだろう。あれはいつも流川が練習を切り上げる時間だ。
「つまんねーの」
思わず清田は本音を言う。
「あいつばっかり。流川は特別なのか? オレ、もっとあんたと勝負してーよ」
きょとんとした桜木の顔に、清田ははっと我に返った。子供特有の独占欲とわがままだ。取り消したい気持ちが、顔をかーっと紅く染める。
からかわれなくて幸いだ。桜木は、にかっと笑っただけだった。
「オレは楽しかったぞ、サルとのバスケ」
現金なもので、その一言で救われる。この際、サルと呼ばれたことなど、どうでもいい。
嬉しかった。嬉しくて、その辺を跳び回りたいくらいだ。清田は桜木を気に入った。
近くの池で、鯉がはねる音がする。ふと時計を覗き込んだ桜木は、その数字に清田を振り返った。
「ゆっくりしてていいのか? 本当に遅刻しちまうぞ」
うおうっと叫んで、清田は急いでランドセルを手に取った。担いでなんかいられない。すっかり時間を忘れていた。
駆け出した背中に、桜木の声が飛んでくる。
「気をつけていけよ」
清田は手を上げた。顔がほころんだ。
浮き足立つのを懸命にこらえながら、地面を蹴るように意識を集中する。
楽しいことが増えるのはいいことだ。
にやける顔を、どうしても止められない。でもいいのだ。これが正直な気持ち。また一緒にバスケがしたい。清田はそう思った。
騒がしい教室に、遅刻ぎりぎりに飛び込んできた清田は、やけに嬉しそうだった。上気した頬はまるで堪えられないほどにゆるんでいて、一目で何かいいことがあったのだろうとうかがい知れる。事実そうであるらしく「セーフ」と戸口で両手を広げた声は、とても明るいものだった。
清田とは対照的な心情で自分の席からその姿を眺めていた流川は、有り余っているうるさいくらいの元気にため息をつく。
まさかそれを聞きつけたわけでもあるまいに、清田はついとこちらを見た。ふいと流川は視線をそらす。
桜木と早くに別れて、今日の流川は不完全燃焼気味だ。鬱憤たまるこの気分に、清田の様子は不愉快だった。
しかし、嬉々として清田は人の間を縫ってきた。途中自分の机にランドセルを置き、流川の席の前までやってくる。主がいないのをいいことに、手近な椅子に腰を下ろした。
どうやら自分に用があるらしいと知って、流川は口を開きかける。が、その先に清田が身を乗り出した。あいさつもそこそこに、いきなり話し始める。
「楽しいな、あの人」
形を成さない言葉が耳に届いた。
何のことかわからずに、流川は眉間にしわを寄せる。その表情は周りの喧騒に紛れてか、清田には届かない。
いや、彼は今、自分の中の感情でいっぱいなのだろう。足をばたつかせ、顎をつき、その横顔は気分を隠そうともしない。
「いいなー、流川は。毎日あの人とバスケやってるんだもんな。オレもやりてー」
ふせていた流川の目が、一点を凝視しながら大きく開いた。
回想するように窓の外に視線を向け、桜木のことを話す清田の声など、もう耳に届いていない。流川はわななく手のひらをぎゅっと握った。
清田が浮かれている原因がわかった。
したのだ、こいつは。桜木とバスケを。自分がいなくなった、その後に。――したのだ。
――許せなかった。
許せなかった。無性に怒りがわいてきた。
流川がしぶしぶ引き上げたあと、清田は桜木とバスケをしてきたのだ。存分に楽しんできて、今嬉しそうに話している。
ふつふつと体が熱くなる。まるで金縛りにでもあったみたいだ。頭を上げることが出来なかった。
また桜木とバスケがしたい? だから何だと言うのだ。そんなのは、流川の知ったことではない。知ったことではなかったが、勝手にしろとも言えなかった。
なおも桜木との話を続ける清田を前に、流川の眼光が鋭くなる。その口を止めたかったが、流川は術を知らなかった。たまらずに日誌を広げ、今日の遅刻欄に清田の名前を書き始める。子供じみていることになど、かまってはいられなかった。
慌てだしたのは清田である。突然の無言の行動に、流川の意図など読めるはずもない。
「何書いてんだよ! オレ遅刻なんかしてねーぞ、ギリギリセーフだったじゃねぇかっ」
抗議しながら消しゴムで消していくも、はしから流川は新たに書き出す。
怒っているらしいとはわかったが、清田にはその原因まではわからなかった。いたちごっこを繰り返し、困惑しきってたまらずに聞く。
「何怒ってんだよ」
ようやく流川の手が止まった。ほっとして、清田は自分の名前を消す。
荒い息の奥で、ゆっくりと流川は口を開いた。担任がやってきたことなどお構いなしだ。
皆慌てて席に着く中、答えを待つ清田に向かって、流川の地を這うような声が発せられる。それは奇妙なほどに、いつまでも余韻を残した。
「あれはオレのもんだ。誰も手ぇ出すんじゃねー」
流川は自分を滑稽だと思った。醜いと思う感情を、どうしても止めることが出来ない。浅ましいまでの独占欲は、日を追うごとに増すばかりだ。
もっと近くに住んでいればいいのに。同じ歳ならよかったのに。
世界にたった二人だけなら、こんな思いも知らずにすんだのに。
