しがない探偵[1]

 いわゆる街の喧騒から、一本入ったところに『居酒屋・相模』はある。
 カウンター八席、座敷テーブル二脚の、こじんまりとした店だ。昔ながらのガラスの格子戸はもちろん引き戸で、店ののれんをくぐり抜けてくるのは、いつもながらの常連客。出迎える店の主は、毎度威勢のいいことで。
「おう、隆。また来たぞぃ」
「らっしゃい!」
 隆と呼ばれたこの主。実は二代目である。
 先代がまだ現役の頃、彼はここで従業員として働いていた。器量もいい、愛想もいいとあって、彼は先代夫婦にたいそう気に入られた。天涯孤独という身の上も、理由の大きなひとつだろう。
 歳を盾にとって、先代が引退をしたのは、二年前のことである。
「動けんようになってから引退するのは当たり前。今のうちにさっさとおめえに押し付けて、わしらは存分余生を楽しむわい」
 粋で豪快な人だった。二代目の人柄も、先代とよく似ている。
「なんだい。今日も電話番のあんちゃんは、来てねえのか」
 カウンターの一番奥の席が空いている。後ろに電話が置いてあるので、ここを指定席としている人物は、常連に「電話番」と呼ばれている。
 濡れたような黒髪と目が印象的で、ひっそり目立たなさそうなのに、人目は引く男だ。いつも眠そうに気だるげで、顔の色だっていいとは言えない。稼業は探偵。生活が苦しいときは、ホストクラブでバイトをしているらしい。
 瀬戸俊という。名は体を表すのか、顔立ちはきれいだ。もったいないくらいに。
 瀬戸の話題が出て、主はむっとした。常連の一人、谷川佑介はそれを宥めるでも煽るでもなく、薄ら笑いを浮かべる。
「何笑ってんだよ、佑介」
「いや、お前があんまり不機嫌そうなんで」
「やっぱりあれかい。名物男がいないと、隆もつまんねえかい」
 酒の勢いもあってか、みんな結構絡んでくる。いつものことだ。客の楽しみの一つに、店主の隆之をからかうというのがある。
 これがまた、打てば響くというのか、面白いくらいに反応するのだ。
「誰が名物男なんだよ」
「相模の名物じゃないか、え。男を口説く男なんざ、な」
 隆之は、平静を装っていたが、顔はすでに真っ赤になっていた。それを見て、皆は一斉に笑い声を上げた。まだ六時を過ぎたばかりだというのに、半分出来上がっているようだ。
「やっぱあれかい。お前さんも、好きだー好きだー言ってくれるのがいないと、少し寂しいかい。いつもつれなくしてんのに」
 ダンッ! と、酒がなみなみと注がれたコップを、隆之は力任せに差し出した。
 一瞬、しん……となった店内を、隆之はぎろりと見回す。
「うるせぇぞ。それ以上言ったら、出てってもらうからな」
 至極真面目な隆之を一掃するように、店中笑いさざめいた。素直な反応が読み通りで、笑いのツボに入ったらしい。
 隆之は、怒りでしばらく肩を震わせていたが、やがて諦めてため息をついた。酔っ払い相手に本気になっても、自分が惨めになるだけだ。墓穴だって掘りかねない。
 にやにやと、半ば傍観者気味に食事をしていた谷川が、「さてと」と言って椅子を引いた。
「それじゃ、オレはぼちぼち行くかな」
 ご馳走さん、とカウンターに小銭を置く。
 隆之は谷川に顔を寄せると、ひそひそと耳打ちをした。
「佑介のところにも、顔出してねぇんか」
 俯き加減をこれ幸いと、谷川は苦笑を漏らす。
 隆之は、細心の注意を払っていた。他の客の耳に入らないように。つまりは、瀬戸のことを指している。
「来てねえな。仕事でも入ってんじゃねーの」
「どっちの」
 勘定を数えている。
「さあ」
 谷川は、肩をすくめた。


