Flying KIDS[4]
花びらが舞っていた。桜かと思ったけれど、この時期はまだ蕾にもなっていない。何の花なのか、結局、流川にはわからずじまいだった。
「ほーんと、一年て早いんだから」
中学の卒業式。証書の入った筒で肩を叩きながら、仙道彰はため息をついた。
「やっと、はなみっちゃんが入学してきたと思ったら、もうオレたち卒業なんだもん。これで、はなみっちゃんとは、気軽に会えなくなるんだね」
「大袈裟だな、センドーは」
流川の横で、花道は笑った。いつか流川の身長を越えてやる、と言っている花道だが、まだその目標は遂げていない。
「ちっとも大袈裟じゃないよ。オレのいく綾瀬って、電車で三十分、さらにバスで二十分なんだよ。流川の松城なんか、すぐそこだけどね。おまけに、家だって水戸みたいに近くないし。休みの日だって、部活で会えない。事実なんだよ、はなみっちゃん」
切々と語る仙道を、花道は呆気にとられて見ていた。
「水戸や流川とは会えるけど、オレとは会えなくなるんだよ。寂しくないの?」
「寂しくないこともないけど……でも、仕方ないじゃん。センドー、綾瀬にいきたくていくんだろ」
率直な花道の意見に、仙道はがっくりと項垂れる。その背後から、水戸洋平が苦笑しながらやってきた。
「何だ、仙道。また、花道にふられたのか?」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。オレがふられるわけないだろ。だって、はなみっちゃん、オレのこと好きだもん、ねー」
「おう。でも、ルカワが一番好きだけどな」
「嫌だね、この堅物は」
にっこり笑った顔を引きつらせながら、仙道は言う。
流川は水戸に聞いた。
「どこ行ってたんだ」
「うん? ちょっと、野暮用」
軽くそう答えると、水戸は花道の頭をぱこんと叩いた。
「花道。流川の受験が終わって、嬉しいんだろ」
「だって、ルカワ、勉強忙しくって、全然遊べなかったんだぞ。嬉しいに決まってる」
「まぁね。流川が松城に受かるなんて、奇跡と言ってもいいくらいだから」
仙道のちゃちゃを、花道は無視した。
「オレも、もう少ししたら春休みだから、そしたら何かして遊ぼうな、ルカワ」
「そうだな」
その時の花道の、本当に嬉しそうな笑顔を、流川は思い出していた。
入学手続きの帰り道。手にはずっしりと重い、宿題の山。流川は、ため息をつく。
中学卒業後の春休みに、宿題が課せられるなんて、一体誰が思うだろう。
花道の通学路沿いにあるというだけで、志望校となってしまった松城は、流川の頭では合格など、到底無理だと言われた進学校だ。受験勉強は、人並みはずれてやった。何の奇跡か桜が咲き、ようやく手に入れた自由時間だったのだ。
初めてのデートを、心待ちにしていたのは、何も花道一人だけではない。流川だって、そうなのに。
青い空の下、流川は肩を落として歩く。
花道のほころんだ顔を思い出して、流川はもう一度ため息をついた。
「なあに、楓。暗いわね。入学する前から、早くも挫折?」
家に帰ると、母親と、大学のために上京しているはずの姉がいた。
「ちょっと、あんた本当に松城、受かったの? 何かの間違いなんじゃない? 峰誠でも危ないのに」
流川は姉を一瞥する。
「実力」
「可愛くないわね。あんたね、必死になって勉強して、やっとで受かったってね、入学してからの方が断然きついんだから。自分の学力に合ったところにいった方がいいのよ」
「うるせーよ。そんなこと、受験の前に言えば。もうおせーっての」
「だって、誰もあんたがそんな無謀なことするなんて、思わないじゃない。しかも合格するなんてさ。ねぇ、父さんは知ってるの?」
「電話で話したわ。お父さんも、驚いていたみたい」
「当たり前よ」
二人の会話を背に、流川は階段を上がった。自分の部屋の机に、とりあえず荷物を置いて、そのままベッドに腰掛ける。自然と大きなため息が出た。
「恋に生きるのも楽じゃねーな……」
全く流川らしからぬ台詞を吐いて、仰向けになる。そのまま、横を向いた。
怒るだろうな、花道は。がっかりするだろうな、絶対。あんなに楽しみにしていたのに。
