Flying KIDS[3]
嘘をついた。
花道の気を引きたくて、嘘をついた。
咄嗟に。
「流川って、バカだよな」
水戸は知っていたという。流川よりも先に。
「花道にとって、特別なヤツになりたいってのはわかるけど、あれじゃぁ逆効果なんじゃねえ?」
はじめて会ったときから、好きになっていたことを。流川は聞かれるまで、気付きもしなかった。自分のそんな感情に。
「今はそれでいいかもしんねーけど、あとで後悔するぞ、きっと」
「いいんだよ、それで。流川なんて、うんと痛い目に遭えばいいの」
仙道はずっと怒っていた。拗ねているのならわからないでもなかったが、怒っていた。そんな仙道を、水戸は苦笑しながら宥めた。あまり効果はなかったが。
「はなみっちゃんの事なんか、全然考えていないんだから。傷つけた事にさえ、こいつは気付いていないんだよ。オレは知らない。流川なんか、うんと後悔すればいい」
六年のときの話だ。花道に謝りに行ったあとのこと。何でこんなことを思い出しているのだろう。ぼんやりと、流川は思う。
後悔なんて、するはずないと思っていた。
今になって身にしみる。二人の言葉が。
もう遅いのだろうか。今更、あれは嘘だと言ったところで、花道には何の関係もないのかもしれない。
「苦悩しているようだね、少年」
気が付くと、放課後だった。いつものように三人集まって、問題集を開いていた。
「おいおい〜。こんなんで躓いてたら、松城なんか、かすりもしないぞ」
水戸が流川の手元を覗き込んで、そんなことを言った。
「それは違うよ、ワトソンくん。彼はさっきから、全く問題を見ていない。彼の苦悩は、別にある」
理科の問題集から目をはなさずに、仙道が言う。声音を使って、水戸は受けた。
「どういうことだね、ホームズ」
「彼がおかしいのは、昨日の午後からだ。昨日の彼の行動を、思い起こしてみたまえ」
「つってもなー。オレ、クラス違うからなー」
それを言うなら、仙道も同じだと思ったが、流川は口にはしなかった。
「昨日の昼休み。彼は、新聞部の取材を受けている」
「ふむふむ」
「新聞部といえば、はなみっちゃんだ。はなみっちゃんといえば、例の件だ」
「あの件ですかい、旦那」
「我々の予言どおり、何かが起こったに違いない」
予言なら、その何かを具体的に言え。思いながら、流川は降参する。シャーペンを問題集の上に転がし、両手を上げた。
「あらま。いやにあっさり身を差し出したわ。これじゃ、つまんない」
「なんだよ、よっぽどのことか?」
「……あいつに、特別好きなヤツがいるらしい」
それは実際、口にして言うのも嫌だった。それくらい、嫌なことだった。
水戸と仙道は顔を見合わせる。にやりと笑う仙道に対して、水戸は苦笑しながら肩をすくめた。
「自業自得というやつだね」
ざまーみろとでも言いたげだ。仙道は、話は終わったとばかりに、視線を落とす。
「そんで?」
優しげに、水戸は微笑んで言った。
「もう、おせーんかな」
自分がそれになるには。流川が花道の、特別に好きな人になることは。
「さあなー。それはオレに聞かれても、わかんないけど」
流川は軽く頷く。こいつらがいて、よかったと思う。
「今度……あいつと話してみる」
「おー。それしかねーな」
「今度は間違えるでないぞ、少年」
誤解を解く。花道本人に聞いてみる。
そう決めても、流川はまだ、何も対策を練っていなかった。いつにしようかも、決めかねていた。
「――ルカワ」
土曜日の放課後。流川は花道に呼び止められた。
「あの……、ちょっと、聞きたいこと、あんだけど」
遠慮がちに、花道は「いいか?」と聞いてきた。
「いーけど……」
ちょうどいい。チャンスかもしれない。
流川は辺りを見回した。土曜日の放課後は、運動部の連中であふれかえっている。
「場所、変えるか」
花道は、こくんと頷いた。
同じ校舎内でも、あまり人気のない場所がある。特別教室が集められた棟の、屋上口の踊り場は、特にだ。
