決断の日
その記事を見つけたとき、流川は正直ほっとした。
やっと桜木のことを諦められる。そう思ったのだ。
空港で、隣の席に座っていた日本人らしき観光客が開いていた週刊誌。たまたま目に入ってきた女子アナウンサーの恋人として報じられているのが桜木花道だった。
桜木が選手生活を引退し、解説者に転向して8年。あのルックスと人柄で、テレビのバラエティ番組にもよく出演しているようで、女性との出会いには事欠かないだろう。
それでなくても、今までに何度も浮いた話は届いていた。彼女が出来たとか見合いするだとか。その度に流川は日本まで飛んで帰り、事の真相を確かめたり、ぶち壊したりしてきたのだが、ことさら自分と桜木がどうこうなるわけでもなく、高校時代のチームメイトから何の進展もしていなかった。それに疲れたのだ。
「お前なぁ、そんな毎回アメリカから来るくらいなら、いっそ一緒に住んじまうか?」
呆れながら、一度桜木がそう言ったことがある。苦笑交じりではあったけれど、満更冗談でもなさそうだった。
頷くことは簡単だったが、結局そうはしなかった。自分はアメリカ、桜木は日本。それぞれ拠点が決まっていたし、実現するには無理な話だったのだ。
あの話が今だったら。
流川はぼんやり考える。
たぶん安易に頷くだろう。
トレーナーとして、現チームでの契約が今期いっぱい。次はぜひうちでと声をかけてきた中に、日本のチームもあった。アメリカで存分に吸収してきたノウハウを、日本のプレイヤーたちに叩き込ませ、世界に通用するバスケを確立させたい。以前、桜木や仙道が語っていた夢だ。日本で、日本のバスケを強くする。その野心の意味が、面白さが、今の流川にもわかってきた。
だから今ならたぶん、いや、きっと、何のためらいも無く、流川は日本に拠点を移すだろう。桜木が、あの頃のままだったら。
そこまで考えて、流川は馬鹿らしいと鼻で息をついた。
『どうした?』
同じチームのトレーナーに問われ、流川は『なんでもない』とはぐらかす。しばらくその記事を眺めていたが、出発の時間になったのか、隣の観光客はやがて席を立っていった。
桜木から連絡があったのは、その日の夜だった。
開口一番、ヤツが言ったのは、「ガセだからな」だった。
「何が」
ペンネを口に運びながら訳がわからずそう問うと、もどかしそうに桜木が早口で続けた。
「だから、交際発覚とか結婚秒読みとか書いてあっけど、全然そんな話ねぇから。メシすら一緒に食いに行ったことねぇからな」
肩口で支えていた受話器を手に持ち替える。雑誌の記事が脳裏を掠めた。
「あぁ、あれか」
「だからまた帰ってくる必要なんて全然ねぇから……」
急に声が小さくなった桜木を、流川は訝る。電話の調子がおかしくなったわけではなさそうだ。
「どうした」
しばらく待って、流川は聞く。はっとしたような気配が伝わってきた。
「てめぇ、今、あぁ、あれかっつった?」
やけにはっきりと、けれどもどこか躊躇いがちな口調。その理由もわからず、流川はまたペンネを口に運ぶ。
「言ったけど?」
「いつ知った?」
「今日の昼前」
「で、今何してんだ」
「メシ食ってる」
「一人で?」
「おう」
何だか声に怒気が含まれてきたような気がする。そう思いながら流川には心当たりなど無く、フォークから手を離す。
受話器の向こうでは、また桜木が何か考え込んでいるようだった。
桜木から電話があるのは久し振りだ。そもそも、滅多にないことだ。
なのに今回に限って、否定とは言えこんな断りの電話をよこすなんて、やはり特別な何かがあるのではないのだろうか。
例えば、報道とは別の人物が本命で、流川が事を荒立てることで状況が悪くなるのを恐れて、帰国してくるなと釘を刺すためだとか。
それとも単純に、徹底的に顔も見たくないほどに桜木に嫌われたか。
いや、それだったら電話で話すのも嫌だろう。そう自分で考えて、流川は落ち込む。