気のきいたプランを立てていたわけではないけれど。でも、今まで一度だって、二人でどこかに出かけたりしたことがなかったから、ドキドキしていたのだ。楽しみにしていたのだ。本当に。
二人でどこかに行こうなと、ちゃんと約束をしていたのに。
「……」
しばらく悶々と時間を過ごし、横目でちらりと時計を見る。三時だった。のろのろと上体を起こして、流川は、またまたため息をつきながら、宿題とやらに取り掛かった。
「春休み、遊べなくなったって……何で」
受話器の向こうで、花道が言う。流川は頭をかいた。
「宿題が出た」
「宿題!?」
「そう。読書感想文と、新聞の社説に対する論文、三日分。あと、数学のプリントが何枚か」
「げーっ」
「それと、登校日が三回ある。春休み中に」
「何だ、それ」
「なんだっけ。えーっと、健康診断と、制服注文と、教科書販売、だったと思う」
「本当に春休みかよ。もう高校始まってんじゃねぇの」
「すまねー」
謝ると、花道は拗ねた口調を引っ込めた。
「しょうがねぇじゃん。謝んなよ」
笑った気配が伝わってきた。流川は、本当に申し訳なく思う。
「休みの日とか、わかったら教えるから」
「うん。それまで、お預けだな」
電話を切って、ふと顔を上げると、ニヤニヤ笑っている姉と目が合った。流川は嫌そうに、顔をしかめる。
「彼女?」
「違う」
花道は、女じゃない。
「そうよね。彼女にしちゃ、短すぎるわ、時間」
「中学の後輩の子よ。桜木くんだったわよね? このところ、毎日電話してるのよ」
くすくす笑いながら、母は余計なことを言った。姉は、えーっと声を上げる。
「男同士で毎日電話してんの? あんた、ばっかじゃない?」
「うるせー」
むっとして、流川は居間を出る。背後でげらげら笑う声が聞こえた。「なーんか、あいつ、可愛げが出てきたじゃなーい」などと言っている。流川はふと足を止めて、居間をのぞいた。
「姉貴」
「何よ」
ぐるりと顔だけこちらに向ける。
「いつ帰んの」
「せっかく帰ってきたんだから、二、三日いるわよ。お邪魔かしら」
流川は心の中で頷く。
「数学のプリントやんねー?」
「やらないわよ」
即答に、流川は思わず舌打ちをした。
「宿題?」
「そう」
「松城なんかに行くからよ。他の高校はなかったわよ、そんなもの」
さすが進学校。流川はげんなりする。
やっぱり、恋に生きるのは楽じゃない。それとも、自分が馬鹿なのか。
「大体ね、一介の大学生が、中学卒業程度の数学、解けるわけないっつーの」
ちょっと聞いただけでは、理解不能なその言葉を、姉は胸を張って言い切った。
眉間にしわを寄せて、流川は聞く。
「……そんなもん?」
「そんなもん」
姉は大きく頷いた。
自分が馬鹿だということに、流川はさほど時間をかけることなく、気付いた。
高校が始まって、あっという間に一ヶ月が過ぎたのだが、花道に会えたのはたったの二回だった。
登下校時に会えるだろう、そう思って、通学路沿いという条件に飛びついたのに、それがたったの二回とは。
こんなことなら、本当に、峰誠を受験した方がよかったかもしれない。家からもそれほど遠くはないし、学力的にはぴったりだ。
先頃行われた中間試験は、何とか赤点を免れた。補習なんてことになったら、ますます自由時間がなくなってしまう。それならば、真面目に勉強した方がましだ。煩わしいことが、一度で済む。
「どうだった、テスト」
受話器の向こうの、花道の声。流川はそれに答える。
「まぁ、なんとか」
「ふーん。すげぇな。やっぱ、難しいんだろ?」
「さっぱ、わかんねー」
けらけら笑う花道の声。
「わかんねぇのに、何とかなんのかよ。すげーっ!」
「そっちは? 中間、まだ?」
「来週。ルカワに勉強、教えてもらおうかな」
「電話で?」
「冗談だよ。真面目に答えんなって」
いつものように、とりとめのない短い会話をして、電話を切った。
花道は、無理強いをしない。わがままを言わない。冗談半分で本音を言っているような気もするけれど、それも流川の憶測だ。気を使っているのだろうか。
ゴールデンウィークの時だって、少しは期待していたのに、結局部活で無理だった。その時も、花道は「まぁ、仕方ねぇじゃん」と言っただけだった。
