しがない探偵[4]
新幹線で、約二時間。さらに地下鉄を乗り継いで、瀬戸は、ある事務所の前に立っていた。そろそろ、仕事が終わる頃である。
この時期、日中はまだそれほどでもないが、日が沈んでいる間は肌寒さを感じる。ぞんざいに抱えていた背広に、瀬戸はたまらず腕を通した。
出入り口の明かりが落とされて、数人の従業員が出てきた。その中の一人が、いぶかしげに瀬戸を盗み見る。ずっと事務所をうかがっていたことに、きっと気付いているのだろう。瀬戸は軽くそれを受け流した。
しばらくして、一人の女性が事務所から出てきた。瀬戸に声を掛けてくる。
「あなたね。昼間、電話をかけてきたのは」
「堀由香里さんですね。ちょっと、お聞きしたいことがあります」
瀬戸は名刺を差し出しながら、彼女を凝視した。
六十近いはずなのに、全くそうは見えない。派手さはないが、しっくりと粋を極めているという感じだ。勝ち気な眼が、それととてもあいまっている。
――あまりいい気はしないが、なるほど、似ていなくもない。
くるりと由香里は踵を返した。
「探偵が、何の用かしら。二十年前がどうのとか言っていたけれど」
事務所の奥へと進みながら、由香里は問い質すように言う。瀬戸は無言でその後を追った。
多分、自分のデスクなのだろう。椅子に手をかけ、背を向けたまま由香里は続ける。
「何が聞きたいの」
瀬戸は答えない。由香里は苛々と、指先で背もたれを叩いた。何度も。
由香里は振り返ろうとはしなかった。カシャカシャと、背もたれが揺れる音だけが響く。
やがて彼女は言った。
「言っておくけれど、時効は成立しているわよ」
まるで切り札のような言い方だった。悪びれた感じが全くしない。
本当に彼女なのだろうか。この女が隆之の母親だとは、思いたくはなかった。
瀬戸は、ため息をついた。
「訴える気も脅す気もありません」
「……それじゃ、何なの」
からだ半分、由香里はこちらを向いた。瀬戸は、そんな彼女をねめつける。
その眼は一瞬、氷を思わせるような熱を映した。
「あなたが何故、あのような行為に及んだのか、動機が知りたいんです」
「動機……?」
由香里は冷ややかに笑う。
「今更そんなこと聞いて、どうなるって言うの。だいたい誰よ。何のためにそんな昔のこと、ほじくり返しているのかしら」
「……今のご主人からプロポーズされた直後に、事件は起こっていますね。何か関係でも」
「私の質問に答えなさい」
「知ってどうするんですか」
瀬戸の批判的な声に、由香里は口を閉ざした。目が微かに泳いでいる。
「また殺すんですか」
ごくりと由香里は息をのんだ。
「あなたをどうこうするつもりはないと言ったはずです」
由香里はしばらく瀬戸を凝視した後、乱暴に椅子に腰を下ろした。手で髪をかき上げる。
「何故、私が犯人だと……?」
「目撃証言からです」
手近な席に、瀬戸も腰掛ける。由香里は顔を上げた。とても驚いていた。
「目撃者がいるって言うの?」
瀬戸は何か、違和感を感じた。組んだ手を両膝にのせる。
「警察には言わなかったそうですが。誰なのかは、お教えできません」
「その人が私のことを調べさせているのね」
「勘違いなさらないで下さい。動機が知りたいのは、あくまで私自身です。誰の依頼でもありません」
「……堀は関係ないわ。あの人は、何も知らない」
由香里は深く、ため息をついた。
「動機と言ったわね。……なんてことはないわ。私の汚点を、消し去りたかっただけよ」
「汚点?」
上目遣いに、瀬戸は由香里を見る。彼女は煙草に火をつけた。
「山崎と知り合ったのは、24の時だったかしら。デザイン会社に就職して三年。アシスタントという立場から、まだ抜け出せないでいた。その会社が利用していた銀行に、山崎はいたの。顔見知り程度ね。でもある日、山崎の方から声を掛けてきて、何度か食事をするようになった。
そのとき私は会社に不満を抱えていて、山崎にいろいろ愚痴っていたのよね。あの人は嫌な顔ひとつせずに、それを全部聞いてくれた。関係を結ぶのに、さして時間はかからなかったわ。
子供が出来たと分かって、私達は結婚した」
由香里は一旦言葉を区切ると、煙草のけむりを吐き出した。
「私はとにかく逃げたかったのよ。いつまで経ってもアシスタントとしてこき使われて、デザイナーとしての私のプライドが押しつぶされそうだった。結婚しようって山崎に言われたとき、一も二もなく頷いたのよ。
子供が出来て、しばらくは私も幸せだった。山崎は私に優しかったし、あの子も順調に育ってくれた。でも、平凡すぎたのね。子育てが一段落ついたとき、仕事がしたいと思った。私のしたいようにすればいいって、山崎は反対しなかったわ。でも、子供を抱えた母親が簡単に仕事に就けるほど、世の中は好意的じゃなかった。
