しがない探偵[3]
扉を開けると、すぐに谷川と目が合った。
瀬戸はそのまま、店の一番奥へと進む。人目を忍ぶにはもってこいの席に、腰を下ろした。
それを見て、谷川が同僚に耳打ちをする。
しばらくして、瀬戸のところまでやってきた。手には烏龍茶を持っている。それを、コトリと瀬戸の前に置いた。
「機嫌悪そうだな」
開口一番がそれか。瀬戸はぎろりと一瞥する。
肩をすくめて見せると、谷川は椅子に座った。
「調べてるんだってな、例の件」
昼間にでも、隆之と会ったのだろうか。いつもは取り立てて気にならないことなのに、今は瀬戸の癇に障る。
タバコに火を点けながら、おもむろに谷川は言った。
「それで。オレの名前でも出てきたか?」
瀬戸は目を瞠る。
冗談とも本気とも取れる口調だった。
どういうつもりだ?
「……てめーの名前が出てきたわけじゃねー」
ふっと横目で、谷川は瀬戸を見る。
商売柄か、谷川の思考はなかなか読めない。それは瀬戸もわかっているが、どうにも歯痒かった。
「事件を知る人間が少なすぎる。これまでわかったことっつったら、被害者の名前と、第一発見者の名字だけだ。山崎の息子の名前すら、わかんねー」
「ふーん……で、その第一発見者ってのは、谷川っていわねえか?」
煙草のけむりを吐き出しながら、谷川は言った。瀬戸は、その横顔を見つめる。
「協力しねーんじゃなかったのか」
短く、谷川は苦笑した。
「事情が変わったんだよ」
どんな事情があるというのだ。
もしかして、隆之は谷川が事件関係者だと知っていて、わざわざ瀬戸にこの話を持ちかけたのだろうか。そうだとしたら、何故? 隆之の意図は何だ。
「お前は、あいつのことが好きなんだよなぁ」
しみじみとした言い方だった。谷川の真意が見えない。
「……それが、どうかしたのか」
瀬戸は、烏龍茶に手をかける。谷川は肘をつき、煙草を持った手に顎をのせた。
店の程よい喧騒が、どこか遠くに聞こえる。
「前に、隆之がよく客の話をしたんだよ。それがまぁ、馬が合わないというか、いちいち癪に障るらしくて、顔を合わせるたびに愚痴られた」
突然始まった話に、瀬戸は戸惑う。
一体何が言いたいのだ? それが何か、関係があるのか。
「どうやら、出会いからそうだったらしくてな。一見に、いきなり『うるせー』って言われたらしい。ムカッときて、あいつも『これがウチの売りだ。嫌ならとっとと帰れ』と言い返したんだと。まだ見習いだったんだぜ。あとで、オヤジさんにしぼられたらしいけど。
とにかく、隆之がそう言ったのに、その客は帰らなかった。それどころか、次の日から毎日来るようになって、そのたびに、じっと隆之のこと見てるらしいんだな。これがまた、全然しゃべらない奴で、たまに口を開いたと思ったら『うるせー』だの『どあほう』だの。
でも、そう言って愚痴っているあいつの顔は、まんざら嫌ってもいないようだったけど」
そこまで言われて、瀬戸は思い当たる。
それは、自分のことだった。
谷川は瀬戸を見ると、微かに笑った。呆れたように、または、困ったように。どういう意味合いなのか、瀬戸にはわからない。
「実際、それがお前のことだとは、そのときオレにもわからなかった。あとで知ったときは驚いたぜ。何せ、オレのお得意様だったんだからな」
そこで、谷川は一度煙草を吸った。けむりを吐き出しながら、さらに続ける。
「まぁ、あいつは、何だかんだ言って、気に入っていたんだろう。自分の雑言に怒るでも怯むでもなく、対抗してくるお前がさ。
決定的だったのは、あれだな。隆之の作った料理を、褒めただろ、お前。店を任されるかどうかの、最終試験だったそうだけど、あの時、あいつは絶対、お前が『うまい』なんて言うはずないと思ってたんだと」
瀬戸は思い出していた。
あの日の隆之は、いつもとは様子が違っていた。
明るさがなかった。具合でも悪いのかと思ったくらいだ。それでも熱があるようには見えなかったので、瀬戸は特別何も言わなかった。
隆之だけではない。店全体が、どことなく緊張していた。
『食べてくれ』
少しかすれた声でそう言って、隆之はやけに慎重に料理を置いた。
新メニューの試食かと思ったが、そうではないらしい。以前からこの店にある料理だった。
それが何を意味するのか、その時の瀬戸にはわからなかった。
瀬戸は黙って、それに箸をつけた。
『どうだった?』
食べ終わるのを見計らって、隆之が聞いてきた。ひどく緊張しているようだった。
瀬戸は素直に答えた。
『うまかった』
そうだ、思い出した。そのとき初めて、瀬戸は隆之の嬉しそうな、はにかんだ顔を、真正面から見たのだ。自分の、隆之に対する感情を、思い知った瞬間だった。