すると突然、桜木がぼそりとつぶやいた。
「……お前、まさか彼女できた?」
「は?」
それはこっちの台詞だ。と言いたいのに、桜木はその隙を与えてくれず、
「てめぇ、いつもオレのときはすっ飛んでくるくせに、自分が女がらみですっぱ抜かれても全然連絡よこさねぇし、否定もしねぇし、オレはこっちで知らずにおたおたするだけで、どうしたんだろうと思っても、お前は遠征でつかまらねぇし、そのうち誤報だって耳にして、だからてめぇが何してんのかなんてさっぱりわからねぇし、誰か好きな人が出来たのかとかもわからねぇし、もしかして結婚してんじゃねぇのかとか、子供が三人いるだとか、なんかもう、オレよくわかんなくなんだけどよ」
何故だか淡々と言葉を続けた。わけが分からず、
「ん」
と短く返すと、
「何でこねぇの?」
素朴な疑問です、と言わんばかりの問い掛けが返ってきた。
たぶん、これが今一番言いたかった言葉なのだろう。
何故今回に限って来ないのか、桜木はそう聞いてきたのだ。今どんな表情をしているのか、流川は無性に顔が見たくなった。
もし目の前にいたら。桜木はどうしている? 横を向いて唇を尖らせているか? さすがにもうそんな高校生のときのような仕草はしないのだろうか。
だとしたら、真っ直ぐに目を見据えているのだろうか。あの少し色の薄い、茶色がかった両の目で。
そうやって、流川が想いを馳せながら黙っていると、桜木が徐に聞いてきた。
「……お前、今期で契約切れるよな?」
「あぁ」
「こっち来ねぇ?」
突然の話題転換に、流川の頭は真っ白になる。
「一緒に暮らさねぇ? 日本で」
夢を見ているのかと思った。そもそも、電話がかかってくること自体おかしいのだ。ましてやこんなに素直で、しかも流川の願望通りの台詞を吐くなんて、考えられないことだった。
いっそ夢なら、と流川も本音を口にする。
「てめぇがアメリカに住むって手はねぇのかよ」
と。
すると桜木は、一瞬うっと言葉を詰まらせると、
「それ言われるとなぁ」
苦笑混じりにそう言った。
「一緒にいてぇって思うし、何してんのかってすげぇ気になるけど、それとこれとは違うっつーか」
考えなかったわけでもないけど。そう独りごちると、桜木はひどく真剣な声で、
「帰ってこいよ」
と続けた。
流川は目を伏せる。
夢でもいいなんて言っていられなくなった。これが夢だったら、あまりにも悲し過ぎる。
自分がこんなにも桜木を求めているとは。こんなにも失いたくないと思っているとは。情けなくて、おかしすぎて、何だか嫌になってくる。
嫌になって、だから逃げ続けてきたのだ、今までは。
馬鹿じゃねぇのか、と流川は自分に悪態をつく。
「てめぇ、他に本命いるんじゃねぇの?」
「は? 何だよ、それ」
心底驚いたように桜木は言った。
「帰ってこなくていいって電話かけてきたんじゃねぇの」
本音の心配事と、半分、自信からくるからかいと。
「それはあれだ。無駄な金なんて使う必要ねぇからって、心配すんなって意味であって」
やっとそれが言えるようになった。
「わかった」
「へ?」
「来期、日本に帰る」
「本当か?」
もっと早くに口に出来ていたら、とか、そんな後悔じみたことを考えないわけではないけれど、多分、それは問題ではないのだ。
このタイミングを逃さなかった。それで正解なのだ。
確かにすれ違いもあったけれど、桜木と同じ速さで進むことが出来てよかった。ずっと続いていて、本当によかった。
嬉しそうな桜木の声に、流川は思わず笑みを漏らす。
「一緒に住むかはわかんねぇけど、だからてめぇも心配すんな」
なんだよ、それ。と桜木が抗議する。
「一緒に住んでりゃ、心配事も減ると思うけど」
口を尖らせてそう言った後、こちらを見て、にやりと笑うだろう姿が目に浮かぶ。流川はそれを閉じ込めるかのように、ゆっくりとまぶたを下ろすと、
「考えとく」
静かに笑って、そう答えた。
あいかわらずの
⇒きまぐれにはなるはな