Flying KIDS[6]
ずっと、我慢していたのだと、花道は言った。会いたかったけれど、流川が部活で忙しいのを知っていたから。バスケが大好きだということを知っていたから。あの日、初めて体育館で、練習をしている流川を見たときから。
最初は、電話だけでも平気だったんだ。でも最近、不安になってきた。流川は一言も、会いたいなんて言わないし。自信がなくなってきた。どうしようもなく。
本当に流川は、オレのことが好きなんだろうか。
頭に浮かんだ疑問。
でも、聞きたくても、聞けなかった。答えが怖かった。もし、それほど好きじゃないと言われたら。特別だと言ってくれたけど、それはもう過去のことだと言われたら。
水戸が毎日会っていると知ったとき、悔しくてたまらなかった。花道はそう言って、手のひらをぎゅっと握り締めた。
嫌いだと、前に言われたことを思い出して、何も考えられなくなった。
フラッシュバックみたいに、過去のことを思い出す。そのうち段々、水戸が憎くて仕様がなくなってきた。
花道が、流川に会いたくても会えないとき、水戸はいつも流川のそばにいる。いつも二人で楽しそうに、何かを話している。花道には、聞こえないところで。
嫉妬だと思った。これは逆恨みだ。水戸が悪いわけじゃない。
抑えたくても、抑えられない。自分がいやになったと、花道は言った。
一緒だと、流川は思う。
達観しているわけじゃなかった。花道も、自分と同じだったのだ。
会いたいと、素直に言えなかったり、誰かに嫉妬したり、不安になったり。
そうだったのか。
流川は花道を見た。
自分を責めるように、気落ちしている花道に、流川も話して聞かせた。水戸に嫉妬したこと。花道に、引け目を感じていたこと。その所為で、素直になれなかったこと。
告白し終わったとき、花道は、ふっと笑った。自嘲するでもないだろうけれど。
「何だ。オレらって、似たもの同士じゃん」
そう言って、笑った。
わだかまりは解けたけれども、会えないことには変わりなかった。どうしたって、流川は部活に忙しかったし、花道は受験を控えていた。でも、前のように、不安に思うことはなかった。
「結婚するって、父さん」
弾んだ声だった。
相手は、入院中に知り合った、看護婦らしい。花道は、恵子さんと言っている。たまに家にきて、家事をしてくれるそうで、助かっていると花道は笑った。
高校に行くようになったら、そのうち一人暮らしをするつもりだから、気兼ねなく会えるな。花道はそう言って、流川を驚かせた。新婚家庭じゃ肩身が狭いから、などと冗談めかして言っていた。
「それでは、それぞれ有意義な春休みを過ごすように」
高校二年の最後の日。担任の言葉を合図に、皆は一斉に帰り支度を始めた。流川も御多分に漏れずに、早々に席を立つ。
これから花道と会う約束をしていた。受験の結果も、お預けを食らったままだ。
「流川」
廊下へ出たところで、流川は担任に呼び止められた。待ち伏せでもしていたかのようなタイミングだった。
「……何すか」
「ちょっと、職員室まで来てくれ」
有無を言わせず、担任は流川の前を通り過ぎていく。ためらったが、流川はそれについていった。
一体、何の用件だろうと思う。花道のことが、一瞬頭をよぎった。
「しつれーします」
職員室につくと、担任は話し始めた。
「実はな、来年度、市の方でちょっと、留学をバックアップするとかいう試みがあってな」
自分のデスクにつくと、担任は椅子に腰を下ろした。流川は、首を傾げる。
「とりあえず、アメリカとドイツとオーストラリアに一人ずつ、送り込むらしい。そこで以前、お前の顧問が言っていたのを思い出してな。アメリカ留学生の候補に、推薦をしておいた」
流川は目を瞠った。棚からぼたもちとは、こういうことを言うのだろうか。
「オレっすか」
「いずれ、アメリカに渡るつもりなんだろう?」
ポケットからタバコを取り出すと、担任はそれ火を点けた。
「まあ、まだ推薦をしておいたってだけの話だ。候補に上がったわけでもない」
「はぁ」
「しかし。成績、悪くはないからな、お前。もしかしたらってことも、あるかもしれん。ま、そんな話もあったな、程度に、頭に入れておいてくれ」
