しがない探偵[2]
事件があったのは、二十年前の十一月。
殺されたのは、山崎正行、39歳。地元の銀行で、融資担当だったらしい。
刃物による刺殺。前から右腹部を一刺しされた後、えぐられたような形跡があり、死因は出血多量によるショック死。凶器は、山崎氏の家のものらしい。当時12歳の長男も刺されたが、こちらは一命を取り留めたようだ。
その頃周辺で連続的に起こっていた強盗殺人との関連、それと、仕事上のトラブル、この二点で捜査を進めたようだが、結局、犯人には結びつかなかった。
通報したのは、近所の主婦。
二十年前の鵠沼は、若い夫婦向けの借家が軒を連ねていた。事件のあった家も、そのひとつだ。家族がまだ残っているという可能性は、低い。
それに、当時を知る人間が、どれほどいるだろう。通報をした主婦も、運良く見つけられるかどうか。
知らず、瀬戸はため息をつく。
これは相当、厄介だ。
とりあえず、瀬戸は銀行の方を当たってみた。山崎が勤めていた支店では、彼を知るものは一人もいなかった。当然といえばその通りだ。当時の行員のほとんどが、すでに退職していた。
運良く、数人から話を聞くことができたが、大抵が入社したばかりだったので、事情がよくわからなかったというものだった。当時の状況と山崎の人柄から、トラブルがあったとは考えにくいとの答えもあった。
強盗殺人のほうは、もともと線は薄かったらしい。盗られた物が何もなかったからだ。後に犯人は捕まったが、この件に関しては、犯行を頑なに否認したという。
「オレのこと、嫌い?」
つい、そう愚痴ってしまった。無理もない。
ぼそりとこぼした言葉は、しかし皆の耳に届いたらしい。動かす手を休めずに、カウンターの向こうから隆之の返事が返ってくる。
「また、何寝ぼけたこと、言ってんだよ」
居酒屋・相模。いつの客が、げらげら笑った。聞こえていたことに、多少面食らったが、それには構わず、瀬戸は続ける。今度はしっかり隆之を見て。
「だから、あんな無理難題、吹っかけたんだろ」
これは全く本心ではない。事件を解決する意気込みは、充分にある。しかし、瀬戸はあえて言った。
ふっと隆之の口元がほころぶ。
「何言ってんだよ。オレは別に、強制はしてねぇぞ。やるのもやらないのも、てめーの勝手だって言っただろ」
まるでからかっているかのように、ちらとも隆之はこちらを見なかった。
「それは、オレを諦めさせるためだろ、つまり」
冷めた口調でしつこく言い募ると、隆之はむっと顔をしかめた。わっかんねぇ奴だな、と語気を強め、瀬戸を見る。
「オレがいつ、てめーのこと嫌いだっつったよ」
げらげらと、客が笑った。手で拡声器を作る。
「おー、隆。のせられるんじゃねーぞぃ」
ようやくこちらをむいた隆之が、その野次で赤くなる。はっとして、慌てて顔を背けた。言いたいことを言いながら。
「好きだとも、言った覚えはねぇけどな」
隆之の悪態は、照れ隠しであることが多い。
口元を手で隠しながら、瀬戸はこっそり笑った。
瀬戸にはひとつ、疑問があった。
隆之は、何故この事件を指定したのだろうか。犯人が捕まっていないからか。
この界隈で、近年未解決の事件といったら、これだけだった。幸い、時効も迎えている。暇を持て余す探偵には、もってこいということか。しかし、真犯人を知るものは、誰もいない。でっちあげても、それまでだ。
それとも、犯人を知っているのだろうか。
隆之は、殺人事件の犯人を調べてみる気はあるかと言った。
犯人を割り出すのか、その人物自身を調べるのか、どちらとも取れる言い方だ。
「……調べてんの」
ふと、声が降りかかる。
顔を上げると、仏頂面の隆之が、横を向くようにして立っていた。目を合わせないようにしているらしい。
「調べてる」
瀬戸は答えて、箸を動かす。隆之は、ほんの少し、目を伏せた。
「……そ」
その仕草は、一体何を意味しているのか。
「おー、隆。そんなところで二人っきりになっていないで、酒くれ、酒」
ふたつ空けた隣の席で、ぷらぷらとコップを揺らしながら、ほろ酔い気分で客が言う。
隆之は、上目遣いに軽く睨みつけると、わざとらしくため息をついた。
「この狭い店で、どうやって二人きりになるってんだよ」
「何でぇ。本当はなりてーのかい」
ニヤニヤ笑いながら、わざと勘ぐる振りをする客。
「本音が出たな。ポロリとな」
「うるせぇ。さっさと帰りやがれ」
いっそ見事なまでに、相変わらずの反応。