不満を言われたところで、どうにも出来ないけれども、何も言われないのも、何だか悲しかった。それこそ、流川のわがままなのかもしれない。二つも年上のくせに、流川の方が子供みたいだ。
花道は、幼い頃に母親を亡くして、以来父と二人暮しらしい。小さい頃は、母方の親戚である水戸の家に、何かと世話になっていたらしいが、迷惑はかけられないとかで、家事を覚えた。中学に上がってからは、朝夕と新聞配達をしている。
確かに、しっかりしていても、おかしくないのかもしれない。
正直者で、明るくて、素直なくせに、気を使う。負けん気の強い、元気なヤツ。ひまわりみたいに笑うヤツ。
「……会いてーな」
ベッドの上に寝そべって、流川はぽつりと呟いた。
部活の疲れと、勉強の疲れとで、流川はそのまま寝入ってしまった。
松城高校男子バスケ部は、強いわけではないが、弱いわけでもない。毎回、県のベスト8には入っている。
「これでも全国制覇を目指しているんだぜ、うちは」
ランニングをしながら、主将の三井寿が言った。晴れた日は、外周を二周することから、部活は始まる。
三井の言葉を受けて、二年の宮城リョータは頷いた。
「そうそう。でもどうにも上手くいかないんすよね。選手層が薄いというか、一人二人いいプレーヤーがいるんだけど、五人揃ったことがないっつー」
「赤木が残っていりゃーな。オレとおまえらとで、とりあえず四人揃うんだけど」
「三井さん。それ、三年生を二回やる、いいわけっすか」
「何か言ったか、宮城」
「いーえ。あ〜、同じダブるなら、ダンナにダブって欲しかったよなー」
空惚けて、宮城が言う。三井は、ふっと笑った。
「赤木は今頃、コンパに明け暮れる大学生さ」
「あんたじゃないって」
ぼそりと宮城はつぶやいた。
「何か言ったか」
「いーえ」
二人はいつも、こんな調子だ。
進学校という立場上、やはり部活動よりも勉学に重きを置いている中で、この二人は違っていた。バスケが一番、そう思っているらしい。プレーヤーとしても、群を抜いている。流川はある種の親近感を持っていた。
「話は変わるけどよ〜」
三井はくるりと身を反転すると、後ろ向きに走りながら、呆れたように言った。
「なーんで、三人しかいねーんだよ。他の奴らはどうした」
「みんなペースが速すぎるって、脱落していきやした」
「……今年もダメだな」
がっくりと肩を落として、三井は向き直る。そして「おっ」と声を上げた。
「なんすか」
ニヤニヤ笑う三井を見て、宮城が聞く。伝染したのか、宮城もニヤニヤ笑い出した。
どうしたのだろうと見回した先に、流川は花道を見つけた。花道も気付いたようだ。にかっと笑って、手を振った。
嬉しくて、流川も微笑みながら、軽く手を上げる。あっという間にすれ違った。
「――見たか、宮城」
「見ましたよ、三井さん」
「女の黄色い声には、見向きもしないのに」
「あの子にだけは必ず、反応するんすよね」
「怪しいな」
「怪しいっすね」
ひそひそと、聞こえよがしに言っている。
流川は、ため息をついた。
「恋人っす」
ずっこける二人。
至極真面目な流川を見て、しばらくの沈黙の時が続いた。
「……い、いや〜。おまえって、冗談言うんだな」
「おまえな、冗談言うなら、それなりの顔ってもんがあんだろ。わかるように言え、わかるように」
取り繕ったように笑う宮城や、半ば怒った感じの三井に、流川はむっとした。
「嘘じゃねーっす」
「じゃあ、キスしたことあるのか」
急にずいっと顔を寄せ、三井は言った。
怒っている、明らかに。しかし、一体何を怒っているのだろう。
「……ないっすけど」
「それじゃ、恋人とは言えない」
「なんで」
流川は、眉間にしわを寄せた。
「デートして、キスして、セックスして。それが恋人っつーもんだ」
「三井さーん。こんなところで、何語ってんすかー」
「したくても、チャンスがないだけっす」
「おまえも真面目に答えんなって」
すぱこん、と、流川は頭をはたかれた。
「邪魔すんなよ、宮城。これは大っ事な話なんだから」
「三井さんも、殴られたいっすか」
「何だと」
「おまえもだ、流川。たとえ事実だとしても、そんなこと軽々しく言うもんじゃねえっ」
「なんで」