流川はとりあえず、花道の話を聞くことにした。
「話って?」
「あの……」
言いにくそうに、口を開く。
「好きな人、いるって。うわさ聞いたんだけど、本当か?」
これは、どういうことだろう、と流川は思う。花道は何を聞きたいんだろう。誰かに聞いてくれと、頼まれたのだろうか。
「……好きなヤツは、いるけど……」
おまえだと、言ってやろうかと思った。チャンスだ、ここで言ってしまえ。でも、口から出た言葉は、全然別のものだった。
「おまえだって、いるんだろ?」
「え」
「特別に好きなヤツ」
花道は目を見開いた。そしてゆっくり、うつむき加減になる。
「――いるけど……片想いってのだから」
流川は、何も感じない振りをする。
「ふーん。いっしょだな」
「え。付き合ってねぇの」
「告白もまだ」
「――じゃあ、まだ見込みあるじゃん。オレ、もう振られてるし」
唐突に、仙道の言葉を思い出した。流川は悔しく思う。会ってなかった二年の間に、一体花道に何があったのだろう。誰を好きになったのだろう。
「――ダメだな、オレ」
花道は、ぐいっと腕で目頭をこすった。
「嫌われていても、オレが好きなのには変わりないんだから、そんでもいいと思ってたのに。好きな人いるって聞いたら、我慢できなくなった」
ああ、そうか。花道は相談にきたんだ。自分ではどうすればいいのか分からなくなって、流川のところにきたんだ。
言えるわけがない。
「誰だろう、どんな人なんだろうって、すげー気になって。オレも好きなのにって、悔しくなって。何でオレじゃないんだろう。オレ、嫌いだって言われたのに、何でずっと好きなんだろう。何で嫌われてんだろうって――情けないよな」
流川は、どうすればいいのか分からなかった。元気付けることも、慰めることも出来ない。ましてや、告白なんてもってのほかだ。
「オレだって、似たようなもんだ」
「――ルカワ?」
「しょうがねんじゃねー? 好きなもんは。どうしようもねーんだし。好きでいるしかねーんだよ。嫌いになれればいっそ楽だけど、そんなん、ぜってー無理なんだから」
「――いいのかよ、ルカワ。そんなこと言って」
「何が」
「わかってんのかよ。オレが誰を好きなのか。三年のときから、ずっと誰のこと好きなのか、わかってんのかよ。そんな無責任なこと言うなよっ」
花道が怒っている。本気で怒っている花道を見るのは、これが初めてだった。流川は、どうすればいいのか、ますますわからなくなった。とにかく花道を、落ち着かせたかった。
「好きなヤツに、好きになってもらえねーのは辛いけど、でもオレは、おまえのこと好きだから」
花道の動きが止まる。俯いているので、顔はよく見えなかった。
「気休めってやつか?」
喉の奥で、くっと笑うと、低い声でそう言って、花道は顔を上げる。
「好きだって? オレのこと嫌いだって言ったくせに。他に好きな人がいるくせに」
「あれは」
「オレの好きなの、誰だか教えてやろうか。おまえだよ、ルカワ。オレはずっと、四年前からずっと、ルカワのことが好きなんだ。はっきり嫌いだって言われたのに、いまだに好きなんだよ。ルカワ、おまえ、好きでもない相手にずっと思われるの、嫌いなんだろ? 適当なこと言うなよっ。好きでもないのに、その場しのぎに好きだなんて言うなよ!」
「あれは嘘だ!!」
「……嘘?」
「嫌いだって言ったのは、嘘なんだ。本当は、オレもおまえのこと」
「信じない」
「――桜木」
「そんなの、信じない」
夏休みが、近付いていた。
「模試とか夏期講習とか、どうするわけ」
「オレはパス。必要ない」
「あー、工業一本じゃ、必要ないやーね。落ちたらどうするんすか、定時制っすか」
基本的に、放課後は冷房は入らない。窓を全開にしても、あまり風は入ってこなかった。
仙道は、パタパタと下敷きで風を起こす。
「最悪そうなるけど、ならないように努力はします」