「はい」
担任は、にっと笑った。一体何の話かと思っただろう、と言いたげだ。
「話はそれだけだ。帰っていいぞ」
流川は頭を下げる。嬉しさと、戸惑いが、体の中でせめぎあっていた。
待ち合わせの公園へ向かう。東屋で、退屈そうに辺りを見回している、花道を見つけた。
「遅かったな、ルカワ。帰っちゃったのかと思ったぞ」
流川に気付くと、花道は手を振った。
「わりぃ。――で、高校は」
「おうっ。峰誠高校、見事合格っ!」
びしっ、とVサインを決める花道。
流川は半ば、茫然とする。
「峰誠?」
「おう。藤井先輩と同じところ。オレ、知らなかったんだけどさ、合格発表の日、偶然会って、ビックリした」
「……うちじゃねーの」
てっきり、そうだとばかり思っていた。最後まで内緒にしていたから、花道は驚かすつもりなのだろうと。
うーん、と花道はうなった。
「ちょっとはな、思ったけれど。同じ高校行きてぇなって。でも、オレそんなに勉強、出来ねぇし。それにめんどくさいじゃん。一緒だとさ」
「めんどくせー?」
「あ、誤解すんなよ」
あっけらかんと、花道は言う。
「松城だと、廊下とかで会っても、気ぃ使うじゃん。あのへんてこな校則のせいでさ。それだったら、会えない我慢を選ぶぞ、オレ」
安堵の息をついた。そういうことか。
危うくまた、悪い方に考えるところだった。
「知ってんの、校則のこと」
おう、と花道は頷く。
「ヒコイチから聞いた。友達なんだけど。あいつ、いろんな情報、集めてんの」
「ふーん」
「ルカワ、オレさ。まだ聞いてねぇぞ」
「何を」
はにかんで言う花道に、流川は聞き返す。
何のことを言っているのだろう。
「おめでとうっての。言ってくんねぇの」
あぁ、と流川は思う。ちょっとショックで、忘れていた。
流川は微笑む。
「おめでとう」
「おう。ありがとな」
照れくさそうに、花道は笑った。
四月になり、新学期が始まった。
流川は高校三年生、花道は高校一年生になっていた。
「1ミリ、抜かしたぞ」
鬼の首を取ったように、花道は言った。ふんぞり返っているのか、にかっと笑っているのか。流川は、受話器の向こうの姿を想像する。
「1ミリなんか、誤差のうち」
「何の。こっちはまだまだ成長期だかんな」
減らず口を掛け合って、二人で大笑いした。
アメリカ留学の打診がきたのは、それからしばらく経った頃だ。返事はゴールデンウィークあけに、ということだった。希望者が複数だった場合、選考で決めるらしい。
流川の返事は決まっていたが、花道にはまだ何も、話してはいなかった。
珍しく、仙道から電話がかかってきたのは、そんな時だ。
「留学の話があるんだって?」
流川は、絶句した。
「……どこで聞いたんだ」
「新入生にさ、相田彦一ってのがいるんだけど、こいつがまぁ、いろんなこと知ってんのよ」
どこかで聞いた名前だと、流川はぼんやり思う。
「アメリカかぁ。羨ましいなー。オレも支援金もらって、留学したいよ」
本当に羨ましがっているのかどうか、いまいち分からない男だ。
「綾瀬は毎年、遠征に行ってんじゃねーの」
流川にしてみれば、そちらの方が羨ましい話だ。
「それはあれだよ。隣の芝生ってやつだな」
妙なまとめ方を、仙道はした。
「受けるんだろ?」
ごく当たり前に、そう言う。
「……そのつもり」
「頑張れよー。一年間だっけ。お土産、よろしくね〜」
「まだ決まってねーよ」
流川は苦笑する。
本当にいつでも、仙道は相変わらずな男だ。
公園の桜は、もう盛りも過ぎ、散り終えて、やわらかく青い葉を茂らしている。夏を思わせるような強い日差しに、それは影を落としていた。
池のほとりの東屋に、時折かすかに風が吹く。四月の終わり。
「いつ言うんかなって、ずっと待ってんだけど」
光が泳ぐ水面を、秒針がわりに見ていた流川は、花道に視線を移す。
何の話かと思ったけれど、穏やかに笑みを浮かべながら、こちらをうかがっている花道に、流川はすべてを悟った。
「……知ってんの?」
花道は、にっと笑う。
「新聞部の情報網を、甘く見ないことだな」
「そっか……」