 件の瀬戸が谷川の勤め先にやってきたのは、その日だった。
 本町の駅に程近い繁華街。とあるビルの地下にあるバー。気取っているわけでもなく、かと言って寂れてもいないそこは、男女問わず、誰もが気軽に入って行ける店だ。谷川はそこで、バーテンダーをしている。
 瀬戸が初めてこの店に来たのは、五年前のことだ。例のバイト先の客に連れられてきたのがきっかけだ。以来、店の雰囲気が気に入ったようで、たまに顔を出すようになった。そこに谷川がいたというのも、大きな要因だろう。これは極秘だが、実は谷川は情報屋でもある。
 お決まりのワイシャツにネクタイ姿で現れた瀬戸は、ひどく疲れ切っていた。ロックを頼んで、ため息をつく。
「やけに疲れてるな」
 ウィスキーを注ぎながら、谷川は聞いた。
「疲れたなんてもんじゃねー」
 ともすれば、このままカウンターで寝てしまうのではないかというような感じで、瀬戸は答えた。
 どうやら仕事を終えてきたらしい。しかし、どちらの仕事やら。
 言ってしまえば、瀬戸はとても無愛想だ。冗談でもいいとは言えないくらい、無愛想だ。そんな男が、何故ホストをやれるのか。それはひとえに、顔である。
 女好きのする顔。それだけで、彼は臨時のバイトとしてやれるのだ。
 しかも、客に媚びないその態度がいいという意見もあったりする。
 瀬戸本人は、女には全く興味がないのだが、稼ぎがいいというだけで、生活費に困ると一日二日、やっているようだ。お蔭でこの界隈では、幻のホストと称されている。隆之に言わせれば、全くふざけた話だ。
「隆之が心配していたぞ」
 コースターの上に、グラスを置く。瀬戸は目を上げた。
 半信半疑なのか、それとも感情がわいてこないほどに疲れているのか。
 一口、こくりとあおってから、瀬戸は言った。
「明日、調査書まとめて報告済ませたら、行く」
 なるほど、どうやら本職の方だったらしい。
「あいつ、元気?」
「相変わらず」
「二週間も会ってねー。死ぬかと思った」
「それは、それは」
 谷川は呆れながら、お前も相変わらずだね、と胸の中で続ける。それから、うつろな目付きの友人に、寝るなら帰ってからにしろよと忠告をした。


 瀬戸俊、32歳。今はしがない探偵だが、以前は興信所で働いていた。腕はよかった。27歳の時に独立したのだが、看板を掲げていないので、なかなか仕事は来ない。興信所の所長が、事務所を構えるように勧めるが、それは経費の無駄だと瀬戸は思っている。
 仕事の依頼は、自宅の電話で受ける。詳しい話は、先方へ出向けばいい。あるいは、どこかの店で打ち合わせをする。これで事足りる。仕事には自信があるので、あとは口コミを当てにするだけだ。でも、これがなかなか上手くいかない。たまに入ってくる仕事は、けちな家出猫探しや、夫の浮気調査ばかりだ。
 そんな瀬戸を憐れんでかは知らないが、所長が時々仕事を回してくれる。今回の仕事も、そうだ。
 ある企業の癒着疑惑。ライバル会社から、裏を取ってくれというものだった。
 汚職の現場は押さえにくい。裏は簡単に取れたのだが、決定的証拠を写真に収めるのに、二週間を費やした。いや、これでも運のいい方だ。
 瀬戸は、調査内容を依頼主に報告した足で、居酒屋・相模へ向かった。
 偶然入った三年前から、瀬戸は毎日のように通っている。それはもちろん、隆之に会うためだ。ほぼ一目惚れだった。うるさい奴、と思っていたが、自分とは全く正反対の、豊かな表情に、つい見とれたのが始まりだ。口が悪く、一見がさつそうだけれど、とても繊細で優しい。そこに惹かれた。
 カラカラと戸を開けると、カウンターで隆之が仕込みをしていた。顔を上げずに、「すんません。ここ、五時からなんすよ」と言う。
「どあほう」
 瀬戸しか使わない呼び名で、声を掛ける。
 隆之は顔を上げると、ほっとしたように微かに笑った。
「なぁんだ。おめーかよ」
 照れているのを誤魔化すかのように、素っ気無く言い放つ。語尾に苦笑が混じっていた。
 瀬戸は、ふらふらとカウンターに近寄った。
「どっかで死んでんのかと思ったぜ」
「死ぬかと思った」
 ぼそりとそう漏らすと、隆之はひどく驚いたようで、手を止め身を乗り出そうとした。その前に、瀬戸は続ける。
「てめーに会えなくて」
 とたんに、隆之の動きが止まる。眉間に深いしわを寄せ、彼は無言で仕込みに戻った。
 しまった、と瀬戸は思った。
 些か悔やみながら、やわやわと椅子に腰を下ろす。
「……眠てー」
「アパート帰れば」
 つっけんどんな言葉が返ってきた。どうやら怒っているらしい。下手に心配をかけただけに、反動が大きいようだ。
 ポリポリと、瀬戸は頭をかいた。
 そして甘える。
「めんどくせー。二階で寝かせて」
 この店の二階は、隆之の住居である。今まで、一度だって通してもらえたことがない。
「ダメ。絶対、駄目」
 ご丁寧に、首振り付だ。
 瀬戸は本当に眠たかった。何しろ、このところ張り込みのお蔭で、睡眠時間が大幅に削られたのだ。ただでさえ、人よりも睡眠を貪る方なのに。
 ぐだぐだと、突っ伏しながらとぐろを巻く。
 しばらくして、見かねた隆之が言った。
「そこの座敷でなら、まぁ、許してやる」
 瀬戸は、いそいそと立ち上がる。テーブルを端に寄せ、座布団を枕代わりに横になった。
 ちらりと隆之が窺っていると、瀬戸は五秒も経たないうちに、寝息をたて始めた。