「まー、当たり前っちゃーそうだよねえ。それにしても、あっついなー。図書館いこうよ、涼しいよー」
「場所ねーよ」
「うー」
「おまえはどうするの。講習受けるの」
「悩んでるんだよ。オレほら、推薦受けるつもりだからさ」
「嫌だなー、この男は」
「流川ー。流川は受けるんだろ、模試。当然だよなー。おまえ、松城だもんなー」
「――流川?」
「あらいやだ。この男ったら、集中の鬼よ。こんな暑い中で、よくやれるわね」
「最近こいつ、ずっとこんな調子だよな。いつからガリ勉君になったんだ」
「――思い当たる節がある」
「あ?」
「るーかーわ」
ゆすられて、流川ははっと顔を上げた。仙道が、下敷きで扇ぎながら、にっこり笑う。
「はなみっちゃんと、お話合いはしたのかな?」
水戸も、肘をついてこっちを見ていた。流川はぼそりと言葉をもらす。
「したけど……」
「したけど?」
「……信じてもらえなかった」
「あらあら」
「花道が? 信じられないって? ――おまえのことは、なんて言ってたんだ。嫌い?」
「よく、わかんねー。好き、とは……言われたような気が……するけど」
「……だよな」
「はなみっちゃん、何が信じられないって?」
「オレが、あいつのこと、好きだっつーこと」
「ふ〜ん。まぁ、わからないでもないけどね。はなみっちゃんの気持ちも」
「――なんで」
仙道は、軽く流川を睨みつけた。
「それだけ、あの嘘は、はなみっちゃんを傷付けたってことだよ」
流川は微かに視線をそらす。仙道はため息をついた。
「あの時、はなみっちゃんは、おまえにあんなこと言われるなんて、少しも思っていなかった。嫌われているなんて、考えもしなかった。だから全然、覚悟なんてしていなかった。全くの無防備だった。そこにおまえの、予想していなかった言葉だ。次の日にでもすぐに、前言撤回していれば、いつもの嘘で済んだのに、おまえはそれをしなかった。たとえおまえにとって嘘の言葉でも、はなみっちゃんは本音として受け止めざるをえなかったんだ」
水戸が肘を付きながら、頭を掻く。
「やっと気持ちの整理もついたのに、か」
「だと思うよ。流川に嫌われているという事実。それをやっと認めることが出来たのに、今更、あれは嘘だ。本当は好きなんだって言われても、そう簡単にはいかないと思うよ」
流川はどうすればいいか、分からなかった。
水戸の言うとおりだった。
仙道の言うとおりだった。
いまさら、それに気付いたって、遅い。やり直すことなど、不可能だ。
罰が当たったんだろうか。相手の、花道の気持ちを考えてやれなかった罰が。
「嘘をついた理由とか、花道に言ったのか?」
水戸が聞いてきた。流川は目を伏せる。
「説明する間もなかった」
「まずは、それだな」
背もたれに凭れかかって、天井を仰ぐ水戸。
「何であんなことを言ってしまったのか、それを説明して、謝って、ちゃんと言うしかねえんじゃねーの? 花道だって、おまえのこと嫌いじゃない。むしろ好きなんだから、そのうち何とかなるんじゃねえ?」
「なんのかな」
花道の様子を思い出す限りでは、希望は持てそうにないけれど。
「時間が解決してくれるでしょ」
下敷きで扇ぎなから、仙道はため息混じりにそう言った。
らしくない、と自分でも思う。後手に回っているばかりか、いつも受け身だ。
夏休みに入ってから、流川は何度、自分から動こうと思ったか。でも、花道が今どんな気持ちなのかが分からなくて、結局会わずじまいだ。やっぱりもう、駄目なんじゃないかと流川は思う。花道を傷つけた。それは事実なんだから。いまさらだ。
「楓。起きてる?」
コンコン、と遠慮がちにドアを叩く音がする。宿題の手を止めて、流川はドアを開けた。
「何」
「お客さま。桜木くんて子」
「――いま行く」
下へ行くと、花道が玄関口に立っていた。流川はそのまま靴を履く。
「ちょっと出てくる」
母親にそう言って、流川は花道と外へ出た。
「悪かったな。勉強の邪魔しちゃったか」