「隆之がお前に、事件のことを持ちかけたのは、その所為だろうな」
灰皿に灰を落とすと、谷川は、そのまま煙草の火を消した。
瀬戸は顔を上げる。言われた意味が、よくわからなかった。
谷川はひとつ、息をついた。
「被害者の息子がいただろ。後ろからわき腹をやられた。オレのダチだ」
「……ああ」
ではやはり、谷川が第一発見者だったのか。
ようやく確信を得て、瀬戸は頷く。
「全治六ヶ月。身体の傷は、それほどでもなかったんだけど、心の方がな。お蔭で、それだけ長引いちまった。退院後は施設に世話になる羽目になったし、そこも卒業と同時にさようならだ。今でこそ、高校まで面倒見てもらえるらしいけど、当時はそうじゃなかったからな。
頼れる親も親戚もいねえ。何とか住み込みで働けるところを見つけて、やっとそれなりに生活できるようになった。そこが、相模だ」
「相模……?」
瀬戸は聞き返す。谷川は、目を上げるとふっと笑った。
「まだわかんねえ? そいつの名前は、山崎隆之。お前の、よく知っている奴だ」
一瞬、言葉がなかった。
瀬戸は知らなかった。隆之の姓が、山崎だということを。名前以外で呼ばれているのを、今まで一度だって、聞いたことがなかったから。
無意識に、瀬戸は烏龍茶をあおった。
「――だったら、何で素直に、父親を殺した犯人を見つけてくれって、言わなかったんだ? あんな、遠まわしに……」
「それは多分、目的が犯人探しじゃなかったからじゃねえ?」
……犯人探しではなかった……?
「第一発見者だったから、オレもいろいろ聞かれたぜ。不審な人物を見かけなかったか、犯人に心当たりはないか」
犯人探しではなかったのなら、何故ああいう言い方をしたのだろうか。まるで、未解決事件の真相を暴いてみないかというような。
「隆之も、容態が落ち着いてから聞かれたらしい。オレたちは、犯人については何も心当たりがないと答えた。警察は、簡単に鵜呑みにしたよ」
谷川の口調は、平然としていた。何か引っかかるところがあって、瀬戸は視線を移す。
「鵜呑み?」
「ただの中学生が、嘘をつくとは思ってなかったんだろ。嘘をつく理由も、見当たらなかっただろうから」
「――何か、知ってるのか。犯人を見たのか?」
谷川は、ゆっくりと煙草に火をつけた。
「オレは、犯行を見たわけじゃない。だから、犯人は知らない。ただ、その日の帰りに、あいつの母親らしき人を見ただけだ」
母親……。別れたという女か。葬儀にも来なかった。
「何でそのことを警察に言わなかったんだ」
「隆之に、何も言うなと言われたから」
それは。
それは、母親が犯人だということか?
「凄いもんだったぜ。家の中は真っ暗で、嗅いだことのない臭いっつーか、空気っつーか。喉の奥がザラザラするような感じだった。中に入ると、あいつが受話器に手をかけたまま蹲ってて、背中にナイフが突き刺さってた。そんな状態なのに、あいつは言ったんだ。何も言うな。誰にも言うな。
あいつの両親が離婚したのは、オレらが小学校に上がる前の年だったかな。突然だったな。その後、一度も会っていなかったから、オレだって確信が持てたわけじゃない。ただ、似た人を見かけたから、それを言いに行ったんだ」
『隆之ー。さっき、お前の母さんによく似た人がいたんだけど、会いにでも来たのかぁ』
「あいつが、何を『言うな』と言っているのか、すぐにわかった。犯人が誰なのかも、それでわかった。
あいつさ、あいつの父親もそうだったんだけど、母親のことを『かわいそうな人』て言ってたんだ。あの人は、かわいそうな人なんだって。それをずっと聞いてきたから、実際、何がどうかわいそうだったのかは、オレは全然わからないんだけど、それ聞いていたから」
「だから、つい庇ったっつーんか」
「隆之を、助けたかったんだ」
瀬戸はため息をついた。
迷路だ。これはまるで迷路だ。
透明な壁に囲まれて、行き場を失っていることに気付いていない。
「警察も馬鹿じゃないから、一応調べたらしいけど、動機がなかった。親権、慰謝料、そういう揉め事はなかったようだし、第一離婚して七年間、何の連絡もとってなかった。保険金や遺産も、あの人には全く関係ない。殺しても、得がないんだ。殺す理由がない。結局、結論は白だ」
谷川の煙草は、もう半分灰になっていた。それを慎重に灰皿に落としながら、谷川はくっと笑う。
「知ってるか。実は自殺説もあったんだぜ」
「自殺?」