一瞬の緊張の所為で肩に入った、力を抜く。
「候補者の返事次第じゃ、どうなるかわかんねぇけど、教育委員会の方では、もう決めてあるらしいぞ」
流川は、花道を見た。花道は、天井を仰いでいた。
「ルカワ。オレはもう知ってるけど、でもやっぱ、お前の口から、ちゃんと聞きたい」
この話を耳にしたとき、花道はどう思ったのだろう。流川は少しも、漏らさなかったのだ。聞かされていなかったのだ。きっと、傷ついたに違いない。パニックになったに違いない。
なのに、今の花道は、微塵もそれを感じさせなかった。流川は、謝罪と、感謝を覚える。
ごめんという言葉を飲み込んで、流川は言った。
「アメリカ留学の話がきている」
「うん」
「――行きたいと、思っている」
「うん。行ってこい」
花道は、流川に向かって頷いた。
「アメリカに行って、バスケをするのが夢だって、前に言っていたじゃねぇか。こんなチャンスは、滅多にねぇ。行って、将来の足掛かりでも、作ってこい」
「桜木」
花道は微笑んでいた。無理をしているのではないかという心配を、拭い去るかのように。
「大丈夫。一年なんて、あっという間だ」
そう言ってくれた。自分の方が説き伏せられていることに、流川は気付く。
花道に対する心配は、自分が抱いている懸念の、裏返しなのかもしれない。
笑うしかなかった。
池の鯉が、水面にはねた。
花道は、そちらに目を向ける。
「それに、これはオレの夢のためでもあるんだ」
「てめーの?」
「そう」
流川に向き直る。
「書きたい記事があるって、前に言ったじゃん。それって、お前のこと」
「オレの?」
「そう。NBAで活躍する、ルカワの記事を書くのが、オレの夢」
くすぐったいと思った。
照れ笑いを浮かべながら、花道はそう言った。
流川の留学が、本決まりになった。出発は八月。ホームステイ先は、中年の温和な夫婦の家らしい。
「運命なんだ」
そんな気恥ずかしいことを、花道は至極真面目に言った。
「ルカワは感じなかったか? オレは感じたぞ、運命。あ、オレは、この人とずっと一緒にいるんだなって思った。初めて会った頃に」
にわかには信じられなかったけれど、嬉しいことには変わりなかった。
流川は、その運命を信じることにした。
高校最後の大会が終わる。結果は、また準決勝止まりだったけれど、チームは全力を出し切った。悔いはない。
花道には、ずいぶん元気付けられた。
「運命だから、大丈夫。一年なんて、あっという間だ」
まるで呪文のように、花道は繰り返した。
それは薬のように、よく効いた。不思議なほど、流川に自信を持たせてくれた。
桜木花道と出会えて、本当によかったと流川は思う。普段は信じない神様に、思わず感謝したくなった。
アメリカに思いを馳せながら、流川は時々、これまでのことを思い出してみた。何だかんだ言って、恵まれていることを知った。
八月は、すぐにやってきた。
出発の前日に、流川は花道に会いに行った。
「明日だな」
「あぁ」
「いってらっしゃい」
「うん」
どうにも我慢できなくて、流川は花道に口付けた。そのまま、胸に抱え込む。
花道の髪の匂いが、流川は大好きだった。
身体の匂いも、汗の匂いも、笑った顔も、怒った顔も。花道の全部が、流川は大好きだ。
だから、間違えない。
流川は言う。
「運命だから、大丈夫。一年なんて、あっという間だ」
流川がこの台詞を、花道に言ってやるのは、これが初めてだった。
花道は、顔を上げなかった。
「……もう一回」
くぐもった声が、流川の耳に届く。
「運命だから、大丈夫。一年なんて、あっという間」
流川はぎゅっと、花道を抱きしめた。
二人は似ている。だから、流川の不安は、花道の不安だ。危うく、気付かないところだった。
泣くかと思っていた花道は、すっきりした顔を、流川に向けた。もう大丈夫だ。
これでもう、本当に大丈夫だ。
翌日。飛行機に乗り込んだ流川は、雲の上の景色を見た。
いつも地上から、見上げるように見ている空とは、比べ物にならないくらい、抜けるような青い空が、そこにはあった。
1999/07 & 1999/08
⇒きまぐれにはなるはな