面接に行けば、子供がいることを話したとたん、嫌な顔をされる。入園手続きが済んでから、仕事を探すものだと嫌味を言われたこともあった。でも幼稚園じゃ、就業証明がないと、子供を預かってくれないのよ。役場にいっても取り合ってくれない。気が付いたら――殴ってたわ、あの子を」
淡々と言って、由香里は煙草の灰を落とす。
瀬戸は眉をひそめた。
「殴った……?」
「そうよ。だってあの子の所為だもの。全部。何もかも全部。
毎日殴ったわ。何度も殴った。誰にも知られないように、服で隠れる部分を、何度もね」
ちらりとこちらを見て、由香里はまるで煽るように笑う。瀬戸は腸が煮え返った。
「てめー……」
「でもバレたのよ、山崎に」
急に由香里は表情を消す。煙草をふかして、先を続けた。
「離婚しようって言われた。『君は病気だ。しばらく安静にするといい。子供は僕が預かるから、君はゆっくり病気を治すんだ。かわいそうに。愛しているよ。だから、また僕のところへ戻っておいで』
離婚して、しばらくはあちこちを転々としていた。はじめのうちは辛かった。苦しかった。あの子のことを愛していなかったわけじゃないけど、愛せなかった自分はやっぱり、病気なのかと思った。
全部忘れて、もう一度やり直そうと思ったとき、私はこの土地にいた。デザイナーとしての実力も、ここで認められた。嬉しかった。天にも昇る気分だった。
同じ会社で働いていた堀と、結婚を考えるようになったのは、それから程なくよ」
由香里は自虐に満ちた微笑を浮かべる。
「わかるかしら、あなたに。そのとき私は、嬉しさよりも怖さが大きく膨らんだのよ。
消さなくては、私の過去を。でなければ、私はきっと不幸になる。もう二度と、同じ過ちを犯さないように、消さなくては。過去の私を知るあの人を」
――それだけのことで!
瀬戸はカッと頭に血が上った。
たったそれだけのことで、別れた夫や子供を手にかけたというのか、この女は。
「手袋を用意して、髪も束ねてスカーフをかぶった。凶器は足がつかないように、山崎の家にあるものを使うことにした。七時少し前にあの人が帰ってきた。息を殺して待っていたわ。早く殺せと、何かが私を急かしていた」
由香里の手が、微かに震えだす。
「刺したとき――あの人、笑ったの。待っていたよって言って、笑ったのよ。怖かった。ただひたすらに怖かった。逃げるように離れたら、あの人、自分でナイフを引き抜いたのよ。何が起こったのかわからなかった。しばらくそこから動けなかった。
何とか電気を消して、家を出ようとしたとき、誰かが中に入ってきたわ。私はとっさに身を隠した。……隆之だった。あの子、倒れたあの人を見つけて、電話に手を伸ばした。咄嗟に思ったわ。冗談じゃない、私は捕まるわけにはいかないのよ。そんなこと、させはしない――。
気が付いたら、刺していた。
わかるはずはないと思っていたのに、あの子、母さんて言った。私の顔を見て、母さん。
……逃げる途中、知り合いには会わなかったはずなのに、一体誰に見られていたのかしらね」
その言葉に、瀬戸は思った。
もしかしたら由香里は、隆之が生きていることを知らないのかもしれない。
アパートに戻ると、鍵をかけたはずのドアが開いていた。泥棒かと思い、慎重に中をのぞいてみる。見慣れない靴が、玄関にあった。
「おじゃま」
ガラス戸の向こうから、ひょっこりと顔を出したのは谷川だった。瀬戸は肩の力を抜く。
「どうやって入ったんだ」
「管理人に開けてもらった。無用心だよな」
全くだと瀬戸は思う。
蛇口をひねって、コップ一杯の水をあおった。
「堀由香里。建築デザイン事務所、副社長。夫婦で仲良く経営か。子供はなし、と。――隆之が心配していたぜ」
机の上に置いてあった調査書類を読み上げながら、不意に谷川は言った。
鴨居をくぐり抜けて、瀬戸は上着をぞんざいに投げかける、椅子の背もたれに。
「ご心配なく。仕事で県外に行ってる事にしておいたから」
瀬戸はネクタイを緩めると、どっかりと腰を下ろした。ビールを飲みたい気分だったが、あいにく冷蔵庫の中は空っぽだ。道すがら、何か買ってくればよかったと後悔する。
谷川は、ぽんと書類を投げ置いた。
「会ってきたのか」
「――ああ」
あまり思い返したくはなかったが、瀬戸は谷川に、由香里から聞いたことを全部話した。谷川は、態度こそどうでもよさそうだったが、黙ってそれを聞いていた。
