誕生日

「楓。今日は早く帰ってくるんでしょ?」
 と言う母の声に、流川は大きくあくびをする。起き抜けの、まだ思考回路が機能していない状態では、あった用事も思い出せない。
「……何かあったっけ」
 重いまぶたの向こう側で、朝食が並べられていく。ぼそっとした息子の声に、母は呆れた様子を隠さなかった。
「いやねぇ、忘れたの? 今日だって言っていたでしょ、桜木くん」
「……何が」
 箸を取り、いただきますと手を合わせる。最近息子がするようになった仕草だ。小さい頃はいざ知らず、気がつけばそんな素振りは全くしなくなっていたのに。
 前の席に腰を下ろしながら、母はため息をついた。
「誕生日」
 寝ぼけ眼のまま食事をとりながら、流川は反論する。
「あいつのは四月一日」
「そ。だから今日なのよ」
「え?」
 流川は目をしばたたきながら、母を見た。組んだ指に顎をのせ、その様子を見ていた母は、わが息子ながら日付の感覚がなかったことに苦笑を隠す。
「一人暮らしでしょう? 誕生日に一人でお祝いなんて、寂しいじゃない。母さん、腕ふるうわよ、楽しみにしていたんだから」
 しばらく見開いていた目を、流川は徐々に細めていく。すっかりいつもの様子に戻って、彼は食事を再開した。
「仲間と祝うんじゃねーの」
 あら、怒っちゃったわ。
 母は、意外、と眉を上げる。こんなことで息子が腹を立てるなど、思ってもみなかった。
 そりゃ確かに、実の息子の誕生日にはお正月ということもあり、それとして祝ったことはあまりないけれど、そんなこと気にしているとは知らなかった。
「あらそう?」
 息子の怒りには触れもせず、母は先を続ける。
 そうよね。あんなに明るくていい子、お友達が多くて当たり前よね。
「でもほら、みんなとお祝いする後でも先でも、ちょっとくらい寄れるかもしれないでしょ。母さん、ケーキ焼いて待っているから、楓、桜木くん連れてきてね」
「……保証はしねーけど」
 話は半分素通りしていたが、流川はそう答えた。フル回転する頭の所為で、食事は機械的だった。いつの間に終え、いつの間に身支度を整え、いつの間に部活に出かけたのかすらわからない。
 その間、流川はずっと、何でだ、どうしてだを繰り返していた。
 誕生日の話が出たのは、たったの一度。正月に息子を連れ出した相手に興味を持った母が、一度連れて来なさいとうるさいので、夕食に誘った時だけだ。
 あの時に、母はえらく桜木を気に入り、いい子を友達にしたわねと喜んでいたが。
「仲間と祝うんじゃねーの、か……」
 流川は、自分の言葉を繰り返した。
 一月一日に向けて、桜木はクリスマスよりも前から計画を練っていた。一緒に初詣に行こう。一緒に初日の出を見よう。でも、家族で正月を迎えるのも大事だから、年越しそばは家で食べてこい。親戚との挨拶も忘れるなよ。
 結局、大晦日の夜十一時半から元日の朝八時前まで連れ回されて、誰よりも一番最初に「誕生日おめでとう」と言葉を貰った。赤色のリストバンドも貰った。恋人が出来たら、一緒に誕生日を祝うのが夢だったとはにかんだ桜木に、「誰が恋人だ」と毒づいたのは恥ずかしかったからだ。
 寝不足になるから嫌だとか、面倒くさいから嫌だとか言いながらも、当日いそいそと出かけた自分を思い出す。嬉しそうな桜木を見るのが、好きだからだ。嬉しいからだ。それを表現することは、流川には難しかったけれど。
 時々、心配そうに覗き込んでいたのを思い出す。寒いか? 眠いか? 帰りたいか?