聞き返すと、宮城は一瞬言葉を失った。言いたいことはあるのに声にならなかった、という感じで、口を開いて固まったあと、諦めたようにため息をつく。
「とにかくだ。厄介なことに巻き込まれたくなかったら、そんなこと簡単に言うんじゃねーぞ」
「……うす」
何が何だか、全然わからなかったが、流川はとりあえず頷いた。
松城高校。その校則のひとつに、こんなものがある。
『異性同性を問わず、不純交遊を禁ず。罰則は、異性の場合・謹慎。同性の場合・退学処分とす』
なるほど、と流川は思った。先輩方の心配はこれか。
部活のあと、無言で手渡された生徒手帳。その開かれたページを見て、流川は「めんどくせー」ともらした。
「そういうことだ」
宮城は、手帳をポケットに突っ込むと、そう言った。
「だから、バレないように上手くやれよ」
からかい半分に、三井は笑った。宮城に睨まれている。
「まあ、キスもしたことねぇってんだから、全然心配いらないだろうけど」
飄々と、お先と言って去っていく。
「煽られんなよ、流川」
宮城は釘を刺していった。
会えもしないのに、キスなんか出来るわけがない。
すっかり暗くなってしまった道を、流川は家に向かって歩き出した。
あーぁ、と心の中でため息をつく。
「デートしてぇ……」
欲求不満になりそうだ。
ようやくチャンスが訪れたのは、夏休みもあとわずかとなった頃だった。
一日だけ、部活が休みになった。そのことを伝えると、花道はすごく喜んだ。
毎日、真面目に宿題をこなしていて、よかったと思う。でなければ、せっかくの休みも水の泡となっていたところだ。
遊園地やら映画やら、いろいろ案は出たのだが、結局決まらずじまいのまま、その日はやってきた。
暑い日だった。
「海でも行く?」
待ち合わせの公園のベンチに二人、腰掛けながらプランを立てる。
「チャリで来たんか?」
「歩いてきた」
「オレも」
「……何しよっか」
いざとなると、何も決まらなかった。
「宿題、終わった?」
「大体。てめーは」
「オレも。ほとんどやった」
「ふーん」
「部活、忙しい?」
「二学期になったら、新人戦があるからな」
「そうだな」
「そっちは」
「ぼちぼち」
「ふーん」
何だか年寄りになってしまったような、妙な感じだ。待ちに待ったデートだというのに。
「桜木」
それでも、それなりに楽しそうな花道に、流川は声をかける。
「なんだ」
「うち、くるか」
花道は、目をしばたたいた。とたんに、ボッと顔を赤くする。
どうしたのだろうか。
「あー、うんっ。いくっ」
やたらと大きく頷いた。
よかった。嫌なのかと思った。
「母さんも、会いたがってたし」
そう言うと、花道は、気が抜けたように流川を見た。
「あ? あぁ、なんだ。そうか」
「何が」
「いや、別に! 何でもねぇんだ。はははっ」
頭の後ろに手をやって、花道は、かわいた笑いを顔に貼り付けた。
家が近付くにつれ、花道は緊張しだしたようだった。胸に手をあて、深呼吸をする。
「な、何か、ドキドキする」
「なんで」
流川には、わからなかった。
「何か知んねぇけど」
花道自身も、わかっていないみたいだ。
そうこうしているうちに、ついてしまった。
「ただいま」
「あら、楓? 早かったのね」
居間からひょっこり、母が顔を出す。花道の緊張は、ピークに達した。
「おっ、おじゃまします!」
上体を直角に曲げた。流川は些か呆気にとられた。
花道が母に会うのは、少なくとも二度目のはずだ。前のときも、こんな様子だったのだろうか。
「いらっしゃい、桜木くん」
母は、くすくす笑っている。花道の顔は、また赤くなっていた。
「すぐに楓の部屋に行っちゃうの? しばらくここで、お茶でも飲んでいかない。お菓子もあるのよ」
「あ、はいっ。ありがとうございますっ」
花道はそう言った。
「あ?」
「えっ?」
思わず不満の声を上げてしまう。花道が、きょとんとしてこちらを見た。
「……居間、いくんか」
「……まずかったか……?」
「……別に」
流川は口に手をやって、ぼそぼそと答えた。
居間で三人、テーブルを囲む。何とも和やかなティータイムが、約一時間半、続いた。
救いの神は、一本の電話だった。あれがなければ、きっと永遠に続いていたに違いない。