 ざわめきに、瀬戸は目を覚ます。見慣れない天井に、一瞬、記憶喪失者の気分を味わった。
 名前の知らない顔なじみが二人。そして、谷川と隆之。ここが相模だと、思い当たる。
 のっそりと体を起こすと、誰かが目ざとく声を掛けてきた。
「お。お目覚めかい」
 それには答えずに、靴を履く。いつもの席に腰を下ろした。ちょうど、谷川の隣である。時間を確認したわけではないが、まだ六時半前らしい。それを過ぎると、大抵谷川の姿はなくなる。仕事に出かけるのだ。
「熟睡していたな」
 居酒屋で、食事だけとるやつも珍しい。谷川を見ると、瀬戸はいつもそう思う。自分も似たようなものなのだが。
「久し振りに、よく寝た」
「そいつはよかったな」
 ご飯と味噌汁を目の前に置きながら、隆之は言った。その心配りに、瀬戸は手を合わせる。
「なんだい。珍しく、忙しかったのかい」
 答えないとわかってか、代わりに谷川が頷いた。
「らしいですよ」
「探偵だって? やっぱり、ドラマみたいに、事件なんかに巻き込まれたりするのか、ん?」
「そんなに派手じゃないですよ。地味ですよ」
「あん? あんちゃん、やけに詳しいじゃないか」
「仲いいっすから」
 はぐらかすように、谷川は苦笑して見せた。
 その間も、瀬戸は黙々と箸を動かす。
「そっちの仕事だったのか」
 確かめるでもなく、ぼそりと隆之は呟いた。しっかり、瀬戸はそれを拾う。
「何」
「なんでもねぇよ」
 聞き返すと、隆之はぎょっとしていた。独り言だったらしい。何が言いたかったのかを察して、瀬戸は言い訳をする。
「バイトなら、しばらくしなくて済む」
 今回の仕事は、企業相手なだけに、かなりの報酬だった。当分、くいっぱぐれることはなさそうだ。
 何を思ったのか、じっと隆之は瀬戸を見た。
 もう一度「何」と聞くと、隆之は歯切れ悪く「いや」と言って傍を離れた。
「でもなぁ、電話番のあんちゃんよぉ。やっぱり、何だ。その、事件ぽいやつってのは、やってみたいもんなのかねぇ」
 さすがに答えられないと、谷川は瀬戸を振り返る。しょうがないと思いながら、瀬戸はそれに返事をする。
「興味はあります」
「はあー、やっぱり、そんなもんかねぇ」
 でも、そんな依頼はまずもってない。大体、事件とあらば、警察が動くだろう。
 そんなやりとりを黙って聞いていた隆之だったが、やにわに言葉をはさんできた。
「殺人事件の犯人を、調べてみる気はあるか?」
 隆之は一斉に、皆の注目を浴びた。
「殺人事件?」
 確かめるように聞き返す。隆之は、こくんと頷いた。
「依頼ってわけじゃねぇから、金は払わねぇぞ。その代わり、見事犯人を突き止めたら、認めてやるよ、てめーのこと」
 おおおっと店中がざわめいた。瀬戸は一人、疑わしい顔をする。
「するってーと、隆。認めてやるってのは、電話番の気持ちってことかい。それとも単に、探偵としてってやつかい」
 下世話な質問に、めずらしく隆之は怒らなかった。それだけではない。信じがたいことまで口にしたのだ。
「恋人になって欲しいんなら、なってやるよ」
「おおっ! こりゃ、気合が入るってもんじゃねーのかい。え、あんちゃん」
 盛り上がっている常連二人を尻目に、谷川が「どうした風の吹き回しかね」と、瀬戸にこぼす。上目遣いに隆之を盗み見たが、その真意はわからなかった。
 しかしまあ、後で反古にされようと、こんなチャンスはこの先ないだろう。
「どんな事件?」
「二十年前に、鵠沼で起きた事件。もう時効は過ぎたやつ。結局、犯人は捕まっていない」
 谷川が、はっとしたように顔を上げた。淡々と話す隆之を、じっと見つめる。
「あぁ、そういや、あったな」
「男が一人、殺されたんだっけか」
「他に、手がかりは?」
 常連の話に耳を傾けながら、瀬戸は隆之に聞く。
「これだけ」
 非情なまでに簡潔な答えが返ってきた。
 谷川が小声で畳み掛ける。
「オレはこの件に関しては、一切手を貸さないからな」
 瀬戸は思わず舌打ちをした。
 つまり、情報屋としての谷川を、あてにできないということだ。
 面倒だが、自分で一から調べるしかないらしい。
「期限は」
 隆之は瀬戸を見た。
「無期限。やるのもやらないのも、途中でやめるのも、てめーの勝手だ」
 それはまるで、半ば挑戦的に聞こえた。受けて立とうと、不敵に瀬戸は笑う。
「了解」
 とりあえず、明日から調査開始だ。

続く

きまぐれにはなるはな