「うるせー。ごちゃごちゃ言ってねーで早くしろ」
 そう言ったところで、参拝客の列が短くなるわけでもないし、日の出時刻が早まるわけでもないけれど。
 いつもそんな風にしか返せない自分を恨んだ。
 だからかな。だからかもしれない。だから桜木は愛想をつかして、一緒に誕生日を祝おうなんて、思わなくなったのかもしれない。
 そうじゃないんだ。
 流川だって、桜木の誕生日にはまたこうして計画を立てるのだろうと、楽しみにしていたのに。
 あいつが好きだって言う、苺のショートケーキを買って、プレゼントを渡して、一緒に誕生日を祝おうと。
「……あ。プレゼント」
 そういえば買っていない。カレンダーなんて、元々見ないほうだ。日付はわからなくても曜日がわかれば学生なんてやっていける。
 四月一日がこんなに早くやってくるなんて。てっきり、あと何日だ、今度の何曜日だと、うるさいくらいに言ってくるものだとばかり思っていたから。
 気が付いたのは校門をくぐったところで、一瞬ひき返そうかと思ったけれども。
「おう、流川。相変わらず早いな」
 宮城につかまった。
「……っす」
「ちょっとな、フォーメーションのことで意見聞きてーんだけど、いいか?」
 少しためらってから、流川は頷いた。


 着替えを済ませて、宮城と体育館で話し込んでいると、至って普通に桜木がやってきた。「ちゅーす」と戸口で挨拶をし、こちらに気付いて寄ってくる。
「リョーちん。ルカワなんかと何やってんだ?」
「おめーも早いな、花道。まぁ、ちょっと来いよ」
「何だよ」
「フォーメーションのことなんだけどな……」
 普通に横に並ぶ桜木に、流川は妙な気持ちになった。嬉しいのか哀しいのか、よくわからない感情だ。
 さけられてはいないようだけれど、何も言ってこないのもおかしい。何も言ってこないのは、どうでもいいからなのだろうか。それとも、単に忘れているだけなのだろうか。
 忘れてる?
 らしくないことだけれど、ありえないわけでもない。
 宮城と話し込んでいるその横顔をじっと見る。視線に気付いたのか、桜木が顔を上げた。
「ルカワ?」
 眉間にしわが寄っているだろうとは想像がつく。だから宮城が止めに入ったのだろう。
「おいおい。何が気に入らねぇのか知んねーけど、けんかはすんなよ、けんかは」
「いや、そうじゃなくて……」
 それに桜木は慌てて返事をする。声音は心配を含んでいた。じゃ、何だよ。その疑問が浮かんだときに、現れたのは彩子だった。
「あら、早いのね、あんた達」
 ぱっと振り返る宮城。
「あ、アヤちゃん、おはよう」
「おはよーっす」
「うす」
 おはようと、彩子が返すその姿に、宮城は既に足を向けている。
「アヤちゃん。今日の練習メニューなんだけどさ……」
 話が逸れたのをこれ幸いと桜木に目を向ければ、相手も丁度こちらを見たところだった。
「……そうじゃなくて、何だ」
 一瞬、小首を傾げかけた桜木が、思い至ったのか、あぁと声を上げる。
「いや。何か具合でも悪ぃのかと思って」
「別に。何ともねーよ」
「ならいいんだけどよ」
 心配されたことにほっとする。そんな自分を半ば馬鹿だと思いながら。
 あの様子じゃ、この話は一旦終わりだなぁ。独りごちる桜木に、流川は先を続けた。
「そんだけ?」
「え?」
 今度こそは、本当に何を言われているのかわからないようだった。
「他には?」
「他に?」
 オウム返しに首をひねる桜木に、流川は聞き続ける。
「何か言うことねーの」
 実は今日誕生日なんだ、とか。
「これと言って、ねぇけど」
 困惑気味にそう言う桜木に、そっかと流川はため息をついた。
 話は終わったと、てんでんに部活の準備に取り掛かる。
 きっと忘れているのだ、今日が誕生日だってこと。だから、流川にも伝えなかった。伝えられようはずもなかった。それだけのことなんだ。
 半ばほっとしながらそう思っていると、赤木晴子がやってきた。桜木が惚れている女だ。
 惚れていた女だ、と訂正したいけれど、流川には今ひとつ出来なかった。だって桜木は、未だに晴子を前にすると顔を赤らめる。ほら、今だって。
 モップをかけながら何気なく眺めていると、晴子がなにやら桜木に差し出している。
「はい、これプレゼント。桜木くん、今日誕生日なんでしょ?」
 一瞬、桜木がこちらを気にする気配を、流川は感じた。背中をむいているから、表情はわからなかったけれど、微妙に緊張しているようだ。動きがぎこちない。
「ええ、まぁ。そうなんすけど」
 照れているのか、後頭部に手をやりながら、そんな言葉を桜木は返した。
 そうなんすけど?