「あいつが虐待されていたこと、てめー知っていたか」
「いや。全然知らなかった」
谷川は悲しげに苦笑する。
「隆之に同情するんじゃなかったなあ。警察にちゃんと言えばよかった。――でも、どのみち隆之が苦しむか。まだ良かったのかもしれないな。加害者の息子より、被害者の息子でさ。世間ってのは、冷たいからな」
「あいつが生きていることは、あの女には言わなかったんだけど」
「いいんじゃねえ? 別に。いまさら言ったって何も変わんねーし、下手したら何か悪いことが起こるかもしんねえ」
煙草を吸ってもいいか、と言うのに頷きながら、瀬戸は疑問を口にする。
「オレにはわかんねー。何であいつは、あんな女を庇ったんだ」
「そりゃ、親子だからだろ?」
ふーっ、と谷川はけむりを吹き出す。
「子供にとって親ってのは、どうしたって親だからさ。憎みたくても憎みきれない。縁を切りたくても切れやしない。そんなもんだろ?」
そういうものなのだろうか。自分自身、あまり親のことを深く考えたことがないので、よくわからない。
隆之の傷を計り知ることは、瀬戸には出来ないけれど、ひとつだけ、強く思ったことがある。
「今日は行くんだろ? 相模」
台所に置いてあった空き缶に灰を落としながら、谷川は言った。時計を見て、瀬戸は答える。
「行ってくる」
「あ? 今からか? 仕込みの最中だぞ」
だから行くのだ。
靴を履き終えて、瀬戸は谷川を振り返る。鍵を投げ渡した。
「鍵、かけといて」
「へいへい」
谷川は大仰に肩をすくめる。困った奴だとでも言いたそうに、笑っていた。
十日振りに、瀬戸は居酒屋・相模の戸を開く。
思ったとおり、隆之は仕込みをしていた。相変わらず顔を上げずに「すんません」と言葉をよこす。
「ただいま」と瀬戸は言った。
隆之は勢いよく顔を上げ、驚いたように目を見開いた。しばらくそうした後、目を細めて嬉しそうに笑う。
「おかえり」
瀬戸は、後ろ手に戸を閉めた。
「何だ? 仕事の方はもう終わったのか?」
再び仕込みに戻る隆之。カウンターに腰掛けながら、瀬戸は頷いた。
「ああ」
「めずらしいな、県外まで行くなんて。家出人探しか?」
瀬戸はそれには答えずに、じっと隆之を見つめる。
「何だよ」
「二十年前の鵠沼の事件。調べ終わった、最後まで」
「……そっか」
「普通は、調査内容を依頼主に報告すんだけど、聞きてーか?」
隆之は、仕込みの手こそ止めなかったが、表情が暗くなった。しばらく間を置いて、ぼそりと答える。
「いらねぇ」
「んじゃ、結果報告だけ」
隆之は顔を上げた。
「結果報告?」
「てめーが言ったんだ。オレが望むんなら、恋人になってやってもいいって」
「そのことなんだけど」
手を止めると隆之は、瀬戸と向かい合った。先を続けさせまいと、瀬戸は言う。
「取り消しはきかねー」
「そうじゃなくて」
「好きだ」
身を乗り出した隆之に、瀬戸は畳み掛けた。
これまで何度も、隆之に言い続けてきた言葉だ。
「オレはてめーが好きだ。今までも、これからも」
隆之は、信じられないとでもいうような顔をする。
「てめ……全部調べたんじゃないのかよ」
「調べた。犯人もわかってる」
目を伏せると、隆之は上体を戻した。
信じられないのだろうか。
「言っておくが、同情とかそんなんじゃねーからな」
視線が絡んだ。
信じてくれるまで、瀬戸は何度でも言うつもりだ。
「オレじゃ駄目なんか。オレじゃ、てめーは幸せになれねー?」
しばらく見交わした後、隆之の顔がそこはかとなくほころんだ。一度下を向き、意地悪い笑みを浮かべながら顔を上げる。
「どうだろうな」
照れているのだ、隆之は。
瀬戸は内心、ほっとする。そして考えた。
「ぜってー幸せになれると思うけど」
大袈裟に隆之が笑う。
「すげぇ自信だな。断言していいのかよ」
そして、何事もなかったかのように仕込みに戻った。
ちょっと待てと瀬戸は思う。そちらの返事はどうなのだ。もちろん否とは言わせないけれど。
こちらのことなどお構いなしに、隆之はせっせと手を動かしている。答える気はなさそうだ。
瀬戸はカウンターに肘をつき、ため息をもらした。
まぁ、いいか。これまで通りで。
微笑をたたえながら、瀬戸は隆之を眺める。こぼれそうになったあくびをかみ殺していると、ちらりと隆之と目が合った。
「眠いのか?」
「……少し」
「寝るなら二階に行ってくれよ? そんなところで寝込まれたら、商売の邪魔になっちまうからな」
おどけた調子でそう言うと、隆之はにっと笑う。
瀬戸は思わず耳を疑った。それはとても、嬉しい言葉だった。
1999/10
⇒きまぐれにはなるはな