常連の二人は、きっと笑い上戸なのだろう。
店内に、いつもの如く、花が咲いた。
鵠沼は、瀬戸の最寄の駅から三つばかり離れたところに位置する、閑静な町だ。
見たところ、古くはない家が立ち並んでいる。およそ借家とは思えない、いわゆる庭付き一戸建てが、のどかな間隔で続いていた。
あてにできそうにない。
瀬戸は思ったが、だからと言って何もしないわけにはいかない。緩めようかとしたネクタイをそのままに、とにかく瀬戸は、手近なところから聞き込みを開始した。
井戸端会議を繰り広げている主婦から得た情報では、ほとんどの家が十数年前に建てられたものらしい。事件については、噂で聞いたくらいだそうだ。
誰か当時を知っていそうな人はいないかと尋ねたところ、西田という名前が出た。以前からの住人で、大家と親しい間柄だったらしい。話好きな主婦ということだった。
訪れてみると、その家は留守だった。
この辺りでは大きめな、見たところ経済的に何不自由なさそうな、そんな感じのたたずまい。
しばらく、人の気配を探ってみたが、何の反応もなかったため、瀬戸は出直すことにする。
ふと見ると、こちらを訝しげに見ている女性と目が合った。
どこかで見た顔だ、と瀬戸は思う。
買い物帰りを思わせる紙袋を手に、彼女は恐る恐る近付いてきた。警戒心から察するに、西田夫人だろう。
「あの」
声を掛けようとした瀬戸をさえぎるように、彼女は言った。
「……楓くん?」
瀬戸は驚く。それは、バイト先での名前だった。
すると、この女は客か。
軽く目礼を返すと、彼女は「やっぱり」と顔をほころばせた。
「一体どうしたのよ、こんなところで。最近は、ちっともお見限りだし」
幾分、恰幅のいい体格から容易に想像できる、人のいい笑顔。
「西田さんでいらっしゃいますか」
瀬戸がそう切り出すと、彼女は戸惑うような顔をした。
「そうですけれど……」
名刺を差し出しながら、瀬戸は切り出す。
「実は、お聞きしたいことがございまして」
「瀬戸俊……探偵さん?」
読み上げて、困惑しきった顔で、彼女は瀬戸を見上げた。
「よろしいですか」
にこりともしない瀬戸に、彼女は何かを感じたのだろう。優しく微笑むと、こくりと頷いた。
「とりあえず、家の中へどうぞ。楓くん」
察しがいいのか、したたかなのか。
女は裏が読めないから、嫌いだ。
「二十年前の殺人事件……山崎さんの?」
ダイニングへ通された瀬戸は、勧められた紅茶を断りながら話を切り出した。
「楓くん、それを調べているの?」
それには答えずにいると、彼女は別に気を悪くするでもなく、「覚えているわよ」と言った。
「忘れられるわけがないわ」
思い出したくもないのだろう。無理もない。しかし、話してもらわないことには、瀬戸もどうしようもなかった。
「お聞きしてもよろしいですか」
「楓くんの頼みだもの、仕方ないわね」
彼女は苦笑した。
「それで、何が聞きたいの」
「山崎さんの、ご家族の方は。今どちらにいらっしゃるか、わかりませんか」
「わからないわね。山崎さんとは、あまりお付き合いがなかったから」
彼女はため息をつくと、首を左右に振った。
二十年前のことだ。忘れているという可能性もある。瀬戸は、思い出させるように言った。
「奥さんの実家とか」
「いらっしゃらなかったわよ、奥さん」
紅茶に口をつけかけて、彼女は顔を上げる。
「いなかった?」
「ええ。離婚なさったみたい。前は一緒に暮らしていたそうだけど、私がここに来たときには、もう息子さんと二人暮しだったわ」
「離婚の原因は、わからないんですよね」
駄目で元々と聞いてみる。
「ええ。奥さんがどんな方だったかも。息子さんの方は、退院なさってから、どこかの施設に入れられたそうだけど」
「親戚に預けられたわけでは、ないんですね」
「いらっしゃらないんじゃないかしら、親戚の方。お葬式にも、誰も来なかったから」
別れたという母親も、来なかったということか。
「すると、誰が葬儀を」
「谷川さんよ。息子さんが同じ年でね。いろいろ面倒見ていらしたわ。あの日も、夕食に誘おうと、息子さんが呼びに行ったみたい」
「それじゃ、彼が第一発見者と言うわけですね」
谷川、と手帳に記しながら、瀬戸は問う。
「そう。それで奥さんが慌てて通報したのよ。大変だったわよ」
苦労話が始まりそうな勢いだった。瀬戸はふと、目を上げる。
「その、谷川さんは、今」
気がそがれたのか、乗り出していた身を、彼女はソファに沈めた。