「心中未遂と言うべきか? この世界に入ってから、小耳にはさんだんだけどな。ガイシャの死に顔が、とても穏やかだったらしいんだ。殺されたようには、見えなかったんだと。しかもどうやら、凶器を身体から抜いたのは、本人だったらしい。血のついた指紋が、はっきりと柄に残っていた。でも、隆之の方からは、それらしい指紋が一つも出てこなかったんで、あっさりその説は否定されたそうだ」
「調べていたのか」
「片手間にな。何もわからないまま抱えていくには、重すぎる」
そう言って、谷川は深く、煙草を吸い込んだ。
「オレは、あいつを守ってやるつもりで、結局は何の救いにもなってやれなかった。同じ迷路に迷い込んで、うろうろ彷徨うしか出来ない。オレは、あの人には手を出せない。目を瞑っている隆之に、真実を突き付けることは出来ない。――オレも、心底では、知りたくないのかもしれないな。
でも、いつまでもこのままではいられない。隆之は、本当は出口を求めているのかもしれない。だからお前に話したんだろう」
諦めにも似た、慈愛に満ちた微笑みを、谷川は浮かべた。
わからない。
谷川が何を言わんとしているのか、隆之が何を望んでいるのか、瀬戸にははっきりと理解できない。
瀬戸は、残りの烏龍茶を飲み干した。
この迷路は、透明であるが故に、迷うものなのだろう。
恨んではいけないと教えられた。恨んではいけない、お母さんは、かわいそうな人なんだ。
父の言葉だ。父は、母を愛していた。母しか、愛していなかった。
開け放たれた窓の下。隆之は、壁にもたれかかっていた。目の前には、殺風景な部屋が広がっている。相模の二階。
瀬戸に事件の話をしたのは、賭けだった。彼なら、すべて認めてくれると思ったのだ。自分のすべてを。
でもやはり、自分は誰からも愛されないのかもしれない。
瀬戸が来なくなってから、一週間が経っていた。『怒らせたのが、まずかったんじゃないのかい』と言っていた常連も、昨日は『きっと仕事が忙しいんでぃ。気にするな』に変わっていた。心配かけまいと、気にしていないように振舞っていたのだが、すべてお見通しだったらしい。苦笑するしかなかった。
あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
真っ暗な部屋の中で、父が倒れていた。どこか生臭い匂い。駆け寄ると、足元がぴちゃりと音を立てた。揺さぶった手が、ぬるりと父の身体を滑る。
そばに落ちていたナイフで、それが何なのかすぐにわかった。思わず、服で手を拭った。
どういうことかわからなかった。何が起こったというのだろう。
そうだ。とにかく、救急車だ。そう思って、受話器に手をかけたとき、背中に鈍い痛みが走った。
振り返って見た顔は、女だったとしか覚えていない。その人は、力の限り何かを背中に押し込んでいた。やがてそれは激痛に変わった。
『母さん』
それは、口から勝手に出た言葉だった。彼女ははっと顔を上げ、自分を凝視したあと、手を放した。そのまま二、三歩あとずさって、隆之の視界から消えていった。
佑介には、悪いことをしたと思っている。何の関係もない彼を、自分の傷に巻き込んでしまった。
隆之は外を見た。いつもと変わらない景色が、そこにはあった。
やはり瀬戸は、離れていったのだろうか。隆之の過去を知って、見捨てたのだろうか。
それでもいいと思っていた。そうなっても大丈夫だと思っていた。でもだめだ。気になって仕方がない。そばにいて欲しくて仕様がない。
思い余って、隆之は電話帳を手に取った。瀬戸の電話番号を見つけて、ダイヤルを回す。寝ているのだろうかと思って何度もベルを鳴らしたが、繋がらなかった。
受話器を置いて、住所を書き写す。
隆之は、そのまま家を飛び出した。
ようやく見つけたアパートの、古びた階段を駆け上がる。途中、すれ違った男が、何事かと隆之を振り返った。
数回、扉を叩いてみたが、返事はない。ノブに手をかけてみたが、鍵がかかっていた。郵便受けには、ねじり込まれた新聞紙。
――いない。
「何か、お困りごとですか」
掛けられた声に、隆之は振り返る。
「よろしければ、承りますが」
階段の中ほどに、浅黒い肌の男が立っていた。誰だろうと隆之は思う。
「――いえ」
「そうですか」
そう言うと、男は身を翻した。隆之は、慌てて手すりに駆け寄り、呼び止める。
「どこにいるのか知りませんか!」
「……瀬戸ですか? あいにく、私も探しているのですよ」
「そうですか……」
男は軽く会釈すると、そのまま階段を下りていった。
隆之は、落胆の息をつく。
一体彼はどこに行ったのだろう。とても不安でたまらなかった。けれどもそれと同時に、この扉にまだ、瀬戸の名前があることを、隆之はひどく喜んだ。
続く
⇒きまぐれにはなるはな