最近、桜木の口から自分以外の名前が出ると、流川はそれに嫉妬する。桜木をどこかに閉じ込めて、独り占めにしたかった。見るもの思うものすべて、自分のことだけにしたかった。――無理だということは、わかっていたけど。
どうしてこんなに自分を持て余してしまうのだろう。流川はまだ、その名前に気付けないでいた。
湿気を含んだ強い風が吹き抜ける。
「朝練?」
7時35分。ボールをかばんに詰め込み、ランドセルを肩にかつぐ。
頷く桜木の赤い髪が揺れた。今日の天気は曇り。
「おう。いつもは自主参加なんだけどな、大会が近いから強制になっちまった」
「明日から?」
「そう。ここに来れなくなる」
出会ってまだ二ヶ月足らず。雨の日だって会えなかった。どうってことはないはずなのに、流川の心は一気に沈む。底なし沼に足を取られた気分だ。
県大会。それは流川も知っている。インターハイへの地区予選みたいなものだ。全国へ行くためには、まずこの緒戦を勝ち進まなければならない。
事が事なだけに、仕方がないのは流川にだってわかっている。バスケットボールは団体競技だ。チームワークを強化するための朝練を、流川が邪魔するわけにはいかない。
自分を説き伏せながら、流川は小さく「わかった」と呟く。渋々なのがあからさまな言葉つきだった。
大人びた微笑みを浮かべながら、桜木はぽんと流川の頭に手をのせた。大きな、無骨だけれど優しい温かい手が、その黒い髪をくしゃっとなでる。流川の意識はそれを追った。
桜木とこうして、ただ一緒にいるだけで流川は気持ちがよかった。たとえば今が真冬だとしても、流川は暖かさを感じることが出来るだろう。
ずっと、こうしていたかった。
「そういえば昨日、紅白戦で初めてシュート決めたぞ」
流川の瞳が大きくなる。その反応に気付いているのか、桜木は嬉しさがぶり返してきたような顔をした。
「失礼なことにみんな驚きやがってよ。でも、あん時のゴリやセンドーの顔、お前に見せてやりたかったなぁ」
「初めてかよ、情けねー」
桜木は肩をすくめる。
流川は憎まれ口しか出てこない自分が歯痒かった。
「ハルコさん以外、誰も褒めてくれなかったな」
赤木春子。桜木をバスケ部に誘った人。桜木の同級生で、桜木が好意を寄せている女。
「……みんなには、マグレだっつわれたの」
「それが当たり前だって言われた。センドーなんか、よかったなー桜木、だぞ。素直に喜べねぇって」
不平不満を言うとき、桜木は必ず口を尖らす。ひとつ癖を見つけたことに、流川は嬉しくなって笑った。ただそれは、一見してわかるものではなかったけれど。
「でも、よかったじゃねーか、本当に」
桜木の初めてのシュート。それを目の当たりに出来なくて、流川は少し悔しかった。
桜木が目を細める。時々見せる大人びた顔。それは弥が上にも年の差を感じさせ、流川を微かに不安にさせる。手の届かない、距離みたいなものがそこにあるようで、たまらなくなる。
でも桜木は、一瞬にしてそれを消してしまうこともある。
「ルカワのお蔭だな」
この季節、風は夏に向かう熱と雨季を呼ぶ湿っぽさを含んでいる。じっとりと肌にまとわりつくそれは時にうっとうしく、時に心地よい。駆け抜ける強風が、流川は好きだ。
今胸の中に、その風が吹いた。
初めて知った恋心を、流川はずっと胸にしまった。好きだという気持ちを言葉にはしなかった。
総体地区予選を見に行って、流川は知ったのだ。自分たちの見えない距離を。
準決勝で湘北が負けたとき、流川は桜木のそばによることすら出来なかった。恥ずかしげもなく涙を流す桜木を、晴子のように見守ることも、仙道のように慰めることも、赤木のように思い遣ることも、何一つ。小学生の流川には出来なかった。
目に見えない壁を心に持ったまま、二年が経って、桜木は地元で就職することが決まった。そのときに一度だけ、流川は想いをただ口にした。好きだ、と。流川が中学一年のときである。
どうしようもなかった。言いたくて言いたくて仕方がなかった。自分の気持ちを知ってほしかった。
突然のことに桜木は驚きを隠せなかったが、それ以上何も言わないでいるとポンと頭をひとつ撫でた。伏せていた目を上げ見ると、困った顔をした桜木がいた。流川は今でもその顔を忘れられない。
「オレも好きだぞ」
好きという言葉は厄介だ。自分の気持ちはちゃんと桜木に届いたのだろうか。
ありすぎる意味や種類は、同じ言葉でも同じものとは限らない。
流川は言ったことを少し後悔した。桜木を困らせた。迷惑だったのかもしれない、この想いは。
翌年になって桜木は公園に来なくなった。言われていたことだし分かってはいたが、会えない欲求は夜に爆発した。
罪悪感や後ろめたさ。はじめ感じていたそれも、今ではどこかにいってしまったが、毎夜桜木を思いながら手を腕を律動しているなんて、これだけは絶対に知られてはいけないことだ。
絶対に。
桜木のそばにいるためならそれくらいの嘘、流川は平気でつけた。
続く
⇒きまぐれにはなるはな