「……別に」
「寝てるようだったらいいって、おばさんに言ったんだけど」
頭の中がぐるぐるしている。言いたいことがたくさんあるような気がするのに、どれひとつ口に出来ない。言葉にするのが、何だか怖い。代わりに足が、勝手に動いている。花道は、おとなしくついてきた。
「今日、オレ、学校行ってきたんだ。陸上部の取材で。ほら、陸上って、新人戦、ちょっと早いだろ。種目によっては、もう調整に入っているらしいから、どうかなと思って」
「ふーん」
「そんで……ルカワ、どうしてるかな、と思って……」
「……」
「……あの、さ」
「――ごめん」
「……なに、が?」
「嫌いっつって。嘘ついてごめん。傷つけて、悪かった」
花道は、ずっと黙ったままだった。一歩前を歩いている流川には、花道が今どんな顔をしているのか、分からない。
うるさい蝉が、夏の空気に溶け込んで鳴いている。太陽が、じりじりと音を立てて、流川を焼いているようだ。
この足は、一体どこへ向かっているのだろう。
「何で、嫌いって言ったんだ」
ようやく花道が、押し殺したような声を出す。流川は、息をついた。
「……嫌だったんだ。好きな人って、一括りにされるのが。水戸や仙道と同じなのが、嫌だった。特別になりたかった。大勢の中の一人じゃない、何か、おまえにとってのたった一人に。
――嫌いって言えば、特別になれると思ったんだ。おまえのこと、嫌いって言うヤツ、いないだろうと思ったから」
「……バカキツネ」
拗ねたように、花道は言った。流川は続ける。
「おまえが信じられないっつーのは、仕方ないかもしれないけれど、でも、これは本当だから。オレは、桜木花道が好きだ」
花道が、息をのんで立ち止まった気配に、流川は振り返る。ちょうど、小学校の前だった。目が合う前に、ふっと花道がそらす。
校門の塀に、花道は腰掛けた。俯きながら、しばらくぶらぶらと足を遊ばせる。
やがて花道は、ゆっくりと口を開いた。
「最初は、嘘ばっか言って、嫌な人としか思わなかった。顔見たって、なに考えてんのか、全然わかんなかったし。好きなところなんて、ひとっつも無かったのにな」
ひとっつもに力を入れ、ふっと笑うと、花道はこちらを見た。見たことのない、穏やかな微笑。隠している照れが、ほんのり色をつけている。
「なーんか、好きになってた」
ほっとして、つられて、流川も微笑う。暑さなんて、吹っ飛んでしまったみたいだ。
「オレもごめんな。信じないなんて言って」
「おあいこ」
花道は一瞬、目をぱちくりさせた後、破顔した。
「そっか。そうだな。おあいこだな。ちゃらだ」
そうして勢いよく塀から飛び降りると、花道は聞いた。
「ルカワ。受験、どこ受けるの」
「そこ」
流川は、花道の斜め後ろを指差す。「え」と言って、花道は指を追い、そしてぐるりと向き直ったときには、信じられないという顔をしていた。
「……松城?」
「そう」
こっくり頷く。
「知らなかった。頭いいんだ」
ぜんぜん、と首を横に振る。花道の顔が引きつった。心なしか、顔が蒼い。
「勉強……しなくて、大丈夫なのか?」
「全然」
大丈夫じゃない。
「ごめん! やっぱ、勉強の邪魔した。早く家戻れよ」
もうちょっと、一緒にいたいと流川は思ったが、早く家に戻って、勉強しなければいけないのは事実だ。
花道に背中を押し出され、流川は足を家に向ける。
「んじゃな」
「――あ、ルカワ」
「なに」
振り返ると、花道は言いにくそうに、一度口を結んだ。
「オレ、ルカワの特別?」
流川は頷く。
「特別」
花道は、あたり一面にひまわりが咲いたみたいに笑った。そして、ぶんぶんと大きく手を振る。
「じゃーな、勉強、頑張れよ」
「そっちもな」
手を振り返しながら、足取りも軽く、帰路につく。何だか今日から、勉強が断然はかどるような気がした。
きっと流川は気付いていない。自分の顔が今、笑いっぱなしだということに。
続く
⇒きまぐれにはなるはな