 流川は耳を疑う。二人から視線をひきはがし、気付かない振りをしながらモップがけを続ける。
「おー、そういえばそうだったな。おめでとう、花道」
「そんなに図体でかいくせに、学年で一番年下なんてね。あんたらしいわ。おめでとう」
 そう言いながら、彩子もなにやら渡している。よかったわね、晴子ちゃんに部員の中で一番に祝ってもらえて、とか何とか、耳打ちしている。
 流川は務めて気付かない振りをしていたが、桜木もこちらを見ないようにしていたことには皮肉にも気付いてしまった。
 わざとだったのだ。わざと、流川には伝えなかった。
 桜木は、自分の誕生日を忘れてなどいなかったのだ。


 何でだ、どうしてだと自分の中で繰り返しても、答えなど出るはずもなく――いや。認めたくない答えしか、見つけられなかった。
 一連のやり取りの後、ばつ悪そうに桜木はこちらをうかがったけれど、どう見返せばいいのかわからなかったから、用意に専念している様を決め込んだ。
 気付いていないと、ほっとしたのか。その割には少し残念そうな顔で息をつく桜木を、流川ははかりかねた。
 さけられるかと思っていたが、桜木は至って普通で、それがまた流川を困惑に落とし入れる。
 部活が始まる前や、終わった後。他の部員達も、今日が桜木の誕生日だと知って、おめでとうと声をかけるたび、流川は桜木から視線をそらした。神経を研ぎ澄ました。ありがとなと返す様子をうかがった。
 普段の桜木なら、「みんな祝ってくれてんだ、てめーもおめでとうの一言ぐらい言ったらどうだ」ときてもおかしくはないと思う。けれども桜木は、こと誕生日に関しては、流川に一言も振らなかった。
 何でだよ。「一緒に祝いたくない」から一気に「祝ってほしくない」に飛んだのだろうか。何が原因で?
 思い当たる節ならありすぎるくらいある。何故今更、と言ってもおかしくないくらいに。
 後片付けのとき、わざわざ姿を見せた水戸が、一言二言桜木と言葉を交わして行った。きっとこの後、軍団連中と祝うことになっているのだろう。
 たかが誕生日を祝えないってだけで、こんなにも辛い思いをするとは、想像もしなかった。
 二人きりになった部室で、流川はロッカーの扉を壁代わりに使う。何でもないことをしゃべり続ける桜木に上の空で相槌を打ちながら、流川は隠れてため息をつく。
 何でだよ。嫌いになったのなら話しかける必要もないだろうに。
「わかんねー」
「何が?」
 不意にはっきりと耳に届いた声に見れば、桜木がきょとんとした顔を向けている。思わず声に出していたのだと知って、流川は別にと言葉を濁した。
「何でもねーよ」
「何でもなくはねぇだろ。おめー、今日なんか変だぞ。どっか痛ぇんじゃねぇの」
 確かに、鈍い痛みを感じる部分はあるけれども、桜木が心配しているのはそんなことじゃないだろう。
「どこも悪くねー。……誕生日のどこがそんなにめでてーのか、わかんねーだけだ」
 取り繕った言葉に、桜木は影を含んだ微笑を返した。一瞬の出来事で、錯覚だったかもしれない。「わかってねぇなぁ」と苦笑を混じらせ、流川から視線をそらしたから、はっきりしたことは言えなかった。
「誕生日はな、めでてぇだけじゃなくって、すげぇ日なんだぜ。奇跡の日でもあり、感謝の日でもある」
「感謝?」
「考えてもみろよ。そもそも、生まれてこなけりゃ、オレたちだってこうしていることもなかったんだぜ。産んで、育ててくれた親に、感謝しなくちゃな」
 何でもないことのように話す桜木の横顔を、流川はじっと見つめた。その胸中に思いを馳せようとする。今の自分には、ちゃんと理解することは出来ないかもしれないけれど。
 振り返った桜木が、目が合った途端にっと笑う。心配するなとでも言いたいのだろうか。自分が今一体どんな顔をしているのか、流川には分からなかった。
「……奇跡ってのは?」
 着替えを終えた桜木が、手近な椅子に腰を下ろす。壁の必要がなくなったので、流川もロッカーを閉じた。