「十年ほど前に、旦那さんの実家の方へ引っ越されたわ。茨城だったかしら。あ、でも、息子さんはこっちに残っているみたいね」
ようやく見つけた次の足がかりに、瀬戸は内心、息をつく。
「名前、わかりますか」
「ごめんなさい、それはわからないけれど。本町の駅前で、時々見かけるわ」
本町の、駅前。
書きながら、上に並んだ文字と見比べる。
……これは、偶然だろうか。
瀬戸は、立ち上がった。
「どうも。いろいろ、ありがとうございました」
「いいえ。お役に立てなくて」
少し残念そうに、彼女も席を立つ。別れ際に、彼女はにっこり笑ってこう言った。
「またお店でお会いしたいわ、楓くん」
相模に顔を出してみたが、お目当ての姿はなかった。時間はまだ、六時を過ぎたばかりだ。
「谷川は?」
「おめーじゃねぇんだ。毎日来ているわけじゃねぇ」
そう言うと、隆之は当然の如く、瀬戸の指定席にお手拭を置いた。
今日はそんなつもりはなかったのだが、思い直して、腰を下ろす。
「佑介に、何か用か?」
「……別に」
手を拭きながら、素っ気なく答える。
隆之は、肩をすくめると、気にするでもなくその場を離れた。
……谷川という名前は、そう珍しいものでもない。ただの偶然という可能性もある。しかし、瀬戸は気になって仕方なかった。
隆之が、事件のことを切り出したとき、谷川はひどく驚いていた。
山崎の息子と同じ歳だという第一発見者。二十年前の当時、彼は12歳だった。
谷川は確か、33歳。山崎がまだ誕生日を迎えていなかったとしたら、つじつまは合う。
これは本当に、ただの偶然だろうか。
「何考え込んでんだよ」
からかいを含んだ声に、瀬戸ははっと顔を上げる。隆之が味噌汁を持ってきていた。
「飯食うの?」ととりあえず聞いてくる。
少し考えて、瀬戸は答えた。
「……いや、今日はいい」
「あっそ」
素っ気なくそう言うと、隆之は瀬戸の前を離れた。もう少し、気にしてくれてもいいのではないかと思う。
「何でぃ。今日は元気ねーじゃねえか」
代わりに常連がそう言った。彼に言われても、嬉しくもなんともない。
いつものように無視をしたが、慣れているのだろう、突っ掛かられることはなかった。
味噌汁を啜りながら、瀬戸は考える。
谷川が本人だとして、彼は何故、そのことを隠しているのだろう。根掘り葉掘り聞かれるのが嫌だからか。だから手は貸さないと言ったのだろうか。それとも、何か自分の身に降りかかる、重大な秘密でもあるのか。
もしそうだとしても、隆之には打ち明けてもいいのではないかと思う。事件のことを知りたがっているのだ。仮に犯人について何もわからなくても、協力ぐらいしてやればいい。それとも、もう話してあるのだろうか。そのようには、見えないけれど。
そもそも、この事件は、隆之にとってどんな意味があるのだろう。
「……おい」
椀を見つめながら、瀬戸はぼそりと隆之を呼んだ。
訝しげな声が返ってくる。
「何だよ。味噌汁ん中に、何か入ってたか?」
瀬戸はゆっとりと顔を上げる。
「あの事件、一体何なんだ」
隆之は、じっとこちらを見ているだけだった。その表情からは、何も読み取れない。
瀬戸は少し、いらついた。
「何があるってんだ」
考えても、何もわからない。
ふっと、静かに隆之は笑う。
「それを調べるのが、取引の条件だろ」
そんな隆之の様子を、瀬戸は今まで見たことがなかった。
これまではいつだって、隆之の感情というものが手に取るようにわかっていたのに、事件のことを口にして以来、時々読めないことがある。
何故なのだろう。
隆之は、何かを隠しているような気がする。
「……谷川とは、いつからの付き合いなんだ?」
「――古い付き合いだぜ?」
にやりと笑うと、まるではぐらかすかのように隆之は言った。
「何だよ、嫉妬か?」
嫉妬なんだろうか。杞憂なんだろうか。
この、胸の中に渦巻くものは、一体何なのだろう。ざわざわしていて、落ち着かない。
「……犯人を突き止めたら、オレのものになるんだったよな」
そう聞くと、隆之は寂しげに笑った。
「てめーがそれを望むんならな」
その言葉は、いっそう瀬戸を逆撫でた。
では、隆之の本心は、どこにあるのだ。一体彼は、何を望んでいるのだろう。
「後で、冗談だっつっても、聞かねーからな」
瀬戸は、カウンターに小銭を置くと、そう言い捨てて席を立った。
隆之に答える気がないのなら、それでもいい。谷川に聞くまでだ。
続く
⇒きまぐれにはなるはな