「ちょっと出掛けてくるわね。ゆっくりしていってね、桜木くん」
「あ。いってらっしゃい」
にこやかに笑う花道の横で、流川は深くため息をついた。
「何か、楽しい人だな」
「……そうか?」
「うん。オレンち、お母さんいないからさ、わかんねぇんだけど。女の人って、みんなあんな感じなのかな。洋平んとこのおばさんも、ルカワのお母さんと似てるぞ、ちょっと」
「ふーん」
流川は、黙って階段を上がる。そのあとを、花道はついてきた。
ドアも窓も開け放してあるのに、一歩中へ入ると、部屋はむっとしていた。クーラーを入れて、流川は窓を閉める。
「ルカワん部屋?」
「そう。入れば」
「おじゃましまっす。へへへ」
何やら照れている。花道は部屋を見回すと、感心したように声をもらした。
「見事にNBAだらけだな」
「適当に座って」
「おう。――なぁ、やっぱNBAって憧れ?」
「やっぱって?」
花道は、ベッドに寄りかかるように腰を下ろした。流川は椅子を引く。
「クラスにさ、清田ってヤツがいるんだけど――あ、バスケ部なんだけど、覚えてっかな。清田信長。そいつがさ、バスケの最高峰はNBAだって言ってるから」
「ふーん」
「やっぱ、そうなの」
「まぁ。オレも、アメリカに行ってバスケするのが夢」
「そうなんだ」
座りなおして、花道は言った。
「何か、ちょっと意外だな。ルカワでも、夢ってあるんだ」
「意外?」
「今まで、そんな話しなかったじゃん」
確かにそうだ。
流川は聞いた。
「桜木は。あるんか、夢」
照れくさそうに、花道は笑う。
「ジャーナリスト。書きたい記事があるんだ」
「ふーん」
流川も微笑んだ。花道が、何だか幸せそうなので、流川は嬉しかった。「何の記事かは、内緒だけどな」と言っているのを遠くに聞きながら、流川は花道を見つめた。
視線に気付いたのか、花道は目を上げる。
「ルカワ?」
「……」
黙って見続けていると、花道は顔を真っ赤にして、勢いよく顔を伏せた。そして、まるで予想だにしていなかったことを、口にした。
「ルカワはっ、キ、キス! したいなぁって、思ったこと、ある?」
「……あ?」
流川はそれで、我に返った。馬鹿みたいに、瞬きを繰り返す。
俯いたまま、花道は続けた。
「オ、オレは、あるけど……」
照れている。
流川は何故か、妙に落ち着いていた。椅子からおりて、花道に視線を合わせる。
「してーの」
花道は、顔を上げない。
「オレは、してーけど」
流川がそう言うと、花道はぎゅっと目を瞑った。
どうしたものかと、流川は考える。俯いたままでは、どうにもやりにくい。
それでも何とか屈みこんで、軽く唇を合わせると、瞬時に花道は顔を引いた。
「――びっくりした!」
流川も驚いた。思ったよりやわらかい感触に、鼓膜が破れそうだ。心臓が、バクバクいっている。
「わり……」
思わず、謝ってしまった。
「オ、オレも……」
お互い、何を謝っているのか、きっとわかっていない。
顔を真っ赤にしながら、二人はしばらく動けなかった。
そこへ、カラカラと玄関が開く音。身体が無意識に、びくっと反応する。
「ただーいまー」
母だった。気を抜く流川とは対照的に、花道は慌てた様子で立ち上がる。
「かっ、帰るわ、オレっ」
流川は、呆気にとられた。
「あの、ほら。新聞配達の時間だしっ」
「ああ」
勢いにおされた。ドアを開けると、花道は足早に階段を下りていく。
「あら? 桜木くん、帰っちゃうの?」
「は、はいっ」
慌ただしく、靴を履く。
「夕食、一緒に食べようと思ったのに」
「すみませんっ」
「また来てね」
「おじゃましましたっ」
頭を下げると、花道は飛び出していった。
階段下で、呆然としていると、ひらひらと手を振っていた母が、くるりと振り返り、真顔で言った。
「何かしたの」
「――あ?」
眉間にしわを寄せて、聞き返す。母はふっと相好を崩すと、
「冗談よ」
と言って、居間に消えていった。
のろのろと、流川は部屋に戻る。
机に向かって、とりあえず宿題を広げるが、一向に手がつかない。頭の中を占めるのは、花道の感触だけだ。
やばい。また、動悸がしてきた。
ため息とともに、机に突っ伏す。
冷房のきいた部屋で、流川は一人、熱くなっていた。
続く
⇒きまぐれにはなるはな