「今があることが奇跡だ」
「は?」
「誕生日ってのは重要だぜ? オレなんか特にそうだけど、一日、生まれてくるのが遅かったら、きっと違う人生を歩んでた。全く違う桜木花道になってたと思う。おめーにも出会わなかったろうしな」
「何で」
 気に食わない言葉にムッとすると、桜木は少し嬉しそうに表情を変えた。
「学年が変わるんだよ。同級生じゃなくなるんだ。おめーともな」
 明るい顔してそんなことを口にする桜木をねめつける。
 出会ったことを、今まで当たり前だと思っていた。当然のことだと思っていた。けれど、出会わなかった可能性もあると、桜木はそんなことを言う。
 嬉しそうに。
「な。奇跡の日だろ?」
「偶然だって言うのかよ」
「いや? 必然だろ」
 少し大人びた感じでそう言うと、桜木は腕をのばして流川の両手を取った。そこに視線を合わせたまま、今度は自信のなさそうな声を出す。
「なぁ、ルカワ。オレ、今日誕生日なんだ」
「……知ってる」
 つむじに向かって言葉を返す。ようやく振られた話題に、けれども流川は複雑な心境だった。
「みんなが言ってたからか?」
 両手をもてあそぶ桜木の顔は見えない。言葉を待つその姿に、流川は小さく息をつく。
「今日だってのは、知らなかった。けど、四月一日だってのは、覚えてた」
 桜木が顔を上げる。驚いたのだろう。信じられないくせに嬉しい、そんな表情をしている。それに応えられないことを、流川は悔やんだ。
「だから、プレゼントなんて買ってねー」
 桜木が望んでいるような、完璧な誕生日は無理だ。
 なのに桜木は、
「充分だ」
 と言って、笑った。心底嬉しそうにだ。流川は目を伏せる。
「のんびりしてていいのかよ。待ってんじゃねーの、水戸たち」
 桜木は手を離した。見れば、たら〜り、という擬音が似つかわしい仕草と表情で、ばつ悪そうに視線をそらしている。
「あー、いや、あいつらは用事が」
 流川は目を据わらせた。
「……おい」
「何でしょう」
 明らかに、後ろめたそうな切り返しだ。
「なんで何も言わなかった」
「いやあの」
「何でだ」
「かっ、賭けてたんだよ。おめーがオレの誕生日、覚えてっかどうか。たった一回しか、それも、直接おめーに言ったわけでもねぇことをだな、覚えててくれたら、すげぇだろうなぁって思って」
 流川は目を眇める。
「覚えててくれて、オレ、すっ、すげぇ、嬉しかった。半端じゃねぇくれぇ。こんなに嬉しいもんだとは、思わなかった」
「ほーぅ」
「ほ、ホントだぞ。嘘じゃねぇぞ」
 誰も嘘だとは思っていない。もとより、そんな嘘をつくような奴でもあるまい。
 尋常でないほど顔を真っ赤にして、今にも火を噴きそうな桜木に、流川は口の端を引き上げた。
 声に感情が上らないのをこれ幸いと、反撃に出る。
「その賭けのせいで、オレは今日、ろくな目にあってねー」
「スミマセンでした」
「責任は取ってもらう」
 え、と顔を上げた桜木にむかって、流川は身をかがめる。一瞬の隙も与えずにチュッとその唇を掠め取ると、何事もなかったかのように上体を戻した。
「るっ、ルルル」
 あまりの出来事に、桜木は驚きを隠せないようで、今更と言ってやりたいほどに慌てふためいていた。
 それにほとほと呆れながら、流川は荷物をその手に取る。
「このあと、用事ねーんなら、うち寄ってけば」
「あっあるわけねぇだろっ。誕生日は」
「おふくろが、ケーキ焼いて待ってるっつってた」
 続く言葉をわざと遮って、流川は言う。いちいちそんなこっぱずかしい台詞、聞いていられるかってんだ。
 ケーキの言葉に反応したのか、桜木は落ち着きを取り戻すと、こほんとひとつ咳払いをする。
「それを早く言いなさい」
 余裕ぶって席を立つその姿に、嫌味を交えて流川は言った。
「オレからのプレゼントはねーけどな」
 けれども敵も強かで。
 振り返った桜木は、にやりと笑っていた。
「何言ってんだよ。もう充分貰ったぜ」

2004/05


きまぐれにはなるはな